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第4話

○●----------------------------------------------------●○ ↓現在、以下の2つのお話が連載中です。↓ 毎日昼の12:00時あたりのPV数を見て、多い方の作品をその日22:00に更新したいと思いますmm ◆『君がいる光』(幽霊×全盲の青年 ) https://youtu.be/VPFL_vKpAR0 ◆『春雪に咲く花』(探偵×不幸体質青年) https://youtu.be/N2HQCswnUe4 ○●----------------------------------------------------●○ 「久周(ひさのり)! 帰ってきたのか!」 凜とした声が響いて、春海は目を開く。一瞬、何が起こったのか信じられなかった。 ──見えている! 慌てて飛び起きて、辺りを見回す。 畳に、床の間。浮かし彫りの欄間。開け放たれた障子。 どうやら今自分がいるのは、どこかの座敷らしかった。それ以外はわからない。辺りの景色は、まるで水の中で白黒映画を見ているかのように色がなく、輪郭もぼやけている。 だが見えている! それだけは間違いなかった。 春海はもっとよく見ようと、忙しく辺りを眺め回す。ふと、開け放たれた障子の向こうの縁側に、二人の男が立っていることに気がついた。どちらも青年くらいの年齢で、親しげに話をしている。 「どうだ、海軍士官生は? 青島将校?」 「もう大変だよ。毎日、こき使われて」 あははと、一人の青年の深く朗らかな笑い声が座敷にまで届く。 (あれ、この声って……) 興味を引かれて、春海はそろそろと障子に近づいた。青年たちは、春海の存在に気がついていなのか、振り向きもしない。 青年二人のうちの一人は、色の濃い着物を着ていた。細身な体格で、生まれてから一度も日に晒されたことのないような白い肌をしている。長い艶やかな前髪が顔の右半分を覆っていて、春海のいるところからはよく容貌が窺えない。 そして、もう一人——朗らかに笑っている方の青年は、軍服を着ていた。 軍服? 春海は、人生で初めて目を凝らすという行為をした。 軍服は眩しいほどの白だった。広い肩を房飾りのついた肩章が彩っていて、細い腰にはサーベルを佩いている。 背は高く、軍服が均整のとれた身体をさらに引き立てていた。 一方、完成された体格とは対照的に、顔にはまだあどけなさが残っていた。二十代前半くらいだろうか。短く刈られた髪は日に焼けていて、笑う度に高い頬骨が上がる。庭から差す光が、切れ長の瞳に反射してキラキラと光っていた。 春海はしばらくの間、その姿をぼおっと見ていた。生まれてこの方、誰の容貌も見たことがない春海でも、彼が滅多にいない美男子であるということだけはわかった。 「誰だ?」 ふと着物の青年の方が、春海の方をちらりと見た。 「どうした? 何かあったのか?」 軍服の青年も、つられて座敷を見る。しばし座敷に視線を巡らせていた着物の青年だったが、何もいないことを確認して首を振る。 「何でもない。気のせいだ。影が見えたような気がしたんだが」 「……目の調子、よくないのか?」 「そんな顔をするな。調子が良くないも何も、これは生まれた時から使い物にはならない。知っているだろう?」 「使い物って……そうゆう言い方をするなよ」 「本当のことだ。あーあ、俺もこの目が見えていれば、お前と同じ部隊に入れてもらえたのにな」 「!? 何を言っているんだ!? お前には神社があるだろう! お前が集落を離れたら、お目の父親──宮司が何て言うか」 「それが何だ。神様なんて、時代錯誤もいいところだろう? なのに、戦争が始まった途端『神道、神道』と祭り上げやがって」 「お、お前、村人の前でそうゆうことを言うなよ」 軍服の青年は、座敷に面した通りをキョロキョロと確認した。着物の青年が大げさに肩を竦める。 「はいはい、わかってる。それに、どうせ俺はここから出られないんだ。こんな目で生まれついた時から」 「目は関係ない。神に仕える身だから、汚れてはいけないだけだ」 「そういうお前はどうなんだ? 小さい頃から、ことある毎に俺を社から連れ出しては汚しただろう?」 「なっ、変な言い方をするな! 泥遊びとか、森へ登ろうとか提案してきたのはお前の方だろう!?」 上ずった声を上げた相手に、着物の青年は心底おかしいというようにクククと背を曲げて笑った。 「本当にお前は単純だな」 「そういうお前も、口達者なところは変わらない」 二人は示し合わせたように笑い出した。 その笑い声は、春海の視界が徐々に闇に沈んでいっても、いつまでも耳に木霊していた。 りんりんと虫の音がする。 春海は、むくりと布団から身体を起した。辺りは、生まれた時から慣れ親しんだ闇の世界に戻っていた。 (なんだ、夢か……) 苦い感情が喉元に広がる。 枕元にある時計を触って確認する。午前二時。 屋敷は、静寂に包まれていた。ギギギと時折鳴る家鳴りと、ガラス戸一枚隔てた虫の音以外、何も聞こえない。 春海は、(けい)から引っ越し祝いにもらった紺の浴衣の襟元をたぐり寄せた。やはり雨が近いのか、夜になってぐっと気温が下がった。 隣の座敷に意識を向ける。障子一枚隔てているので、そこにいる久周の冷気はわからない。 初めは春海の寝室で見張ると言っていた彼だったが、直前になって「やはり帝国軍人として……いや、日本男児としてそれはまずい」とかわけのわからないことを言って、隣の座敷に引っ込んでしまったのだ。 (久周。確か、夢の中の軍服の人もそう呼ばれていた……じゃぁ、もしかして、あの人が……?) 夢の中で見た男の姿が、鮮やかに目の奥に浮かぶ。 凜々しい顔立ち。眩しい笑顔。きらめく瞳。 それは春海が、幽霊(あいて)の声や口調、朧気に感じていた冷気の輪郭——断片的な情報から想像(妄想?)していた姿にそっくりだった。むしろ、本物の方が断然いい。 (って何を考えているんだ、僕は! 久周が、あの軍服の青年だと決まった訳じゃないのに) そうだ。幽霊の久周は、夢の中の青年のように若々しくもなければ、朗らかでもない。出てきた当初からカリカリ怒っていたし、その言葉の節々には、拭いきれないほどの苦みが染みついている。 (まぁ、それも当たり前か……) 彼は幽霊だ。生年月日を聞く限り、百才はとうに越えているだろうし、希望に満ち溢れた幽霊などいるはずがない。何があったかは知らないが、彼が辛い状況を越えてきたのは確かだ。 きっと長く過酷な年月が、彼をあんな日だまりのような人から、今の尊大で怒りっぽい幽霊に変えてしまったのだろう。可哀想に。 だが、嫌な人ではない。むしろ、いい人だ。 本人は通り抜けられるにも関わらず、わざわざ春海のために襖も開けておいてくれるし、料理をしていると「火加減がちょっと強いから気をつけろよ」と通りすがり際に教えてくれたりする。あれこれ指示してくる訳でも、自分が代わりにやると言うわけでもない(というか幽霊だから出来ないのだが)。本当に危ない時だけ声をかけ、あとは好きに放っておいてくれる。 その距離感が、春海にはとても心地よかった。 いくら夢見ていたと言っても、目の見えない春海が一人で暮らしていくには、それなりの苦労と心配、危険がつきものだ。だが久周は、それらをわずかながらでも少なくしてくれる。 自由だが、一人ではない。 それがどんなに安心できるものなのか、久周と暮らし初めて実感した。そして一緒に過ごす時間が長くなっていくごとに、彼への親近感がどんどんと増していく。 (そこへ、これだ) 春海は長いため息をつき、自分の両の掌の中に顔を埋める。 もし久周が、本当に、夢の中のような姿をしていたら? ドッドッと、心臓が籠に入れられた小鳥のように肋骨の中で暴れ回る。 ヒタヒタヒタ……。 その時、廊下から足音が聞こえてきた。重さを感じさせない空気のような足音。 「……久周?」 春海は障子まで這っていき、そろりと障子を開けた。ドクドクとまだ心臓が鳴っている。もし今、久周の声を聞いてしまったら、自分は平常心でいられるのだろうか、少し不安だった。 「久周……?」 もう一度呼ぶ。だが返事はない。 足音は徐々に春海の座敷に近づいてくる。その度、ピチャンピチャンと水滴が廊下に落ちる音が反響する。 冷たい風が障子をカタカタと揺らす。気がつかないうちに、座敷の中はあっという間に氷点下に届きそうなほど凍えた。何千もの冷気の棘が、浴衣から出た春海の肌をチクチクと刺しているみたいだ。 (何かがおかしい) 春海は両腕で自分の身体をさすりながら、座敷の中に一歩下がった。その拍子に、踵を障子の桟に引っかけ尻餅をついてしまう。 「うわっ……——!?」 ぴたりと、足音が座敷の前で止まる。途端、消毒液のような水の匂いがむわりと辺りに広がった。ほのかに錆びた鉄のような匂いもする。 いや、鉄じゃない。これは——血? ぞわりと全身の毛が逆立つ。首筋に直接、氷の塊を押し当てられたみたいだ。無意識に布団のあるところまで後ずさる。 すると、足音もひた、ひた……とゆっくり座敷の中に入ってきた。 ——これは、久周ではない。それだけは確信できた。 「……き、君は、もしかしてこの屋敷の幽──じゃなくて住人?」 勇気を出して尋ねてみる。 もし相手が何だとしても、相手のことをよく知りもしないで恐れるのは差別だ。偏見だ。自分はそんなことはしたくない。 「……もしかして、久周に会いにきた、とか……?」 ぴくりと、布団の前で相手が立ち止まった。水滴が春海の足元にボタボタと落ち、水と血の匂いを一層近くに感じた。 『……お前は……誰だ?』 何年も発していなかったような低く掠れた声だった。まるで井戸の奥底から発せられたように、壁にぶつかってぐわんぐわんと不安定に反響する。 「ぼ、僕……? 僕は——……」 言葉が急に出なくなった。喉が痙攣して、畳についた手足がガタガタと震える。 ここまでの恐怖を感じたのは初めてだった。偏見や差別でもいい。ただ本能が、逃げろと叫んでいた。 「……おい、どうした? 何か声が聞こえたけど?」 その時、隣の座敷に続く障子から久周の声がした。春海は雷に打たれたように、そちらを見やる。 「久……——!?」 突然、水の中に投げ込まれたような息苦しさが襲った。何か力強いものが、ギリギリと首を締め上げていく。 「……クッ……」 春海は首に巻き付いたものに爪をたてるが、掴めるものは何もなかった。どろどろとした水が手の指の間をすり抜けていくだけだ。落ちた水滴は浴衣の胸元を濡らし、身体がさらに冷たく、重たくなっていく。 『彼を出せ……でないと、……殺す……』 その言葉を最後に、ふっと首に巻き付く圧迫感が消えた。春海は布団の上で背中を丸め、ゲホゲホと咳を繰り返した。喉が空気を求めてひゅーひゅーと音をたてる。 「おい、どうした!? 大丈夫か!?」 気がついたら、隣に久周がいた。霧のような冷たい手が、ゆっくりと春海の背中を撫でている。少なくとも、そう感じた。 春海はここにきて初めて、ホッと息をついた。 顔をあげて、辺りを探る。座敷はいつの間にか、元通りのものに戻っていた。初夏の生ぬるい空気が廊下から入り込み、庭では虫が忙しなく鳴いている。 胸元の浴衣の合わせに触れてみる。しかし、濡れているところはどこもなかった。 「大丈夫か? 何があって——おい、どうしたんだっ、その手はっ!?」 「手……?」 今になってようやく気がついた。尻餅をついてしまった時、どうやら右手を変に捻ってしまったらしい。ジンジンと熱で痛み、触れてみると少し腫れてもいた。 だが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。 「……久周? 本当に、君なんだよね?」 顔を上げ、暗闇に向かって問いかける。答えはわかっているのに、聞かずにはいられなかった。 「あぁ、俺だ。隣にいる」 冷気が、捻って熱を持った右手にかかった。なめらかな絹の感触が、手の甲をさらさらと撫でていく。 不思議なことに一緒にいる時間が長くなればなるほど、久周の感触──魂の感触──を敏感に感じ取れるようになっていた。 (これも、波長が合うからなのだろうか……?) 「で、一体、何があったんだ?」 久周の声にハッと視線を上げた。かさついた喉を何とか整える。 「……誰か、誰かが来たんだ。……たぶん幽霊」 久周を取り巻く冷気が、緊張を帯びる。 「誰って、誰だ?」 「わからない。僕には見えないし。——君は何も聞こえなかった?」 その気はなかったが、あてこするように聞こえたのか、久周が「すまん」と呟いた。か細い声で囁く。 「……やっぱり俺はここにいるべきだったんだ。そしたら、他の奴らが入ってくるなんてことなかったのに……」 自責が滲んだ声を聞いて、春海は考えずにはいられなかった。 (どうして、この人は僕のためにここまでするんだろう……?) 答えはわかっていた。 久周がここまで必死になるのは、春海が彼の記憶を探すのに必要な人間だからだ。決して春海自身のためではない。 (探す、か……) ようやく落ち着いてきた脳に、先刻の出来事が甦ってきた。 あの幽霊も、何かを、いや、誰かを探しているようだった。 でも、誰を——? ぐるぐると考えを巡らせていると、ふっと久周の冷気が離れ、代わりに障子のすぐ側でぽすっと軽い音がした。 「……久周? 何をしているの?」 「今日から毎晩、ここで見張らせてもらう」 「え……?」 春海は一瞬、相手が何を言っているのかわからなかった。 「毎晩? そこで?」 「あぁ、俺がいれば、奴らも貴様に近寄ることはできないからな。安心しろ。この障子の前から離れたりしないから」 「別に、そんなのは気にしていないけど……」 もちろん本心だ。久周が側にいてくれれば、自分としても心強い。 なのに、どうしてこんなに落ち着かない気持ちになるんだろう? 暗闇の中、障子の方から漂ってくるなめらかな冷気を感じる度、どくどくと体温が上がって、喉がからからに乾く。 逃げ出したい、と同時に、もっと近づきたいという気持ちになってしまう。 ふっと、夢の中での光景が脳裏に浮かぶ。 陽だまりの中、朗らかに笑う軍服の男。 もし今ここにいる久周が、本当にあの男だとしたら……? カアッと顔に熱が集まり、ぐるぐるとお腹の中で熱いものが渦を巻く。 (本当に、どうしてしまったんだろう、僕は……) こんな状況で爆睡なんて、到底出来るとは思えなかった。せめて、久周の冷気から身を隠したくて、頭の上から布団をかぶる。 大丈夫だ。きっと寝て起きたら、なんともなくなっている。今はただ、さっきのことで頭が混乱しているだけなのだ。 そう思ったら、少しだけ気分が落ち着いた。 「おやすみ、春海」 ようやく眠気が意識の縁に波寄せてきた頃、障子の方からぽつりと聞こえてきた。その声は、降り始めの雨音のように優しかった。

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