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黒鳥の湖 96
「 」
蛤貝の唇が「行かないで」と動く。
この距離でも何を言っているのか分かるのはそれだけオレ達が親密で、幼い頃からお互いを支えに過ごしてきたからだ。
いつからかそれは歪になって、執着はまるで入り組んだ迷路のように絡まってしまって……
駆け寄ってその絡まりを解いた方がいいのではと逡巡を見せた時、時宝が緩く首を振って歩き出す。
「あ 」
「少し距離を取った方がいい」
「でも、蛤貝は 」
「頭に血が上った状態では碌なことにならないだろう。兄弟げんかは少し冷ましてやることも大事だ、お互い冷静になることが出来れば違う道も見えてくるだろう」
その言葉を否定するわけではなかったけれど、このまま蛤貝を置いて行くことに罪悪感が沸かないわけではなくて……
けれど、時宝の提案以上に良い案を出すこともできず、泣き崩れる蛤貝を振り切るようにきつく目を閉じる。
「────それでも、ここに残りたいか?」
オレを抱き締めたまま迷うことなく歩き出す時宝は、残りたいと言っても止まるような雰囲気ではなかった。けれどそれでもこうして訊ねてくれるのは、オレの意志を尊重しようとしてくれているんだろう。
頑固そうな、険しい横顔。
涼やかな目元と、色気を含むほくろ。
それから、オレの名前を優しく呼ぶ唇に視線をやると、それに気づいたのかこちらをちらりと覗き込んでくる。
「 時宝様は、よろしいのですか?」
わずかに足を止めたのが返事の代わりなんだろう。
「蛤貝は、時宝様の運命です」
時宝に温められてホカホカとしていた体が急に冷めるような感覚がして、胸の内に暗い虚が生まれたようだった。
「子供 が、欲しいのでしたら ここまでされる必要はありません。運命を置いて、私を選ぶ必要はないのです。こんなことをしなくとも 」
子供はお手元に……の言葉が震えて唇から出なかったけれど、時宝は理解したようで神妙な顔で蛤貝を見遣ってからオレの方へ向き直った。
「しっくり来ている」
飾り気のない言葉は簡潔すぎて理解が追いつかず、窺うように首を傾げてみせるとやや考え込むようなそぶりを見せる。
「蛤貝が傍らにいても落ち着かないだけだったが、お前がいると落ち着く、俺の腕の中にいると思うとそれだけで 」
続けようとした言葉は促すように首を傾げてみても出てこず、引き結んだ唇は動く気配を見せなかった。
けれど、ほんの少し赤らんだような目元が……
時宝自身がそれに気づいたのか、誤魔化すように顔を背けられてしまう。
「 だから、オレはお前を選ぶ。それでは納得できないか?」
「わた しは、 」
突き放された苦しさも、
選ばれなかった辛さも、
首の噛み傷も、
腹に宿る命も、
時宝の与えてくれるものは例えそれが痛みを伴うものだとしても、オレから切り離すことができないほど大事で、愛おしくて……
「私は、一生お傍におります」
強い風が吹いたために鳴り響く竹の音に負けないように、はっきりとそう言葉を返した。
END.
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