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第1話(2)

○●----------------------------------------------------●○ ↓現在、以下の2つのお話が連載中です。↓ 毎日昼の12:00時あたりのPV数を見て、多い方の作品をその日22:00に更新したいと思いますmm ◆『君がいる光』(幽霊×全盲の青年 ) https://youtu.be/VPFL_vKpAR0 ◆『春雪に咲く花』(探偵×不幸体質青年) https://youtu.be/N2HQCswnUe4 ○●----------------------------------------------------●○ 忙しい人だね。──じゃ、さっそく入ろうか!」 門をくぐると、ふわりと梔子の香りが広がった。玄関口の横に植えられているあじさいは、ぽつぽつと花を咲かせていた。前に見学しに来た時には咲いていなかったものだ。 玄関前で一度立ち止まり、格子戸の桟に触れる。長い年月を経ても滑らかな桧の手触りを指の腹で楽しむ。 ひとしきり近くの建物の感触を楽しむと、春海は玄関の戸と向かい合った。一度大きく息を吸う。いざ中へ。 引き戸を開けると、ニスと若いい草の匂いがした。リノベーションした時のものだろう。続いてカビと湿気、線香のような白檀──古い屋敷そのものの香りが混じる。 春海はセナを連れ、土間にかけられたスロープを渡ると、座敷に入る。 座敷は一続きになっており、障子で各部屋ごとに区切られるようになっている。どうやらお隣さんは襖も障子も開け放しておいてくれたらしい。夏とは思えない涼しい風が外から屋敷全体に吹き抜ける。 「あとでお礼を言いに行かなくちゃね」 天井の長押を一つひとつ指で撫でながら縁側に向かう。欄間には、波と龍とおぼしき見事な透かし細工が彫られていた。 縁側でセナのハーネスを外し、あらかじめ障子近くに取り付けておいてもらっていた専用のフックにかける。 温かい日差しに誘われ、セナが大きなあくびをして縁側にごろりと寝転がる。春海も立ったまま大きく伸びをする。 屋敷は森の麓、集落の一番高いところにある。不動産屋がいうことが本当ならば、この南向きの縁側からは丁度、青く澄んだ奥多摩湖と、それを囲む大岳連峰という素晴らしい眺望が見渡せるという。もし見えるならば、だが。 (しかし、よくこんなところが売れずに残っていたよなぁ。そういえば、丹波さんはさっき何を言おうとしていたんだろう……) 一瞬だけ疑問が過ぎったが、じわじわと胸の奥から湧いてくるものにすぐにかき消されてしまう。 「やったっー! 一人暮らしだぁー!」 両手を思い切り上げると、縁側で微睡んでいたセナがビクリと顔を上げた。慌ててその横に膝をつき、宥めるように犬の背中を撫でる。 「あぁ。ごめんごめん。つい舞い上がっちゃって」 言いながらも、にやにや口元に浮かんでくる笑みを止めることは出来なかった。 一人暮らし! イエス! 一人暮らし! 一体、自分がこれをどれだけ望んできたことか! 多くの人にとってマイホームが夢のように、春海にとっては一人暮らしが夢だった。この世の中で、誰よりも待ち望んでいたといってもいい。 三田春海は、先天性の全盲だ。生まれた時から何も見えない。 視覚障がい者のうち七割以上は弱視者──少しは見える人で、まったく見えない全盲は三割以下。春海は後者だ。 そのせいか、春海の母親は息子に対して何かと過保護だった。春海を煩わし傷つけるものがあれば飛んで蹴散らす女戦士。 東に障害物があれば、行って蹴散らし、西にいじめっ子あれば、行って訴え……とにかく、そうゆう感じだ。 生まれた時から春海の周りには、春海がつまずいた時──身体的にも精神的にも──に備えて、医者とヘルパーと母親が常に取り囲んでいた。二十五歳になるまで一人暮らしを許してくれなかったのもそのためだ。 だが造形作家としてある程度食べていけるようになり、大型の作品に向けて広いアトリエが必要となったこともあって、今回何とか親を説得し一人立ちを許してもらったのだ。 ただし、毎日電話で異常がないか報告する条件つきだが。 もちろん(もちろん!)アトリエうんぬんは口実だ。本当は、一人暮らしができさえすれば理由は何でも良かった。一人暮らしができるのなら、たとえ地獄の釜の中でも、人食い蛇が横行する無人島だっていい。 ──自由な一人暮らし。 この日を夢見て、自分がどれだけ血の滲むような努力をしてきたことか。 掃除、洗濯、料理。最低限のことは一人で出来るように訓練した。もちろん健常者──晴眼者と同じようにはいかないところも多々あるが。 父親もそんな春海の思いを理解し、応援してくれた。ただしひっそりと。三田家の男──特に婿である父親を筆頭として、あの女性に表立って反旗を翻すことは死に近いと、みんな身に染みてわかっているのだ。 その後、時間をかけてゆっくりと家の中を廻る。内見に来た時に、間取りは完璧に頭に入れてあったのだが、もう一度廻って再確認する。 座敷は障子で四つに区切られ、一間がだいたい七、八畳ほど。今のところ縁側に面した南向きの座敷二つを居間と寝室にして、残りは荷物が片付くまでの物置き場にする予定だ。台所は玄関から入って廊下を真っすぐ突っ切ったところにある。座敷を挟んだ反対側の廊下は、風呂と洗面所に続いている。 さらにその廊下を真っすぐ進むと、アトリエとして使う予定の離れに続く裏口に出るという感じだ。 昔は蚕を飼っていたらしい離れは、まだ何の準備も設備もないので、奎が荷物を運んできてくれた時にでも改めて見ようと思う。 不動産屋の話では離れの横、庭の奥隅に蔵もあるそうだが、そこは改修しておらず危険なので行ったことはない。行く予定も今のところはない。 陽も落ちてきたため、残りの時間はラベル貼りに勤しんだ。点字プリンターを使って、家具や物に「机」「塩入れ」などそのものの名前の書いたラベルを貼っていく。当分はこれで都度確認しながら、物の正確な位置を覚えていく。 まだ荷物が全て届いていないから出来ることは限られていたが、終った時には夕方を過ぎていた。開閉式の腕時計を触って時間を確かめる。午後五時。 「そろそろ、ご飯にでもするか」 居間の隅においてあった旅行用鞄から、お弁当を引っ張り出す。行きに駅で買っておいたものだ。まだ皿も鍋類も届いていないので、自炊せずとも今日くらいはあの母親も許してくれるはず。 元々置いてあった紫檀のテーブルに箸とお弁当をきちんと並べ、手を合わせる。 「いただきます」 山菜ご飯を一口運ぼうとした時、ブルルと卓上においた携帯電話が鳴った。 ベートーヴェンのテンペスト、第三楽章。 着信音で誰かはわかった──母だ。 「あ、春ちゃん? どう、新生活の方は? 困ったことはない? 辛かったら、すぐにでも帰ってきていいのよ?」 電話に出るなり一気に捲し立てられ、しばらく口を挟む隙もなかった。 「ありがとう。でも大丈夫だよ」 と言えた時には、既に電話口には父親がいた。 「春海。母さんのことは気にしなくていいから。頑張るんだぞ」 そう言って、電話は切れた。電話の後ろで「気にしなくていいからって何よ!」と母親の甲高い声が聞こえたが、春海にできることは、父が無事であることを祈るだけだった。 再び箸に手をつけようとした時、またもや電話が鳴った。 サティのジムノペディ。 今度は、美術雑誌編集者、兼、友人の(けい)だ。 「もしもし」 「あ、春海? そっちはどうだ? もうついたか? 大丈夫か?」 母親と同じ反応に、思わず笑ってしまう。 「大丈夫だよ。引っ越し早々、何かを起すほどアクティブではないから」 「それならいいんだ。もし今度、アトリエに荷物を持っていく時、何か欲しいものがあったら言ってくれ。ついでに買っておくから」 それから数十分、都内で催されている展覧会や新しい作家の話をして、奎からの電話は切れた。 「はぁ、もうお腹がぺこぺこだ」 卓上に携帯を置いた瞬間、再び電話がかかってきた。 「まったく僕は人気者だね」 縁側で寝そべっているセナに笑いかけ、電話を取る。着信は、初期設定のままの簡素なベル音。 ──知らない人からだ。 「はい」と出ると、 「ああ、良かった!」 と丹波のおっとりした声が聞こえてきた。ホッと息をつく。 「どうしたんですか? 何か問題でも?」 「いえ、そうゆう訳じゃないんですけど、あの……大丈夫ですか?」 電波のせいだろうか、丹波の声は時折、低くひび割れて聞こえた。 「えぇ、大丈夫ですよ。母や友人からの電話で、おちおちご飯も食べていられないほどです」 「そうですか……」 明かな空返事のあと、丹波はおずおずと切り出す。 「……あの、さっきも言おうと思ったんですけど、本当に三田さんは、その屋敷について不動産屋さんから何も聞いていませんか?」 「? そうですが、何かあるんですか?」 「実はですね……その屋敷は──」 丹波は、辺りを気にするようにぐっと声を潜める。市役所にでもいるのか、後ろからは「本日の窓口は終了しました」とアナウンスが聞こえてきた。 「その屋敷は……幽霊屋敷なんですよ」

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