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黒鳥の湖 9
「神田様を気に入ってなかったっけ?」
そう返しながら奥に長い衣裳部屋へと入り、新たな着物を衣紋掛けから降ろそうとしたら止められた。
「この衣装じゃないよ、奥のだって」
そう言うと蛤貝はするりとしなやかな動きで衣裳部屋の奥へと行ってしまう、この奥に置かれているのは滅多にしか着ることがない衣装が置かれている場所で、そこにあるのは上客の中でも更に特別なお客を接客する時にのみ着る着物だった。
黒地に銀糸で刺繍の施されたそれを手に取ろうとして、ひく と思わず怯んでしまうのは、滅多に着ない物だからだ。
「神田様はさぁ優しいすごく甘やかしてくれそうだけどー……」
くるっと指で丸く輪っかを作る。
そんなことはしてはいけないと黒手から常々注意されていると言うのに、蛤貝のこれは治る気配がない。
「もう少し、持ってる人がいいかなって。結局金額の折り合いがつかないままお帰りになったのだし」
今日来られた神田様だって、なかなかのお家柄の人で、候補にオレ達が上がるくらいの人だ。
それでも、あっさりと決めることができない金額を吹っかけられるから、そのまま帰られる方も多い。
「…………」
「那智黒もそう思うでしょ?優しい人がいい!これ絶対!だから、神田様はそこは合格だけど、でもどうせなら、お金もコネも持ってて欲しいんだもん。ここから連れ出してくれる人がいい!だって……下の部屋行きになんかなったら、ヒートでもないのにお客の相手させられるし、色んな人の子供産まなきゃなんだし」
蛤貝の言うことは、至極もっともだ。
ここにはオレがいる上の部屋、中の部屋、そして下の部屋と言う風にランクがつけられていて、上の部屋は上流階級でも特に限られた人間だけを相手にする。
そして中の部屋は一般の上流階級を、下の部屋は言うまでもなく子供は欲しいが金はない人間が通う所だ。それはつまり不特定多数を相手にして不特定多数のαの子供を産むと言うことで……
「そんなの、やっぱやだし」
そう言いながらオレの帯を結び始める。
そんなきっぱり嫌だし なんて言えるのは、蛤貝が上の部屋になる前提で育てられたからだ。小石の頃から教育も、作法も、房事の知識もしっかり詰め込まれて、それに相応しい才能を持った者だけが言えるわがままだ。
腰帯を結ぶ蛤貝の髪がサラサラと揺れる。
オレと同じ黒髪で、兄弟だから顔立ちも雰囲気も声もよく似ているはずなのに、何かが違うんだろう。蛤貝はどうしてだか兄のオレから見てもきらきらして見えるし可愛い。
人目を引く華やかさがあると言うのが正しいのかもしれない。
同じ格好をして同じように身なりを整えて同じように立ったとしても、蛤貝が隣に立つと皆の視線はそっちに行ってしまう。
将来、個室持ち、それもトップである中央の「天元」に成れる素質のある人間だ。
それを蹴ってここを出て行くのか……と責められないのは、ここに居る以上天元になったとしてもやることが変わらないから。
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