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第32話

 説教が終わったところで、そっと会堂を抜け出した。小暮にたんまりと押し付けられた宿題を、一度仮住まいのマンションに戻って片付けなければならない。  門を出たところで、パタパタと足音が追ってきた。 「壮司さん!」  振り向くと、白い頬を微かに紅潮させた恵が追い付いてくる。まだ見慣れないスーツ姿が、早春の日に眩しい。 「どうした? まだ終わってないんだろう」 「だって、びっくりしたので。今日は来られないって言ってたのに……」 「なんとか都合がついたからな」  手を伸ばしそっと髪に触れると、恵は素直に嬉しそうに微笑む。可憐な唇を奪いたい衝動を、聖なる場所の門前だということをかろうじて思い出し自粛する。 「一度マンションに戻って野暮用を済ませてから、5時にはおまえの部屋に行く。いいか?」 「はい。待ってます」  恋人となった今でも、恵は相変わらず黒河に対して丁寧語だ。一線を引いているわけではなく、生来の礼儀正しさで自然にそうなってしまうらしい。くだけた口調になるのはベッドの上だけで、そのギャップに黒河が秘かに参ってしまっていることを、おそらく彼の方は気付いていない。 「教会の用事があるなら急いで帰って来なくてもいい。飯は適当に済ませる」 「小暮さんと?」  そう言って拗ねたように目を逸らす仕草も以前にはなかったもので、たまにそれが見たくてわざとやきもちをやかせてみたりする黒河だ。 「なるべく早く帰りますから、ちゃんとうちで待っててくださいね。……あ、そうだ」  可愛く念を押し、恵は急に思い出したように上着のポケットを探った。何かを握った右手を差し出し、いたずらっぽく笑う。 「プレゼントです。手を出して」  黒河が右手のひらを出すと、その上に恵が手の中のものを移す。三センチほどの銀色のネジが、黒河の大きな手に転がった。 「やっとみつけました。幸運のお守り」  ネジの頭部を見てみると、確かにあるべきネジ山が見当たらない。 「壮司さんが持っていて。いいことがあるかもしれませんから。それと……賭けは僕の勝ちですから、願い事を言ってもいいですか?」  幸運の不良品ネジを絶対にみつけると言い張る恵に、そんな都市伝説まがいのものが本当にあったら、なんでも願いを一つ聞いてやると、黒河は約束していたのだ。  睦言で交わされた冗談みたいな約束を、恵はしっかり覚えていたらしい。わくわくと、だがどこか言いづらそうに黒河を見上げてくる。 「ああ、約束だからな。何でも聞いてやる。何だ?」  本当は賭けなんかなくても願い事があればすべて叶えてやりたいのに、遠慮がちで謙虚な恋人の辞書にはおねだりと言う文字はない。今だって、黒河が苦笑し促しても、さらに言いづらそうに俯くだけだ。 「あの、実は先週大家さんから、今月中に出て行ってくれと言われて。建物の老朽化が進んでいるし、入居者は僕しかいないので、いよいよ取り壊すからって」  無理もない。あの半倒壊ぶりでは、遠からずそんなことになるだろうとは思っていた。 「馬鹿、そんな大事なことを、どうしてすぐに知らせなかった」 「壮司さんは忙しいから、つまらないことでわずらわせたくなくて。ただ……」  行くところがないんです、と、言葉にならなくても向けられた不安げな瞳がそう言っている。  黒河は思わず声を立てて笑ってしまった。そして神聖な教会の門前だろうが構わず、遠慮がちな恋人の腰を引き寄せる。 「な、何がおかしいの?」  人目を気にした恵があわてて胸を押し返してくる。うっかり出てしまったのか甘えを含んだ一言はベッドの上仕様で、黒河の体の奥を疼かせる。  このままさらって帰ってしまいたいが、もう少しの辛抱だ。今夜からはずっと、一緒にいられる。 「ネジの効力は絶大だな。早速いいことがあったじゃないか」 「ひどいです。人がアパートを出ていかなきゃいけないっていうのに」 「今夜から俺のマンションへ来い。体が先で、荷物は後回しだ」  耳元で囁くと耳朶がほんのりと桃色に染まり、小さな頭がコクリと頷いた。  肩にそっともたれかかってくる愛しい体を抱きながら、何気なく空を見上げた。灰色の霧雨が結びつけた絆を、今は見事に晴れ上がった青空が、大いなる存在の祝福と共に暖かく包んでくれていた。  † END †

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