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黒鳥の湖 42

 さっと視線が動いた先に何があるのか一瞬で理解できたオレは、とっさに首の後ろを押さえて後ずさった。  そこに何があるのか なんて、オレ自身が一番良くわかっている。  熱に浮かされて、譫言のように囁かれる懇願に…… 「…………」 「契約になかったことまで許してしまうなんて」  ぶる と体が震えて崩れ落ちそうだ。 「…………貴男は、事の重大さが分かっているのですか?」  今まで見たこともないほど、深く刻まれた眉間の皺は黒手を憔悴させて見せ、このことに対する落胆がどれほどのものだったかをオレに教える。 「なぜ、最初に連絡をしてこなかったのですか?」 「……」 「私でなくとも、せめて津布楽先生や他の黒手に相談することもできたでしょう」 「 ……それ は」  幾度も幾度もそれは考えて、けれど二人の提案に乗ったのはこんなことをした蛤貝の行く末を案じたことと……  ほんのわずかな、あさましい期待のせいだ。  正直に言えば、時宝に抱かれたかった。  これからの人生で、物好きな客がオレを指名するかもしれない、見も知らない将来の旦那様よりも、初めてくらい……恋しいと思った相手に抱いて欲しかったから……  そんな下心が、なかった訳じゃない。  言葉に詰まったオレを見下ろした黒手が、ぐっと唇を噛んで首を振る。 「時宝様がお目覚めになる前に身なりを整えなさい、お見送りしなくてはなりません」 「……はい」 「話は、それからにしましょう」  黒手の顔色は青いままで、その心情がすべて透けて見えるようだった。  部屋を暗くしていた雨戸を開き、中に光を差し込ませるとすぐに時宝が気が付いたようで、扉の前に控えているオレに「蛤貝っ⁉」と鋭い声が響いてきた。  その声はこれ以上ないほど切羽詰まっていて、切実で、愛しい者を呼ぶ声だった。  着物の袖でも握り締めたかったけれど、皺を作ることもできないので仕方なくぐっと息を詰めたあと、泣きそうな心を宥めるために深く息を吸い込む。  それを幾度か繰り返してから、「旦那様」と声をかけた。 「蛤貝か⁉どうして部屋にいない?」 「申し訳ございません、私は那智黒でございます」  そう言った瞬間、扉のすぐ近くではっと息を飲む気配だけがする。 「蛤貝はただいま身を整えておりますので、旦那様にはサイドテーブルのアルファ用抑制剤をお飲みいただき、今しばらくお待ちいただきたく存じます」 「…………」 「お着替えもご用意しておりますので、もしよろしければお使いくださいませ。では、失礼いたします」  扉を隔てているのだから、必要ないとは思いつつも深く頭を下げると、その拍子にぽとんと雫が床に落ちて広がった。

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