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第1話
※1話動画:https://youtu.be/N2HQCswnUe4
「なっ、お願い! お願いだからっ!」
「あのな~」
陽向 は、イライラしていた。
居候している男が仕事場にやって来たあげく、フロアから丸見えの受付で金をせびりだしたのだ。イライラして当たり前といえば当たり前だ。
思えば、朝から何かと運が悪かった。
携帯の充電が切れて目覚ましは鳴らないし、季節外れの大雪で電車は止まるし、やっと捕まえたタクシーも渋滞にはまるし……。
(……あげく、このザマだ)
目の前で手を合わせている男を眺める。
ニットシャツにストーンウォッシュのデニム。足下は紺色のクロックスで、こんな気候に関わらず、コートも着ていない。
肩は濡れそぼち、裾も膝下まで濡れて色が変わっている。徹夜で打ってでもいたのか、ヒゲもちょぼちょぼと伸びていた。何より、酒くさい。
どこからどう見ても、ダメ男だ。
それなのに元が良いからか、こんな状態でもある種、様になっているのが憎らしい。
金に近い茶に染めた髪、浅黒い肌、彫りの深い顔立ち。顔のパーツはどれをとっても力強くて、大胆。
──謝花 海斗 。
ゲイバーで出会い、二三度衝動的に関係をもった彼が、ギャンブルで一文無しになり陽向のアパートに転がり込んでから、はや一年。
アパートに招き入れたことを後悔しているかと聞かれれば、現在進行形で大いに後悔している。
「ねっ、ねっ、お願い! 仕事紹介してくれるっていうからつき合いで飲んでいたら、ぼったくられちゃってさ! 帰る金もないんだ!」
海斗は、顔に落ちてきた前髪を無造作にかきあげた。毛先から滴った雫が、小麦色の肌をつたう。
さすが、元モデル。未成年の時の喫煙で解雇されたとはいえ、未だに見た目と仕草だけは、すこぶる絵になる。先ほどからオフィスの女子社員たちも、ちらちらと海斗に視線を送っていた。
「わかった、わかった! これやるから、今日はもう帰ってくれ! 今、仕事中なんだっ!」
財布から札を数枚取り出すと、海斗は砂漠で水に飢えた旅人のようにそれをひったくり、キスをする。もちろん、金にだ。
札を数枚取り出すと、海斗は砂漠で水に飢えた旅人のようにそれをひったくり、キスをする。もちろん、金にだ。
「やった! ありがとうっ! ほんと、助かるっ! ──あ、そうだ、これ、お礼と言っては何だけど!」
ジーンズの後ろポケットから、海斗が何やら差し出してきた。
黄色のガーベラだった。
しかも恐ろしく簡単なフィルムに包んだだけの、いかにもな安物。
それを海斗は、この世に一つしかないバラでもあるかのように恭しく渡してくる。
「残ってたなけなしの小銭で、買ったんだ! これで機嫌直してくれよなっ! じゃ、愛してるよ! また家で!」
海斗は投げキッスをすると、ビュンと飛んで帰っていってしまった。
「「愛されていますねー」」
デスクに戻ると、右隣と真向かいの席の女性社員が声をかけてきた。
陽向が勤めるデザイン会社は、スタッフ十人にも満たない小所帯だ。主にフリーペーパーやら、コアな専門雑誌に載る広告を担当している。
陽向に同期はおらず、一番近くても、今年入社したばかりの五つ下の女性社員か、三つ年上のパート女性社員くらいだろう。
その他は定年まじかか、中年層のおじ様ばかりで、彼らは今の陽向の騒動にも「若い子はお盛んだね、ははは」と呑気にお茶をすすっているだけだ。
そうでなくとも、週に最低一回は見るヒモ男のせびりシチュエーションに全員、慣れきっていた。
「あの彼氏、本当に懲りませんね〜」
右隣のデスクに座る心愛 が、興味津々といった様子で身体ごと向けてくる。
「やった、これで伝書鳩大会の資料作りから逃げられる」と、その顔には書いてあった。それでなくとも、この年の女子にとって、他人のゴシップは最高のスイーツだ。
「心愛ちゃん。口は動かしてもいいけど、手も動かしなさい」
向かいのパート社員──木村が、パソコンから目を離さず言った。
「はあ~い」
と、心愛は元気だけいい返事をすると、キーボードを叩く(ふり)をしながら、ちらりと視線をよこしてきた。
「さっきの彼氏さんとは、最近どうなんですかぁ? 初め聞いた時は男同士なんてドン引きだったけど、今はどっちかっていうと、あのダメ男っぷりにドン引きっていうかぁ〜──やだっ、ごめんなさい。あたしったら人様の彼氏に」
陽向は、デスクの上の資料を整理しながら言った。
「いいよ。事実だしね」
「確かに、職場にまで金をせびりにくるわ、トラブル起こして警察や病院から電話はかかってくるわ、清々しいほどのヒモっぷりよね」
こらえきれなくなったのか、木村まで会話に参入してくる。
「いい加減、あんなのとは別れたら? ああゆうのは、いくら尽くしたって時間の無駄だよ。自分の身を滅ぼすだけ」
パソコンのモニター越しに、厳しい目とかち合う。既婚者とあってか木村の言葉はいつも的を射ている。ただ的を射すぎいて、時々オブラートに包んで欲しくなる。
一方の心愛は、うっとりした顔で頬に手を置いた。
「えぇ~いいじゃないですかぁ。ああいうタイプも。何て言うかぁ、『あたしがいなきゃダメなんだ』っていうのがぁ、愛を感じるっていうかぁ。それにもしかしたら、あたしの愛で改心させられるかもしれないしぃ」
「若いわね。そんなのただの幻想よ。ああいうのは、いつまで経ってもああなの。改心なんてしない。顔がいいだけだから騙されないで」
「確かに顔は、本当にいいですよねぇ~それに、何だかんだ言って優しいし」
陽向のデスクに置いてある黄色いガーベラを見て、心愛が言った。
「何? 欲しいなら、あげようか?」
「え~遠慮しますぅ。黄色の花って『浮気心』って意味があるらしいし。いっそのこと、捨てちゃいません? それ、もうしなしなだし」
「……いや」
陽向は花を取ると、心愛の手の届かないデスクの隅に置いた。
「花に罪はないしね」
パソコンを立ち上げ、『週間「錦鯉と暮らす」』のバックナンバーを手に取る。
「それに言っておくけど、俺と海斗は別れるうんぬん以前に、つき合っているかどうかも定かじゃないし」
同じアパートに暮らす前も、お互い、気が向いた時にしか会っていなかったし、どちらとも違う相手がいた時期もあった。
海斗がアパートに転がり込んできた時でさえ「付き合おう」とかいった話は一切なかった。
「えっ!? でも、やることはやってるんですよね?」
「こらっ、心愛ちゃん!」
木村が、シッと人差し指を口元に当てる。陽向は資料に熱中しているふりをしてスルーした。
紅白、丹頂、白写り、九紋竜、プラチナ、ドイツ三色鯉……。ド派手な錦鯉の写真を見ながら、赤くなりかけた頬を落ち着かせる。
一方の心愛はまだ納得いっていないのか、唇をとがらせる。
「えぇ~どっちもゲイで、やることやってって、一緒に住んでるのに、付き合ってないって、どうゆうことなんですかぁ? 心愛、よくわかんない〜」
「俺も、よくわかんない〜」
心愛がますます訝しげな顔をした。陽向は慌てて付け加える。
「何ていうか、ほら、海斗は同郷だから……その誼で、追い出すに追い出せないというか……」
「同郷? き……陽向さんって、どこの出身でしたっけぇ?」
「喜屋武 ね。いい加減、人の名字覚えようよ」
「だって、読めないんですよ。こんな無理矢理な当て字、キラキラネームですかぁ?」
「それをいうなら君もだから。ついでに言っておくけど、これは名前じゃなくて名字。しかも、シマではわりと一般的な」
「島?」
首を傾げた心愛に、木村がすかさず答える。
「陽向君は、沖縄出身なのよ。あっちではわりと多いわよね、変わった名字。仲村渠 とか金城 とか」
「へぇ、沖縄! あたしてっきり、き……陽向さんって、おしゃれっぽそうなところ出身かと思ってました! 横浜とか、神戸とか」
素直な心愛の物言いに、陽向は思わず声を出して笑ってしまった。
「さ、そろそろもう仕事に戻ろう。こちとら、稼がなくちゃならぬのだ」
そこへ長谷川と心愛の鋭いツッコミが入る。
「「あのヒモ男のためにね」」
※
四月上旬に入ってから降った異例の大雪は、昼を過ぎてもやむことはなかった。
駅前のコンコースは一面の銀世界で、街路樹まで真っ白な綿に覆われている。ようやくほころび始めていた桜の芽も、塩をかけられたなめくじのように縮こまってしまっていた。
「うわっ!」
道行く人たちの中からは時折、悲鳴が上がり、周りの人たちが助け起こすという場面が繰り返された。
今日ばかりは、どこの会社や学校も公共交通機関が止まる前に自宅待機を判断したらしい。昼過ぎの駅前は、帰り路を急ぐ人たちでごった返していた。
陽向もそのうちの一人だ。
(はぁ……帰ったら、ゆっくり紅茶でも飲んで……そうだ、海斗と話さなきゃ……もう二度と、会社には来るなって……)
駅前通りを歩いていると、ふと視線を感じた。振り向く。
コンコースには帰宅する会社員や買い物袋を持った主婦たちが、慌ただしく行き交っている。
——特に変わった様子はない。
再び歩き出そうとした時、ある一角で目が止まった。
本屋の前に一人の男が立っていた。雨宿りでもしているのか、店先のテント下にあるラックからフリーペーパーを手に取り、ぼんやりと眺めている。
ラム地の黒コート。クラシックな折り柄のグレイスーツ。臙脂のネクタイに黒皮の手袋。
黒を基調とした服装が、白い雪と相まって何とも鮮やかだ。
まるでそこだけが、上品なモノクロ映画の一場面になったかのような。
前を通り過ぎていくカラフル傘の集団でさえも、セットの一つのように感じられる。
(ずいぶん姿のいい人だな……)
三十代後半くらいだろうか。もっと若そうに見えるが、雰囲気は大企業の重役と言われてもおかしくない風格だ。
しかし、デスクワークという感じでもない。
服の上からでもわかる引き締まった身体つき、ピンとはられた背筋や肩。どうも見ての普通の会社員ではないだろう。
(って、何見とれているんだ、自分……!)
慌てて男から、視線を逸らす。そうこうしているうちに、風がさらに強くなってきて、雪の塊が傘に降り積もっていく。
(だぁぁ~最悪だ…… これじゃ、俺が欲求不満みたいじゃないか!?)
陽向はぶんぶんと首を振って、雪を落とす。
海斗が家に上がり込んできてからというもの、奴の尻拭いのためにあちこち駆けずり廻っていて、自分の目の保養 を見つける時間さえなかった。
こんなことでは、街で見かけた姿のいい男にところ構わず、声をかけてしまいそうだ。
このままじゃいかん、と思い立ち、男に背を向ける。名残惜しいが、今は遠くのダンディな男より、近くのだらしのない男をどうにかしないといけない。
(よしっ! 今日こそは絶対、言ってやるんだ! いい加減にしないと、家から追い出すとっ……!)
陽向は大股で雪を掻き分け、急いで自分のアパートへと向かった。
アパートの外階段の横を通っている時、丁度、上から下りてくる男と目が合った。
「あっ」
男は陽向を見るなり、みるみる間に顔を青くし、しまいには雪に同化してしまいそうなほど白くなった。
「どうしたのお~海斗ぉ~」
奥側の海斗の腕にぶらさがるようにしがみついていた女が、ひょいっと顔を出す。
不自然なほどバサバサしたつけまつげに、テカテカのピンクのグロス。こんな天気だというのに胸元をあらわにしたド派手なカクテルワンピース。
いかにもな、夜の女だ。
陽向は、自分の頭の中で太い血管がブチリと切れる音を聞いた。
「おいっ、海斗っ! テメエ~!」
静寂とけ込む雪空に、怒声が響き渡る。
「もしかしてお前、貸してやった金で、キャバクラに行った訳じゃねえだろうなっ!?」
「ち、違う、これは同伴出勤でっ……! 俺なら特別に格安にしてくれるっていうからっ……!」
「はぁ~!? つまり、なんだっ!? 人の家で一発ヤったあと、仲良く同伴ってか!?」
バンと踏みしめた足の下で、ギシギシと雪が悲鳴をあげる。
海斗がギョッと一歩下がった。まるで猛獣から身を守ろうとするかのように、腕を顔の前で交差させる。
「待って! 話せばわかる! 話せば、わかるから! ほら、セナちゃんも何か言っ──」
海斗が振り向いた時にはもう、風俗嬢はいなかった。ピンヒールの足跡が、点々と通りの向こうまで続いている。どうやら胸の大きさだけではなく、逃げ足もピカイチな女性だったようだ。
「……ほう、話せばわかるって?」
陽向はポキリポキリと拳の骨を鳴らしながら、海斗に近づく。
「ま、待て! 陽向! 落ち着けよっ! ちょっと相談に乗ってただけなんだ! 彼女、今訳ありで! ただ、それだけだよっ!」
「ほう。じゃぁ、ヤってないと?」
「……いや、ヤったけど……」
ブチリ。今度は全身の主要な血管が、一気に切れた。
「この万年発情期のクサレチ○コザルがあ~!」
陽向はアパートの窓際に置いてあった植木鉢を手に取ると、中身を引っこ抜き、鉢だけを海斗に向かって投げつけた。
「ア、アガッ(痛い)! 危ない! 危ないよ! 」
ひょいと上げた海斗の足下で、テラコッタの鉢が盛大に割れる。陽向は次の鉢を手に取ると、今度は確実に狙いをつけ構えた。
「~ッ、あのなぁ、俺は今更、お前がどこの誰と寝ようと、知ったこっちゃない! けどな、人ん家をラブホ代わりに使うのは許せねえっ!」
鉢は海斗の身体ギリギリのところをかすめて、破片をまき散らした。
これには、さすがの海斗も声を荒げる。
「おい、陽向! やりすぎだ! 当たったら死ぬぞ!」
「死ぬ? お前はいっぺん死んで、蝿から生まれ直した方が、もっと謙虚になるだろう!」
陽向は綺麗に並べられた鉢を端から順番に投げていった。それを海斗は、一個一個かわしていく。三十代に突入したとはいえ、いい運動神経だ。
それが陽向の導火線に、さらに火をつけた。今度はバラが植えられていた大型の鉢を持ち上げると、両手で頭上に構える。
「これで終わりだ! 覚悟しろっ!」
「ちょ、ちょっと陽向!? 嘘だろう!?」
「嘘だと思うなら、その頭で受けてみるがいいさっ!」
「ぎゃ、ぎゃああー! 殺されるぅ! 助けて、助けて~! 早く来てくれ~!」
海斗は、狂ったようにどこかに向かって喚き散らした。
「はっ、誰が来るって言うんだよ、こんな男同士の痴話喧嘩。わかったら、いい加減ちょこまかするのはやめて──」
「──そこらへんにしておけ」
甘く、かすれた声が陽向の耳元をくすぐった。
鉢を持った手に黒皮の手袋をした大きな手が重なり、背後からひょいっと鉢を取り上げる。
「まったく、その細い腕でどうしてこんなものが持ち上げられるんだ」
黒皮の手袋をした男は鉢を階段の下に置くと、コートにかかった砂を払いながら戻ってきた。
「……あんたは……」
目を見張る。
男は、先ほど駅前の本屋で見かけた男だった。
「あんた、一体……」
「良かった! 来てくれたんだっ!」
海斗がヒーローが現れたかのように喜々として男に駆け寄った。
(もしかして、これも海斗の相手……?)
胸に苦いものがよぎる。
やはり、今日の自分は本当についていない。街中で見惚れた男が、まさかクソだらしない同居人の相手だったなんて皮肉すぎる運命だ。
(いっそのこと、精進潔斎でもしにいった方がいいんじゃないだろうか……)
にじんでくる涙をどうにか引っ込めようとしていると、
「お願い、助けて! このままじゃ殺される!」
海斗は男の背後に隠れ、相手のコートを掴んで揺する。対する男は迷惑そうに眉を顰めながら、慇懃な声で言った。
「大丈夫ですよ。お二人の身長と体格から鑑みて、彼に貴方をしとめることは無理です」
「でも、今の見てただろう!? こいつ、こんな細っこいけど、キレた時の馬鹿力は相当なんだっ!」
「……おい、お前ら」
陽向はゆらりと二人に近づき、据わった目で睨みつけた。
「それ以上、小さいとかガリガリとか言ったら、シナサリンドー(ぶちのめすぞ)!」
「ひっ」
海斗は再び男の背中の後ろにひっこみ、びくびくしながら陽向を指さす。
「ほら、今の! これで俺の依頼がいかに正当なものか、わかっただろう!」
「依頼……?」
陽向は海斗と男を交互に見、最後に海斗をひと睨みする。
「おい、海斗。依頼って、何のことだ……?」
海斗はたじろぎつつも前に堅固で強大な盾があると気づき、ふふふんと自慢するように肩をそびやかした。
「よくぞ聞いてくれた。この人はなぁ、お前から身を守るために俺が雇った探偵なんだ!」
※
人は怒りが最高点に達すると、逆に冷静になるらしい。
陽向はソファに座った男の前にお茶を置くと、テーブルを挟んだ向かいにあるカウチに座った。もちろん、男の隣に座る海斗は完全無視だ。
「ありがとうございます」
男はお茶を一口すすると、懐から名刺を取り出した。
「申し遅れました。わたくし、こうゆうものです」
──LGBT専門探偵 玄沢 敦
名刺には、そう書かれていた。
「LGBT専門……?」
顔を上げると、海斗が横槍を入れてくる。
「そうなんだ、すごいだろう。この人、普段は普通の探偵をしているんだけど、二丁目にある『ケンタウロス』ってゲイバーのママから連絡をもらった時だけ、LGBT専門──特に、ゲイ専門の探偵になるんだよ! 界隈では有名だぜ! 男同士のカップルの浮気調査とか、痴話喧嘩の仲裁とかしてくれるんだ! しかも、この見た目だろう? 依頼人がひっきりなしでさあ。予約するのも大変だったんだ。ちなみに一番面白いのは、この人、ゲイ専門の探偵なんてしているくせに、自分はゲイじゃないらしくて──」
「海斗。お前、ちょっと黙れ」
ギロリと睨みつけると、海斗はしゅんとソファで身を縮めた。
「……で、その探偵さんが俺に何の用ですか?」
陽向は名刺をテーブルの上に置くと、お茶でガラガラの喉を潤した。
本音を言うと、海斗の連れてきた人間など怒鳴って追い出してしまいたい。たとえ、どんなにいい男でもだ。
だが、そうしたところで自分が不利な立場になることは目に見えている。
「それがですね」
玄沢は一息つくと、事務的な口調で話し始めた。
「謝花海斗氏は、貴方に慰謝料を要求したいと」
「慰謝料……?」
「ええ。ここ数日、私は氏の依頼を受けて、貴方の──喜屋武さん、でいいんですよね?」
こくりと頷くと、玄沢は続けた。
「貴方の素行調査と尾行を行った結果、謝花氏に対する数度の暴行未遂、名誉毀損、脅迫また器物破損行為が見られました。これを刑法にあてると──」
「ちょっと待って、暴行? 名誉毀損? 脅迫?」
「ええ、先ほどの鉢を氏に投げつける行為しかり、加えて数ヶ月前、氏の顔──正確には頭部の脇ですね。そこに三針縫う怪我を負わせたり」
「ちょっと待って……! あれは、海斗がっ──」
玄沢は手で制すると、懐から取り出したレコーダーを再生した。
『この万年発情期のクサレチ○コザルがぁ~!』
『シナサリンドー(ぶちのめすぞ)!』
さあっと、背中が冷えていく。
まさか自分が、こんな下品なことを言っているとは。キレている時の記憶はあまりないから、わからなかった。
ごほんと、玄沢が咳払いをする。
「貴方の氏に対するこれら日常的な名誉毀損や脅迫は、言葉による暴力とみなされます。さらに公共の場でこのような発言を行った場合、都の迷惑防止条例に反し──」
「わかった、わかったから!」
「では承諾していただけますね。氏はこれらの一連の行為による肉体的、精神的苦痛の代償として、貴方に三十万円の慰謝料を要求しています」
「さ、三十万!?」
海斗の方を見ると、相手はさっと顔を伏せた。陽向は、玄沢に慌てて顔を戻す。
「ちょ、ちょっと待って。そんな金払えるわけ……そもそも何であんたがこんなことを? あんたは警察でも、弁護士でもない。ただの探偵だろう!」
「その通りです」
玄沢はまったく動じずに言った。
「しかしこの近辺には、いえ日本には、貴方たちのようなLGBT──マイノリティーの人々の問題を真っ向から受け入れ、権利を主張するプロフェッショナルが、ほとんど存在しない。ゆえに私のような者が、時に警察や弁護士の領域までカバーしなくてならないこともあるんです。彼ら──警察や弁護士の一部の者たちも、ある程度までは私のことを黙認してくれますし、時には、協力もしてくれる」
ひくりと陽向の頬が痙攣する。
「それは……俺のことを脅しているわけ?」
「さあ」
玄沢は白々しく言うと、感情のうかがえない真っ黒な瞳で陽向を見据える。
どくり。
腹の中から何かがせり上がってくるように陽向は感じた。
これは怒りか? それとも、恐怖?
「もちろん、私は一介の探偵なので強制力はありません。もしこの支払いに不服なようでしたら、裁判で争ってもいい。ただ貴方の場合──」
玄沢が、手元の資料を手に取った。
「不利な証拠が揃っていまして。先ほども言ったように貴方は六ヶ月前、謝花氏に水槽を投げつけ、三針を縫う怪我を負わせた。この時ばかりは、警察も事情を聴きに来ていますね」
「だから、あれはっ……!」
上がってしまいそうな声をグッと抑えた。横目で海斗を睨みつける。
「……あれは、こいつが、うーちゃんを、ギャンブルの景品としてキャバ嬢に渡そうとしたから……」
「うーちゃん?」
「ウーパールーパー。俺が故郷から唯一持ってきたペットのうーちゃん」
「あぁ……」
玄沢は一瞬、言葉を詰まらせた後、辺りを見回した。
「で、そのうーちゃんとやらは? もしかして、その時、水槽と一緒に……?」
「まさか。ちゃんと出してから投げたよ。うーちゃんは……死んだ。三ヶ月前に。もう結構なおじいちゃんだったし」
潤みそうになる目を、瞬きをして何とか抑え込んだ。
(ってか、なんで俺はこんなことを、この人に話しているんだ……!)
玄沢の手元のファイルを奪ってやりたい衝動に駆られる。
あのファイルの中には、一体、どれだけの自分の情報が入っているのだろう。まさか、高校の夏休みに先輩の家で勢いのまま初体験を済ませたこととか、成人式の日に酒を飲み過ぎて急性アル中で運ばれたこととかも入っているのだろうか?
……いや、そんなのは今更どうでもいい。美しくもバカな思い出なのだから。
今、何より最悪なのは、一瞬でも見惚れてしまった男が、自分から慰謝料をぶんどるために雇われた探偵だったってことだ。
(くそっ、くそっ、くそっ! もう世の中なんて信じないっ!)
「そう警戒しないで下さい」
玄沢が資料をまとめながら言った。
「私はただ、お二人が互いの希望を満たせるようにお手伝いしたいだけです」
「二人の、じゃないだろう? あんたは海斗が雇った探偵なんだから、海斗の希望を、だろう?」
「喜屋武さん」
玄沢が小さなため息をついたのを、陽向は聞き逃さなかった。
陽向はバンと手をテーブルにつくと、カウチから猛然と立ち上がる。
「だって、そうだろう!? でもな、俺にだって言い分はあるんだっ!」
ソファの隅ではらはらと事の成り行きを見守っている海斗を指さした。
「こいつのボディガードも兼ねてたんなら、よくわかるだろう! こいつがいかにだらしのない尻軽男か! 飲むは打つわ買うわ! 定職にもつかないで、ギャンブルで生計をたててるし、週に一度は俺の職場まで来て、金を催促するし! そこらへんでひっかけたキャバ嬢やら男娼やらと、昼間から人ん家でしっぽりとヤルし──」
はたと気づいた。嫌な予感が頭を過ぎり、玄沢と海斗が見守る中、慌てて自室に駆け込む。
「フラー(バカ)!」
寝室の状況を一目見るなり、陽向はダッシュでリビングに引き返した。
「しまった」という顔をしている海斗の胸ぐらに掴みかかる。
「このフムリン(クソったれ)! 海斗! お前また人のベッドで、人のベッドで……!」
「ご、ごめっ、でも俺のとこ万年床だし、雰囲気がなくてっ……それに、ちゃんと陽向が帰ってくる前に片づけようとしたんだっ!」
「そうゆう問題じゃないっ……!」
「落ち着いて下さい。喜屋武さん」
玄沢が海斗に殴りかかろうとする陽向を制した。大きな手が、陽向の肩にかかる。
「離せ! これが落ち着いていられるかっ! この野郎、人のベッドでキャバ嬢と……!」
情けなくて、涙が出そうだった。
海斗が他の奴と寝ている(しかも複数)のは、前々から知っていた。身持ちが固くない奴だということも一緒に住む前から知っていたし、何より付き合っているかどうかもわからない自分が口を出していいことなのかわからなかった。
だから気にしなかった。いや、気にしないようにしていた。
ただ気が向いた時だけとはいえ、少なからず関係を持っている身としては、自分たちが抱き合ったベッドに男娼やら風俗嬢を連れ込むなんて、デリカシーがないにもほどがある。
陽向は風のような敏捷さでテレビの横にあるペン立てからハサミを取り出すと、じりじりと海斗に近づく。
「俺は今、確信した。お前のそのキン○マを取った方が、世界のためになる!」
まるで世界の期待を一身に背負ったような狂気の目をして近づいてくる陽向に、海斗は叫んだ。
「や、やめろ! 俺のコレは国宝級なんだから、無くなったら日本の損失、いや世界の損失だ! 玄沢さん、助けてくれ〜!」
「やめろっ、喜屋武! 本当に警察に行きたいのか!?」
玄沢がハサミを持つ陽向の手首を背後から掴んだ。陽向はハッと我に返り、相手の顔をまじまじと見つめ返す。
玄沢の顔には、驚愕と動揺の色が浮かんでいた。
「ハサミを置いて座るんだ。さぁ」
玄沢は陽向の手から慎重にハサミを取り上げると、カウチまで誘導する。
陽向の肩を抱くその手はとても大きく、温かかった。背中に感じる胸元は固く広く、まるで大樹に抱かれているような安心感がある。
陽向はうっかり相手に身を委ねてしまいたい衝動に襲われた。しかし自分を抑え、相手から出来るだけ距離をとった。
玄沢は海斗の探偵──つまり敵だ。次から次へと襲ってくる災難でいくら弱っているとはいえ、敵の胸元で甘い妄想に浸ってしまうなど、あってはならないことだ。
「大丈夫か?」
玄沢がカウチに座った陽向の顔を心配そうに——もしくは恐る恐るのぞき込んできた。事務的だった口調が、ここにきて優しいとさえ思える響きになる。
ぐらり。またもや絆されそうになる自分を叱咤し、陽向はこくりと頷いた。
「……もう大丈夫です」
玄沢の手を自分の肩から外すと、伊は膝に肘をつき、組んだ両手の上に額をつけた。
向かいに座った敵方二人が、こちらの様子を固唾飲んで見ているのがひしひしと伝わってくる。
陽向は顔を上げずに言う。
「…………出ていってくれ」
「え?」
海斗が陽向を見、ついで隣の玄沢と目配せを交わした。陽向は視線を上げることなく、押し殺した声で言う。
「三十万でも、何十万でもやるから、ここから出ていってくれ」
「陽──」
口を開きかけた海斗を、玄沢が制す。
「つまり、謝花氏が出ていくなら、支払いに応じると?」
「……あぁ、喜んで。こいつが俺の人生から出ていってくれるならお安いご用だ」
クッと陽向の口端から自嘲の笑みがこぼれた。
「どうですか?」
玄沢が依頼主に問うた。海斗は目を細めて、同居人をじっと見る。対する陽向は、窓の外を気にするふりをして、彼とは決して視線を合わせなかった。
窓の外で吹きすさぶ春の雪は、今の陽向の心を映し出しているかのように荒れに荒れていた。べた雪が窓ガラスを打ち、無惨に溶けて落ちる。
「…………わかった。出て行くよ」
海斗は自分の足下を見ながら、こくりと頷いた。太ももの上に置かれた拳が、かすかに震えているのが、ガラスの反射越しに見えた。
沈黙を玄沢が破る。
「これで解決ですね。ですが、一つ問題が」
「問題?」
陽向は、顔を上げた。嫌な予感がひしひしとする。
「はい。出ていくにしても、一朝一夕にはいきません。次の住居も探さなくてはいけないし、荷造りや諸々の手続きもあるでしょう。それに当面の資金の調達も……そうですね、最低でも十日ほどは必要かと。一つお聞きしますが、その間、氏をここにおいておく気は──」
「何を言っているんだ」という陽向の視線を受けて、玄沢が咳払いをした。
「もちろんないようですね。となると、謝花氏には次の滞在先が見つかるまで、ホテルで寝泊まりを──」
「ホテル!? そんな金ないよっ! しかも十日なんて……!」
「俺からぶんどる三十万があるだろう」
「それは無理です」
玄沢が淡々とした口調で言った。
「慰謝料の受け渡しは、双方の要求が完遂された時、つまり謝花氏が引っ越しを完全に済ませたあとで渡してもらいます」
「えっ、そうなの!? そんなの聞いてないよ!」
海斗が青い顔して、探偵を見た。
「当たり前です。お金を受け取ったあとも、ここにだらだらと居続けられたら、今までと変わりがないですから」
さすが探偵。陽向たちの関係を、よくご存じらしい。
海斗と自分はこれまで何度も、
「金やるから出ていってくれ」
「わかった。出ていくよ」
となるものの、数日後には結局、海斗が「金がない」と帰って来て、元通りの生活に戻る。その繰り返しだ。
きっと玄沢は思っているだろう。
こんなデリカシーもない考えなしの軽い男と、約一年も付き合っていたなんて、こいつは何と馬鹿なのだろうと。
(……そうだ、俺は馬鹿だ)
陽向はすくりと立ち上がった。
「どこへ?」
と、玄沢がすかさず聞いてくる。
「俺が出ていく」
陽向は自室へ向かった。旅行用の鞄を取り出し、手当たり次第に詰め込んでいく。
「どうして? 君が出ていく必要はまったくないんだ」
開けっ放しにしていたドアの前に、玄沢が立つ。感情の窺えない目で、荷造りする陽向の手元をジッと見ている。
「ここは君の名義で借りているアパートであって権利は──」
「あんたが俺のことをどこまで調べたかはわからないけど、俺はそこまでお人好しじゃないよ」
荷物をまとめる手を止め、後ろを振り返った。
玄沢はドアのフレームに手をつけ、複雑な表情で立っていた。陽向は両手を広げてみせる。
「十日間だ。十日経って、海斗がまだここに居座っていたら、何のためらいもなく外に放り出す。例え、外が大雪だろうと、嵐だろうと、宇宙人が侵略しにきていようと、ゾンビが跋扈していようと」
ふっと、玄沢が笑った。だが、すぐにお堅い探偵の表情に戻る。
「わかりました。その旨を氏に一字一句違えずに伝えておきます」
「よろしく」
玄沢の足音が遠ざかっていく。リビングの方で、彼と海斗が話す声が聞こえてきた。「ありがとう」とか「助かった」という声に混じって「契約」がどうとかこうとかという言葉が聞こえてきた。
陽向は音を立てずドアを閉めた。
もうこれ以上、馬鹿げた話など聞きたくない。
海斗と暮らした一年──無駄と徒労と消費に終わった一年間を思い出して、どっと疲れが襲ってきた。
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