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第6話

 出張初日、二月の札幌は晴れていた。  雲も薄く青い空から太陽が見える。天気予報を確認すると二日先まで晴れマークが続く。 「あーあ…」 「降ってない、ですね」  天候のせいでスケジュールが遅れることを最大に恐れていた了はひとまずほっとするが、福嶋はわかりやすいくらい肩を落としていた。 「しんしんと降りしきる雪国の雪が一度見たかったんですが、非常に残念です」  意外だった。鬼軍曹でも仕事以外にちゃんと興味があるらしい。赴任して初めて人間の感情らしいコメントを聞いたかもしれない。 「私の故郷は暑い地域でしたから、日本の雪に絶大なる憧れがありました。白い積もりたての雪で雪合戦がしたかったのですが」 「ご冗談を」  笑顔の仮面を被ったこの上司が雪の中はしゃぐ姿をどうしても想像できない。生まれた時からデスクに座って書類をチェックしていそうだ。  空港からは私鉄と地下鉄を乗り継いで営業所まで移動する。ホームで電車を待つ時間、自分の緊張を解す目的も兼ねて間を持たせる話題を探す。 「福嶋さん、日本での長期滞在は初めてですよね。カルチャーショックはもう経験されましたか?」 「定番ですが、やはりスクランブル交差点とラッシュアワーの車内ですね。特に電車は動画で何度も見ていたにも関わらず、自分がいざ経験すると壮絶でした。あと百円の回転寿司も行ってみましたがシステムに慣れないまま満腹になってしまいました」 「チェーンによってルールが違くって、おもちゃの新幹線で運ばれたりガチャポンできたりするんですよ。お一人で行かれたんですか?」 「はい。回る皿の速度が速すぎて戸惑っている内に何度も逃してしまいました」  超絶イケてる見た目の男が、安価な回転寿司でおろおろするさまを想像し、笑いを堪えられなかった。会社じゃ泣く子も黙る職位に百万馬力の仕事効率なのに、ひとたび外に出ればド素人の外国人観光客なのだ。 「あ、笑うなんてひどいですね」  すねたように口を尖らせるのも新鮮だ。 「では今度ランチで一緒に行きましょうか。僕が取ってあげますよ、福嶋さんのオーダーしたお皿」 「約束ですからね」  福嶋と仕事以外の会話をしたのは始めてだった。いつもは閉鎖されたオフィスで常に二人きりだし、怒られないかとびくびくしているのだが、今日は環境が違うせいか話しやすかった。  雪が降ってなかろうと、やっぱり東京よりは確実に寒い。鼻をすすっていると、向かいで福嶋がポケットティッシュを取り出し差し出してくる。 「はい、使ってください」 「ありがとうございます」  受け取って思いっきり鼻をかんだ。隣で福嶋が可笑しそうにしている。 「鼻が、トナカイみたいに真っ赤ですよ」  ちょん、と鼻先を軽くつままれて予期せぬ接触にドキッとする。基本的に紳士な福嶋はドラマなんかで見る「ワサップ、メーン」のようなごりごりの海外ノリは絶対にしないものの、ときどきこうして繰り出すスキンシップの距離がやはり近かった。  了は恥ずかしくなって顔を逸らした。 「わ、笑わないでくださいよ。しょうがないじゃないですか、だって寒いですもん」 「英語では、Jack Frost nipping at your noseって言うんです」  最近更新されている頭の英語辞書をフル回転でめくる。 「nip…えーっとそう、つねるだ。『ジャックフロストが鼻をつねってる』ですか?」 「そう、まさに今の了に使う表現です。ちゃんと英語を勉強してますね。さっきも飛行機の中で問題集開いていたし、偉いですよ」  初めてお褒めの言葉を頂いた。今まではだいたい小言や説教しか聞かなかったので、素直に嬉しかった。 「五月のTOEIC試験を受けてみようと思っていて」 「ほう、それはとてもいい心構えですね」  プロジェクトが終わればつかの間の秘書業も幕を閉じるのだけれど、つい最近英語力を指摘されたばかりだし、良い機会だからと申請した。目標があれば張り合いになるかと思ったのと、何よりあの怖ろしい笑顔をなるべく向けられたくないからだ。 「それはともかくどちら様ですか? ジャックフロストって」 「寒い季節にやって来る妖精です。ジャックが代表的な男の子の名前で、それに凍るという意味のフロストを名字にしたんですね」 「鼻をつねりにくるだけの妖精ですか? ずいぶん隙間産業ですね」 「でも冬の間中働いてないといけないのできっとサンタクロースより大変ですよ。日本には寒さを擬人化した言葉、ないんですか?」 「あ、冬将軍がいます」 「残念、それも元は英語のWinter Generalが語源なんです。ナポレオンがロシアに攻めた際寒さが原因で負けたとされていることからそう名付けられました」  日系とはいえ母国語が英語の人に日本語の訂正までされてしまった。言わずもがな福嶋は頭の回転が速いのだが加えて多岐にわたり博識だった。  別に張り合ってなどいないが勝てるものがこうもとことんないとさすがに凹む。了は腕組みをして考えた。 「うーん、じゃあ鍋奉行!」 「なべ?」 「鍋料理をみんなでつつく時にその場を仕切る役割の人です」  苦し紛れだったので嘲笑されると思いきや意外にも福嶋は噴き出した。あっそれ好きな顔、と反射的に思う。 「実在する人物の役割じゃないですか。全然擬人化じゃないですね」 「でも冬に大体出て来ますから、鍋奉行は。あ、ちなみにに網奉行もいます。焼肉焼く時に来ます」 「焼肉は冬の食べ物なんですか?」 「いいえ、一年中ポピュラーです」 「それじゃあもう本末転倒ですね」  会話がテンポ良く進むので自分でもびっくりだった。もしかして今まで福嶋のことを必要以上に恐れていたかもしれない。  いや、実際怖い上司であるのは間違いないのだが、雪合戦をしたがるくらいにいは人間じみた部分もちゃんと存在しているのだ。  ホームに響く福嶋の軽快な笑い声に誘われて強い風がびゅっと栗色の髪をなびかせた。同時に了がゆるく巻いていたマフラーがさらわれそうになる。  その尻尾を福嶋は素早く捕まえてぐるりと前に持ってきた。 「寒いんだからしっかり結ばないと駄目ですよ」  冷徹そうに見えて、世話焼きみたいだった。鼻先まできっちり巻き直されながら、ちらっと福嶋の顔を見上げる。 「あ、ありがとうございます」 「どういたしまして」  間近でいたわるようにささやかれた小声が、いつもの音程よりずっと低かった。聞き慣れたつるんとした耳障りの良い声ではなく、いつになく親密さを孕んでいてまた心臓が高鳴る。  つかみ所のない人だなと感じていた完璧な笑顔の下に秘められた、福嶋という素の人物が少し見えてくる。  雪で遊びたいなんて無邪気な一面があったり、しょうもない了の冗談にからから笑ったり、小さな事で褒めてくれたり。  暖かい繊維の内側、火照った頬が隠れていてくれてよかった。  ほんの少しだけ上司との心の距離が縮まった気がして、電車の到着を告げるアナウンスの中で了はこっそりはにかんだ。

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