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第1話
おおい……。
おおい……。
誰かが呼んでいる。聞こえているのに、目を開けることができない。瞼の裏よりも深い暗闇の中で……最初に見えたのは、山の緑と、檻だった。
足下に何かが転げ落ちた。しゃがんで拾い上げると、よく熟れた柿には歯形がついていた。
「……おおい。おおい、おおーい……」
木こりは首をひねった。
木こりはこの山に一人で住んでいる。山道の途中にある小屋で太陽と共に目覚め、木を切り、日が沈むと同時に眠る。
最後に人と会ったのはいつなのかわからない。それでも言葉は忘れていなかった。
「誰かいるのか?」
「上だ! 来てくれ、崖の上だよ!」
若い男の声だ。
よじ登れば届く小さな崖の上にある檻は、苔で鮮やかな緑色をした岩に囲まれ、入り口を竹の格子で遮られている。
その昔からある、麓の人間が罪人を入れるために作ったものだろう。檻に反して明るい声は、そこから反響して聞こえてくる。
「ああ、辺鄙な山だから誰もいないと思ったら。木こりがいたのか」
「俺に何の用だ」
「俺の柿、拾っただろう」
木こりは手の中の柿を見て、また見上げた。
「おまえは物の怪か? いつからその檻にいる。この山に人は来ないはずだ」
「冗談だろ! 俺が物の怪だって?」
そういえば昨日はやけに鳥がざわめいていた。滅多に人の来ないこの枯れ山に、麓の村の者が侵入してきたのか。
「そういえば誰かが言ってたっけな。変わり者の木こりが、ずっと独りで住んでるって」
姿の見えない声は尚も言う。
「木こり、聞いてくれ。あんたは柿を投げてくれればそれでいい。俺は化物なんかじゃないんだ」
「柿は山の物だ。お前のものではない」
「なんだよさっきから。あんたこそ山の持ち主かよ?」
木こりが背中を見せると踏んだ落ち葉がざくりと音を立てる。慌てた声が響いてきた。
「おい、待てよ。俺が人かそうでないか疑ってるのかよ。俺は人間だ。その証拠に、謎かけしようぜ」
男は勝手に話し続ける。
「水に住み、空を駆け、蛇ではないが、うろこを持つものはなんだ? なあ、物の怪がこんな問答を考えつくか? 答えられなかったって、あんたを食べやしないよ。その柿さえくれれば」
木こりは黙って、柿を檻に投げて寄越した。檻の前に転がった柿に、格子のすき間からにゅっと白い手が伸びる。
「ああ、やっとありつけた」
柿をつかんだ手が引っ込んで、がつがつと喰ってる音がほら穴に響く。
「問いかけの答えはなんだ。教えろ」
返事は聞こえてこない。木こりの声が苛立った。
「おい、謎かけの答えはなんだ」
ごくんと飲み込む音。
「ああ……えっと、答えなんかないよ。今考えたからさ」
「俺を騙したのか」
「素直に信じたのか? 純粋だね。木こりってのはみんなそうなのか?」
からかうような言い方に、余計に腹が立った。穴に居る男にも、そして自分にも。初めから声なぞ無視していればよかった。
簡単に人を騙し、平気で嘘をつく。
だから人は、嫌なのだ。
木こりは言った。
「お前は囚人だな。村を追い出された罪人(つみびと)が」
何らかの禁忌を犯し、人の集落から遠ざけられた罪人。盗みか、姦淫か、人殺しか。
誰も来ない山の洞穴で、わずかな食べ物しか与えられず、飢えるか、獣に食われるか。罪人には似合いの残酷な最後が待っている。
顔の見えない男は言った。
「騙したのは悪かったが、あんたが俺を化け物と疑ったんだぜ……。そんなに怒らないでくれよ。どうやらこの山には、あんたと俺しかいないみたいだし」
罪を受けている男の声には、悲壮感というものがまるでない。よっぽど肝が据わっている悪党か、狂人か、そのどちらかだろう。
「俺はイブキっていうんだ。なあ木こり、あんたの名前はなんて言うんだ?」
返事もせず、その場を後にした。「木こり、おい木こりよ……」と聞こえてくる声を無視する。
もう一度ここを訪れる頃には、きっとあいつは獣に喰われている。
罪人らしい最後を迎え、最後は骨も残らない。残酷なことだ。けれど自分の暮らしには、関係なかった。
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