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黒鳥の湖 32
「 ────ようこそおいで下さいました。めでたきこの日に寿ぎの御挨拶を申し上げます」
いつもより深い礼をして、黒手から学んだ口上を述べると時宝は僅かに眉間を寄せた後に神妙に頷いた。
硬い表情のせいかいつもと雰囲気が違うのは、さすがの時宝も今日と言う日を迎えて緊張しているからだろう。
「寝所にご案内いたします」
「 ああ」
返された言葉には間があり、何か質問でもあったのかと窺うような視線を遣ると、時宝は緩く首を振ってオレの頭をぽんぽんと叩く。それはいつも通りの仕草で、オレはなすがままに髪を撫でられるのを享受する。
いつも通りの、優しい手だ。
オレは今から、この手を裏切る……
「大丈夫か?」
「え?」
「具合が悪そうに見える」
「…………いえ、 平気 です」
何も知らないままこちらを見下ろす時宝に、本当ならば縋りついて謝罪し、本当のことをぶちまけてしまいたい衝動に駆られて……告げようと逡巡する間に唇が微かに震える。
時宝はそれをじっと見て何か言いたそうだった。
「……では、爪は整えられましたでしょうか?」
「ああ」
「それでは、ご説明いたします。寝所に入る前に中和剤を飲んでいただきます、そして入られましたら風呂にて体をお清めください。寝台にございますボタンで消灯していただきますと、それを目安に蛤貝がおとないますので 」
愛でていただければ の言葉が出ない。
震えてわななく唇に、時宝の視線が触れて……
「那智黒」
「 は、は ぃ」
みっともない消え入るような返事に自分自身が恥ずかしくて消え入りたくなる。
「どうした?」
「いえ……緊張しているだけです」
貴男を、騙さなくてはいけないから……
兄弟のせいか背格好が似ているために、蛤貝に用意された襦袢はオレにぴったりだった。
捨ててしまえたらと思いながらこれを握り締めていたのがつい先日のことだとは思えなくて、ぎゅっと拳を作ってそれを見詰める。
「ほら、これ飲んどきな」
にやにやと笑う薄墨が手渡してきたのは小さな丸薬で、何の薬かわからないために胡乱な顔をしていると「発情薬だ」と告げられる。
『盤』では極力薬は使わない方針で、それは本来の目的である生殖に対しては特に顕著だった。
いくら下の部屋の住人だとしても、これを持っていると言うのは余りにも異常なことで……
「下の部屋にいる奴の救済策さ、アルファによっちゃナニがでかすぎて入らなかったりもするからさ。流石に裂けてまでセックスしろとは言わないだろう?」
「ぅ 」
生々しい話に薬を握り締めて俯く。
「あのアルファもでけーだろ?」
「そ そんなこと知らないっ」
「背の話さ」
そう言うと薄墨は意味ありげな顔でオレにもたれかかり、整えられた細い眉を片側だけ上げて見せた。
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