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黒鳥の湖 20

 心を許せる、信頼できる誰かが手を引いてくれるなら、一歩踏み出してみたいとも思うけれど…… 「   」  口を開きかけて閉ざし、視線を外してしまったオレを追いかけるように時宝の手が伸びて、乱暴ではなかったけれど強い力で顎を掬われる。 「……旦那様がいない自分には、関係のないお話ですので」  拘束するような無粋な手つきではない。  なのにそこから逃げることが出来ないまま、整っているのに険ばかりの顔を真正面から見詰めた。  鼻筋の通った、日本人にしては彫りの深い顔立ちだ、泣き黒子のあるやや釣り目気味のきつい印象を受ける目元が緩むことはあるのかって考えたりもするけれど、それよりもちょうどいいくらいにふっくらとした形のいい唇の方に視線が行った。  触れたら気持ちよさそうな滑らかさが見てわかるそれに、触れられるものなら触れたくてたまらない。 「私を買われる方はいらっしゃらないでしょうから」  言葉を選んでいるのか、微かに動くような気配を見せる唇をじっと見つめる。 「そんなことはないだろう」  費用の面から見ても、個人の魅力の面から見ても、客は蛤貝を選ぶだろう。  劣る人間をわざわざ高い金を出して買う必要はない。 「旦那様も蛤貝をお選びになりました。そう言うことです」 「そんなことはない」  繰り返し繰り返し、この人は何を言うんだろう。  オレを選ばなかった本人に、根拠のない慰めを延々と繰り返されて嬉しいと思うのだろうか?  段々と時宝の視線に晒されるのが苦痛に思えてきて、無礼なことだとわかっていたけれどがっしりとした男らしい指から逃げるように顔を振る。最初はそれでも離してはくれなかったけれど、二度三度といやいやと駄々をこねるように首を背けると、渋々と指先が離れて行った。 「   外には、竹はない」 「は ?」  知識としては知っている。  もし、ここから連れ出してくださる旦那様が現れた時、世間知らずでは旦那様に恥をかかせてしまうから、世界がどう言った場所がなのかも、買い物の仕組みや生活に必要な手続き等もすべて学ぶ。  だから、それを言われてもだからなんだ?と思うだけなのに、何故だか時宝がそう言うときらりと光っているように思えた。 「こことは全然違う」  「見たいか?」と続くんじゃないかって息を詰めたけれど、時宝からその言葉は出ることはなくて居心地の悪い沈黙が流れて。  本来ならこんな沈黙にならないように会話を提供しなければいけないのだけれど、また叶わない夢を聞かれるのではないかと思うとなかなか唇は動いてくれなかった。 「   俺は、跡取りを残す義務がある……」  「は?」と言う言葉は寸でで飲み込んだ。  突然の訳のわからない発言を訝しむべきなのか、それとも好奇心に任せて聞き続けるべきなのか迷っている内に、時宝は続きを喋り出す。

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