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第6話

「どうだ? 何か進展はあったか?」 家に戻ると、久周が上がり框で待ち構えていた。見えはしないが、冷気でわかる。 答えようとして、言葉につまった。 ——君は戦争で死んだみたいだよ。 なんて、言っていいのかどうか。 結局、言うことは出来なかった。そもそも確証がない今、軽率なことを言うのは憚れる。 「う~ん、それがあんまり……」 「そうか……」 明らかに沈んだ声に、春海の気分まで重たくなる。白杖を持ち替え、玄関の引き出しを探る。 「どうした? 何を探しているんだ?」 「確か、どこかに蔵の鍵があったと思って……」 「それなら、右手の引き出しの中だ。昔と場所が変わっていなければ。でも、そんなの何に使うんだ?」 「イネさん──お隣のおばあちゃんが言うには、蔵に君の物も置いてあるかもしれないんだって」 「俺の物?」 ぱっと久周の声が一瞬、華やぎ、すぐに低くなる。 「……危ないんじゃないのか?」 てっきり飛びつくと予想していた春海は、相手の言葉に面くらった。 「危ないって、何が?」 「あそこは嫌な気配がする。俺もあそこには極力、近寄らないようにしているんだ」 「でるって言うのかい? 今は昼だよ?」 「そうだな。昼間、だな」 言下に「じゃぁ、俺は?」と言っているように聞こえた。 「でも、何かわかるかもしれないんだよ。僕だって、これからもここに住むとなれば、倉のことも知っておかなきゃいけないし──」 「わかっている」 久周は両手を上げ、渋々と言った様子で続けた。 「貴様の頑固さは嫌って言うほどわかっている。どうしても行くというなら条件を飲んでもらう」 「どうぞ」と手を差し出すと、久周は満足気に鼻息をもらした。冷気を纏う指を春海の顔の前で立てる。 「一つ、まず俺が先に行って異常がないか確認してから行くこと。もう一つ、セナを必ず連れていけ」 久周は春海の横にいるセナの背中を、気心知れた親友にやるようにポンと叩いた。 「セナには主人に何かあった場合、すぐにでも連れ出すように言い含めておく。それと念のため、『すまほ』というヤツも持っていけ」 「ううむ。了解しました。青島将校殿」 ピッと敬礼の真似をすると、久周がくすりと笑みをもらす。 「よろしい。三田新兵」 「入ってもいいぞ」 蔵の中から声がして、鍵で南京錠を開ける。ギギギと金属の重たい扉を開くと、埃とカビと樟脳の匂いが一気に鼻腔に飛び込んできた。くしゅんと、春海より先にセナがくしゃみをする。 蔵内はずっと締め切られていたせいか蒸し暑く、換気をするだけでも時間がかかった。天井には小さいながらも天窓がついていて、そこから暖かな秋の日差しが漏れ入ってくる。 「足元に気をつけろよ」 上の方から久周の声が降ってくる。何か潜んでいないか、もう一度確認して回っているらしい。 「さてと」 辺りに意識を巡らせた春海は、はたと今更ながら気がついた。 調べると言ったはいいものの、目の見えない自分に一体、何ができるというのか。一応、読み上げ用のアプリは持っているが、果たして大正時代の旧字に対応しているかわからない。そもそも長い間放置され、どんな状態かわからないものに手をつけるのは、普段以上に勇気がいった。 『蔵に行くなら気をつけなよ。あの放蕩息子が落ちたのもあそこなんだから』。 イネの言葉が、頭の中に反響する。 入口で途方にくれていると、ふわりと冷気が隣から漂ってきた。 「貴様から見て右手に本棚が並んでいる。左手には衣装櫃が積み上がっているな。どちらも埃はかぶっているが、異常はない。まずは本棚の方を見てみるか」 冷気が「ついてこい」と言うように、ふわりと肌を撫でていく。春海は考えるより前に、その気配の後を追った。 本棚は、東側の壁一面に据えられていた。春海は指の腹で、並んだ背表紙の箔押しタイトルを一つ一つなぞっていく。洋書もあれば和書もある。どれも埃をかぶってはいるが、大切に扱われてきたであろう、上質な布と紙の手触りを感じた。 隣に立つ、久周がこの世の終わりだと言わんばかりの声をもらす。 「哲学書ばっかりだな。……まさか、これが俺の趣味だとか言わないよな?」 「だとしたら、本当に君は記憶を忘れているみたいだね。君の言動から、哲学のかほりを感じたことは一度もないから」 「……おい、それ、どうゆう意味だ?」 あえて何も言わず、本棚と向き合う。 「にしてもすごいね。ここまであれば中には稀覯本とかあるんじゃないかな。もしかして財宝っていうのは、これのことなんじゃ——うわっ!」 足元にある何かに躓きそうになって、慌てて本棚の縁に捕まる。 「おい、大丈夫か? 何だ、それ?」 ひょいっと久周が覗き込んでくる。春海は屈むと、床を手探りした。床には本とレポート用紙のようなものが散らばっていた。どうやら躓いた時にぶちまけてしまったらしい。 「埃もそこまでかぶっていないようだし、もしかしたら例の孫息子さんとやらのものかもしれないね。この蔵のことも調べていたらしいし……ん? ってことは、もしかして、この中に宝の地図が?」 「やけに宝にこだわるな。そんなに財宝が欲しいのか?」 「何でわからないんだよ。宝の地図と宝探しは、世界中の少年の夢だろう?」 「ふうん、そんなものなのか。よくわからないな」 たとえ久周が何にせよ、金持ちだったに違いないと確信した瞬間だった。 「一体、何の本なのかな?」 一冊を手に取って、パラパラとめくってみる。 「ふうん、どうやら小河内ダム建設について書かれた本らしいな」 ひょいっと、久周が肩越しに手元を覗き込んできた。途端、深い森の匂いがふわりと漂い、感じ慣れた冷気が頬をかすめる。冷たいはずなのに、春海はなぜか自分の体温がふつふつと沸き立っていくのを感じた。 誤魔化すように、ぐいっと本を相手の方に押しやる。 「良かったら読んでくれないかな。僕はほら……朗読が得意なタイプではないんだ」 身を張った冗談に、久周は一瞬プッと吹き出し、すぐにごほんと喉を整えた。 「合図したらめくってくれ。どれ……『小河内ダムの建設計画自体は昭和初期からあったものの、小河内村の反対運動、神奈川県との水利紛争、第二次世界大戦の激化によって幾度も建設工事中断を余儀なくされていた。そのため近隣の村々は度々、河川氾濫の被害を受け』——あまり関係なさそうだな。その下にあるのは? 右だ、もうちょっと。そう、それだ。ふうむ。『水原の産業』? と、これは『地方の祭りと伝統』か。そっちは何だ?」 次々と指示してくる久周の言葉に従って、春海は一冊一冊、本を取り、めくっていく。 不思議な気分だった。 久周は幽霊だから、物を手に取ることはできない。でも見ることはできる。読むこともできる。 一方、春海は盲目だから、見ることはできない。読むこともできない。でも物を取ることはできる。 そんな二人が、お互いの足りないところを補うように一つのことをしている。 初めての体験だった。今まで、春海はどこにいてもお荷物だった。同情され、心配され、時に煩わしがられる役。でも、今は違う。二人——正確には一人と一柱?——は対等で、まるで相棒のように共に一つのことについて調べている。 ——嬉しい。 こんな自分でも誰かの——たとえ幽霊相手だとしても、役に立つことができるのだ。 「次はこれか」 久周の前で表紙を開けると、ううんという唸り声が聞こえてきた。 「柳、田……國男? の『日本の伝説』」 「えっ!? 柳田國男って、民俗学の?」 「知っているのか?」 「知っているも何も! 民俗学の礎を築いた人だよ! あ、そうか、君の時代にはまだ有名じゃなかったのかな……」 「そんなことより、何か上に紙が張ってあるぞ」 触ってみると、確かに本の上部にふせんが貼ってあった。該当箇所を開いて、久周に掲げて見せる。 久周は顎に手をかけ、ふむふむとそれを読み上げる。 「なになに……『われわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が、一段と神に親しく、仕えることが出来たのではないかと思われます』……?」 「神は目の一つある者が好き?」 脳裏に、夢で見た着物姿の青年の像が浮かぶ。 確か、あの人も片目だったような……。それに神社がどうのこうの言っていたし。 ということは、前にこの屋敷に住んでいたのは、やはり彼なのか……? そこまで思い至った時、久周がさらに続けた。 「もう一つ、紙が貼ってあるところがあるぞ。どれ、『何にもせよ、目が一つしかないということは、不思議なもの、またおそるべきもののしるしでありました』」 二人は互いに顔を見合わせる。 「しるしって、一体、どうゆう意味なんだろう?」と春海。 「わからない……紙が貼ってあるのはここだけだし。でも何か引っかかるな」 同じ箇所読み返しているのか、久周のブツブツと呟く声が聞こえてくる。 手持ちぶさたになった春海は散らばった本を一つ一つ触っていく、すると、指にカンバス地の本が触れた。開くと、つんと饐えた匂いが広がる。 「これって……イネさんが言っていたアルバム、かな?」 本を膝の上に置き、触って確かめていると、久周が覗き込んでくる。彼の冷気は頬をかすめるほどで、かなり近くに相手がいることがわかった。 春海はドキドキと鼓動を速める心臓を誤魔化すために、久周に尋ねる。 「どう? 何が写っている? 君はいる?」 期待と緊張が入り混じった声で聞くと、久周は縦に首を振った。 「あぁ。たぶんこの白い軍服を着ているのが俺だな。基本、幽霊は鏡に写らないから自分かどうゆう姿かは確認できないけど……ん? おい、ちょっと待てよ。これって……」 「どうしたんだい?」 久周は答えなかった。何か考え込んでいるのか、アルバムを見ながら「まさか、どういうことだ……」とぶつぶつと呟いている。 どうやら、集中すると周りのことが見えなくなるタチらしい。 初めは辛抱強く待っていた春海だったが、さすがに数十分も過ぎると沈黙を持て余し、今度は他の本棚を物色し始めた。だが紙をめくる以外何もできず、そのうち飽きて蔵の中を回り始める。最初は辺りを警戒して中々進んでくれなかったセナだったが、そのうちに慣れたのかいつものように障害物を避けながら進む。 春海の方も初めにあった未知の場所への不安はすっかりとなくなり、むしろ親しみやすさを感じ始めていた。 重厚な木と、古い紙の匂い。 春海はふと、小学生の頃に通っていた図書館を思い出した。当時、春海の家の周りで点字図書が置いてあるのはそこしかなく、放課後になると真っ先に教室からでてそこへ向かっていた。 その時は『シンドバッドの冒険』に夢中で、将来は海賊か船乗りになりたいと思っていた。悠大な海を、財宝を求めて駆け巡る。一体、どんな気持ちだろうと、想像するだけで何時間も時が過ごせた。 「……ん?」 頬に涼しい風がかすめた。清澄な水と、ほのかに香る刺激臭。どこかで嗅いだことがある匂いだった。 (一体、どこから?) くんくんと鼻をセナのように鳴らしながら、匂いがする方へと足を進める。あまりにも匂いを追うのに集中しすぎていて、セナがハーネスを引っ張ってくるのにも気がつかなかった。 「危ないっ……!」

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