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第18話
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お忙しい方のための
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「おい、どうしたんだ、深影 ? どこか痛むのか?」
久周は突然、目をおさえて立ち止まった親友を振り返った。
紺の紬一枚しか着ていない深影のか細い身体は見るからに寒々しく、久周は自らの軍服の上っ張りをその肩に掛けた。
「ありがとう。それより——」
深影は顔を上げると、見えない方の目を押さえたまま辺りを見回した。
「ここは鍾乳洞か?」
「あぁ、まさかこんなところがあるなんて、知らなかった。しかも人知れず、生け贄を運んでいたなんて」
嫌悪に顔を歪めた久周から目を逸らし、深影は前方に広がる闇を見やった。
「これから一体、どうするつもりなんだ?」
「この先の川を越えれば、森に出られる。そしたら山を越えて、どこでもいい、安全なところに逃げよう」
「安全なところ?」
はっと、乾いた笑みが深影の口からもれる。
「今のこの国のどこに安全なところが? それにそんなことをすれば、お前は脱走兵として一生軍に追われることになるぞ」
「そんなことどうだっていい。お前と一緒なら」
深影は瞼を伏せ、弱々しく首を振った。
「無理だ。今はどこの村だって自分たちのことだけで手一杯だ。余所者をかくまう余裕はない」
「お前は、こんな時でも冷静なんだな……」
久周はふっと皮肉げに笑い、辺りの闇に目を凝らした。手に持つランタンの灯りは今にも消えそうで、小さな火影がかろうじて手の届く範囲を照らしている。
「俺は正直、怖い。こんな何も見えない洞窟で……」
深影の手がランタンを持つ久周の手に重なる。
「大丈夫だ、久周。俺がついている。俺は闇には慣れている。最近では左目の方もかすれてきてな、一日何時間かは目をつぶって過ごすようにしているんだ」
「深影……」
「そんな顔をするな。これはお父様の温情なんだよ」
久周は深影の細い手を握り返し、身を乗りだした。
「何が温情だっ! 戦で何百人もの人が亡くなっているというのに、生け贄なんて非近代的なものにむざむざ命を投げ捨てるなんて!」
「小さな集落なんてどこもそんなものだ。根拠のない迷信を、親が信じていたというだけで何の疑いもなく信じる。でもな、迷信にも真実は含まれているものなんだ」
「……どうゆうことだ?」
「お前は知らなくていい」
「何言って——」
深影は相手の唇にひとさし指をかけ、愛おしむようにゆっくりとなぞった。こんな状況にも関わらず、久周は自分の身体がぞくりと熾きたつのを感じた。
「久周、俺は戻るよ」
静かに、しかし決然と言われた言葉に、久周はハッと顔を上げる。
「駄目だっ! そんなことをしたら村の奴らが今度こそ、お前を——」
「いいんだ、それでいいんだよ」
久周は首を振り、相手の肩を強く掴んだ。
「駄目だっ! 俺はお前がいなくなるなんて耐えられないっ……! 俺は、俺は、愛しているんだっ、お前をっ……!」
痛切な悲鳴が、虚空の闇の中に響き渡る。洞窟の壁を反響したそれは、まるで行きつく先を探すかのように幾重にも重なり木霊する。
「久周……」
深影はふっと微笑み、相手の頬を両手で包んだ。
「やっと言ってくれた。もっと早く言ってくれると踏んでいたのにな。俺もまだまだだな」
「ふざけるなっ、こんな時に……!」
「ふざけてなんかいない。ずっと俺から言おうと思っていたのに、お前が……何も言わずに士官なんかするから……」
久周の唇に柔らかいものがかかった。深影は唇を離すと、真っ直ぐに相手の瞳を覗き込んだ。
「久周……俺も愛している……お前があの屋敷から連れ出して、色んなものを見せてくれる度に、その想いは深くなっていった……」
「深影っ……!」
久周は小柄な相手の身体を強く抱き締めた。洞窟の冷気に冷やされた互いの身体は、きつい抱擁の中で徐々に溶け合っていく。
「久周……お願いだ……今は何も考えるな……」
暗闇の中、深影のかすれた吐息が口づけの中に消えた。
久周が目を覚ますと、辺りは真の闇だった。ランタンの火は完全に消え失せ、シェイドが残骸のように転がっている。
「深影っ……!?」
久周は飛び起きると、唯一のよすがである細く温かい身体を探した。だが、深影の姿はどこにもなかった。名前を何度呼んでも、返ってくるのは岩に反響した自分の声だけだった。
「まさかっ、あいつっ……!」
先ほどの深影の言葉を思い出し、久周は急いで来た道を戻ろうとした。しかし道しるべである注連縄は、無理矢理引きちぎられたかのように切れていた。
(深影、深影、深影っ……!)
久周はひたすら、鍾乳洞の中を手探りで進んだ。しかし闇に慣れていない感覚は、数歩も歩くとすぐに限界を超えた。
真っ暗闇の中、自分が進んでいるのかも、下がっているのかもわからない。早く戻らなくてはいけないのに、と思いながらも、頭の中には次から次へと嫌な考えが浮かんでくる。
もし一歩先に崖があったら? 何かが危ないものが潜んでいたら? 深影の父親が言うように、人ならざるものが実際にいるとしたら……?
そう思ったら、風の音が人の唸り声にしか聞こえなくなっていた。ポタポタと天井から落ちてくる水滴が人の血かとまで疑う始末だった。
ようやく、実感した。
ここを通った生け贄たちは、一体、何を思っていたのだろう。苦しかったのだろうか、村の人間を恨んだのだろうか?
その癒されぬ魂と無念は、まだこの洞窟の中を徘徊しているのだろうか。
気が狂いそうだった。何度も叫びだしそうになった。できるのなら、頭を抱えて助けがくるまでここで蹲っていたいとまで願った。
だが、それは出来なかった。
(はやく、取り返しのつかなくなる前に、深影を探さなくては。)
久周は立ち上がると、どこへ続いているかもわからない闇の中の道をひたすら進んだ。
ようやく、ほのかな光が差す梯子を見つけた時、何十年も年をとったように感じた。
だが屋敷に戻った時、全てが遅かった。
南向きの座敷は、すべてが血で真っ赤に染まっていた。畳の上では数人の村人が横たわり、苦悶の表情をたたえて息絶えていた。
ふと隣の座敷の中央に、一人の男が立っていることに気がつく。彼は血で染まった白い軍服を肩からかけ、手には日本刀を握っている。
「……思ったより早かったな……」
ゆっくりと男が振り返った。失明した片目は長い前髪に覆われて見えず、青白い頬には返り血がべっとりと染みついていた。
「深影……なんで……」
久周の頬はわなわなと震え、一言発するだけも精一杯だった。
「何で、この人たちを殺したっ……!? 村の人間じゃないかっ!」
「俺たちを追ってきた奴らだ。他の生け贄たちにも手を出そうとしたから仕方なく」
「……他の生け贄? お前以外にもいるのか、生け贄が?」
久周は信じられない思いで、深影を見続けた。
「あぁ、生け贄は、いつだって一人じゃない。特に、今回は」
「どうゆうことだ……? 特に今回って」
「戦争だよ」
と言った深影の声は、淡々として乾いていた。
「もうすぐ本格的に戦争がやってくる。そうすれば、普通の人間でさえ、食べていくのがやっとだ。普通の者ですら生き延びられるかわからない。そんな時に彼らに——俺のような人間に」
深影は、そっと髪に隠れた自分の目を触った。
「構っている余裕はないという訳だ。合理的と言っては合理的だ。これが迷信の正体だよ」
深影は、久周の頭上にある龍の浮かし彫りを眇め見た。
「片目の人間が神に愛されているなんて嘘っぱちもいいところだ。村の者たちは神の気を鎮めるための生け贄と称して、実は厄介者たちを人知れず排除していただけにすぎない。自分たちの生活のために。言ってしまえば、姥捨てのようなものだ」
ふっと、深影の顔が泣き笑いのように奇妙に歪んだ。
「いや、違うな。排除と言ってしまえば語弊がある。これらの人たちの多くは敵に攻め込まれた時、自分で逃げる力はない。そこで無残に殺されるよりは、家族である村人が神に捧げる生け贄として丁重に葬るべきだと思ったんだろう。ある意味では温情だな」
「丁重って、あれのどこが丁重なんだ!? 暗く冷たい洞窟に押し込めてっ……! あんな、あんな——」
暗闇の中、どんどんと迫ってくる狂気を思い出して、久周の身体が怒りにうち震えた。そんな久周を見ながら、深影は畳に刀を引きづりつつ彼の前に立った。
「久周。お前は正しい。どうかその正義感をいつまでも持っていてくれ」
「何言っ——……っ!?」
電撃のような痛みが、久周の身体に走った。見ると、深影の持った刀が久周の太ももに深々と刺さっていた。
「うあああぁぁっ……!」
久周は膝をつくと背を屈め、太ももを手で押さえた。真っ赤に燃えた杭を突き刺されたような灼熱の痛みで、久周の視界が朦朧と歪む。
「くっ……深影……どうして、こんなこと……」
久周は信じられない思いで、幼なじみを見上げた。かすれる視界にうつったのは、今までに見たことがないほどやつれ、傷ついた表情をした深影だった。
「お前に死んで欲しくないからだよ……」
かすれた声はまるで、泣き出す寸前のようだった。深影は久周の前に膝をつくと、相手の握り締めた拳にそっと手を重ねた。
「心配するな。大動脈は外してあるから命に別状はない。でも麻痺くらいは残るかもしれない。そしたら、もう前線に行くことは叶わないだろう」
深影の見えている片目から、ほろりと血の混じった涙がこぼれ落ちる。薄い唇が、恐怖から憤りからか、わなわなと震える。
「久周。どうして勝手に士官なんてしたんだ。お前は、俺の気持ちを考えたことはあるか。明日、今日、いや次の瞬間、お前が遠く離れた異国の地で死ぬかもしれないと毎日毎日、怯えていた俺の気持ちを? どうせなら、俺も一緒についていきたかった。でも、俺は行きたくてもいけない。こんな目ではっ……」
「深影っ……」
久周は混濁しそうになる頭を抱えながらも、拳を開き相手の手を掴み返した。
「違うっ……俺は士官することでこの村を……お前を守ろうと思ったんだっ……戦争が早く終って、お前が自由に、どこへでも行ける世界になれば、と……ッ」
どくどくと増していく太ももの痛みで、頭がぼおっとしていく。意識を保っているのすら難しかった。寒くはない。むしろ汗が次から次へと滴ってきていて熱いはずなのに、身体が震えて止まらない。
「大丈夫だ」
ふっと深影の気配が近づき、手が宥めるように久周の肩をさする。
「屋敷の惨状を聞きつけて、すぐに助けがくる」
「待て……お前は、どこに……?」
久周は立ち上がろうとした深影の手を掴んだ。すると深影は一瞬たじろぐと、最後に相手の手に指を絡ませた。
「……久周……愛しているよ。それだけがただ一つ、俺の自由だった」
するりと手が抜かれ、ふっと深影の気配が消える。久周は朧気にかすんでいく視界の中、必死にその背中に手を伸ばした。
「深影っ、行くなっ……行くなぁぁっ……!」
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