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黒鳥の湖 33

「なんだ、那智黒。お前、蛤貝についていながら蛤貝の旦那のことそんな目で見てたのか?ナニのサイズまで考えるような、さ?」  大袈裟なほどに首を傾げるから、結わえられていない長い黒髪がさらさらと落ちてオレの頬を打つ。  それが不愉快だったのか、言葉が不愉快だったのかははっきりとしなかったけれど、薄墨の存在を遠退けるためにぐいとその体を突っぱねた。  一瞬、薄墨の顔がくしゃりと歪んだように見えたけれど、今のオレにそれに構っている心の余裕はない。 「…………」  今なら、まだ引き返せる。  黒手はもう『盤』への帰路に着いているだろうし、連絡をすればすぐに飛んで帰ってきてくれるはずだ。いや、担当の黒手ではなくとも、『盤』には相談に乗ってくれそうな黒手はまだ他にもいる。  よしんば蛤貝の身請け代を神田様が用意できたとして、じゃあ……蛤貝が身請けされた後のオレはどうなる?  そんなの、わかりきっているはずなのに……  幾らでも、この状況を覆すことができたはずなのに……  焦れるように疼く腹の奥を感じてそっと臍の下に手を置いた。  いつも焚かれている香の匂いとは違う、きつい馴染まない香りが一つ目の扉を開いた所で匂ってくる。  前戯段階でαが暴走しないようにと、薬よりは柔らかく発情を抑制する効果のある香なのだそうだ。慣れないせいか、その匂いに噎せそうになって入り口で立ち竦んだ。 「 ────蛤貝か?」  オレではない名前を呼ぶ時宝の傍に、「はい」と小さく返事を返しながら寄ると、シーツの擦れる音がしてベッドがぎしりと軋みを上げる。 「この暗さは、何とかならないのか。顔も見えん」  声は憤懣を溜めているのかいつもよりも刺々しく思う。 「申し訳ございません、行為に集中できるようにと言う決まりでございます」 「決まり決まりばかりだな」  思わず竦んでしまいそうになる声に動けないでいると、オレの気配を察したのか時宝は長い溜息を吐いて体勢を変えたようだった。  ぎしぎしと微かな音が消えるまでお互い何も言い出すことができず、ひどく息苦しい雰囲気だ。 「お お傍に行ってもよろしいでしょうか?」 「よろしいも何も、来ずにどうするつもりだ」  こんな非日常なことのせいで、時宝も気が立っているのか言葉の端々が鋭い。

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