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苦い人生 32
これは、あの人の物なのだろうか?
あの人は、この部屋に来たことがあるんだろうか?
そして、悌嗣の匂いのするベッドに横たわったのかもしれない。
かもしれない……
本当、に?
オレが痕跡を見つけれていないだけで、もしかしたら幾度も来たのかもしれない。
幾度もここで、オレにしたように、丁寧に、優しく、甘く、愛を囁いたのかもしれない。
「 っ 、あ 」
ばたばたばた と大粒の雫がカミソリの上に落ちて大きな音を立てた。
ああ、もう、だめだ、
落ちた水がカミソリの隙間に滑り落ちて行って、刃を引き出すと銀色の鏡面の上に震えるように水の玉が幾つも結ばれていて……
それを振り払うようにして握り締めると体中が震えてパタパタと雫が床に落ちる。
皮膚の上にそれを降ろすと、冷たいとばかり思っていたのに妙に熱くて灼けているのかと思ったほどで、でも血管に沿って力を込めながら引くとゾクゾクと全身が粟立つような冷たさと、どこから来るのかわからない寒気に苛まれて……
「さむ 」
流れ出る血くらいは温かいだろうと思ったのに、どうしてだか膝に垂れる血はひやりとしている。
「どうしてかな……?」
心が、冷たくなってしまったから?
叶わないと思っていた悌嗣と両思いになって、甘い、甘い、心躍るような生活で、そんなことを思う日が来るなんて思わなかった。
なのに、実際は尋ねたいことも尋ねることができないまま、苦い苦い言葉ばかりを飲み込む人生で……
「はは ……、あぁ、それでも、 」
悌嗣がくれるすべては甘くて、
でも二人で暮らした日々は、オレにとってはこれ以上ないほど苦い人生だった。
END.
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