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黒鳥の湖 43

「…………那智黒」 「は  」  「はい」と返事をしようとしたけれど、一度堰を切って溢れ出した涙を堪えることができず、涙声になってしまっているのは明白だ。  はっきりとした返事が出来ないまま呟くような返事を返すと、時宝は「いや」と声を出したきり何も言わなかった。  先頭に立つ蛤貝と、その後ろに黒手とオレ、更に数人の小石達が時宝に恭しく頭を下げる。  その大仰さに時宝は一瞬鼻白んだような表情を見せたが、一歩進み出た蛤貝がにこりと微笑むとオレ達のことはどうでもよくなったようだった。 「旦那様、お疲れ様でございました」 「ああ」  逡巡を見せてから時宝は言葉を続ける。 「体は?ずいぶんと無理をさせた自覚はある」  そう言うと時宝はさっと蛤貝の顎を掬い上げて具合を窺うように目をすがめた。  先日までの、どこか一線を引いたかのような接し方ではない、明らかに親密になった時宝の接し方にぐっと息が詰まりそうになる。 「 少し  その 」  そう言葉を区切り、蛤貝は伸び上がって内緒話をするように手で口元を覆いながら何事かを時宝に告げた。  内容が何か は聞こえなかったけれど……  いつも厳めしい時宝の顔が少し緩んだような気がした。 「では見送りはもういい、体を休めろ」  いつもオレの頭を撫でていた手が蛤貝の頭を撫で、それから迷ったそぶりを見せてからぎゅっと細い体を引き寄せる。 「すぐに会いに来る」 「  はい」  にっこりと返事をする蛤貝と時宝の姿が、仲睦まじい恋人同士に見えて……奥歯を噛み締めたせいかギリ と嫌な音がした。 「黒手。蛤貝をよく休ませてやってくれ」 「はい、旦那様の御指示の通りに」 「それから  」  名残惜し気に蛤貝を手放しながら指先で黒手を呼び寄せ、他の人間に聞こえない声量で何事かを告げる。言葉を聞いた黒手は驚く素振りも何も見せないまま、いつも通りのとり澄ました涼し気な表情のまま神妙に頷き返す。 「そのことに関しましては、日を改めましてお話したいと存じます」 「ああ、それでいい」  では と歩き出す時宝を見送るためにその前に出ようとしたが、体の奥の攣るような痛みにつんのめって下駄がカコン と音を響かせる。  はっとその場にいた人間が息を飲む気配がして、時宝を窺う空気が流れたけれど時宝は僅かにこちらを振り返っただけで、そのことに対して何か反応を示すことはなくて……  一言、声をかけることすらなかった。  かん かん  と風が吹くたびにどこかから竹の打ち鳴る音がする。  いつもならば、隣を歩け、何か話せ と文句とも言えないようなことを言ってくるのに、今日はオレが後ろを歩いていても何も言わない。

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