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第12話(完)
イブキはそっと目を開けた。滝の落ちる泉の中から、大きな龍の頭が顔を出している。深い青色で透けた体に、怒りに燃えるような赤い目。両眼はまっすぐ、こちらを見ていた。
この世の生き物ではないうなり声が轟いた。イブキは草むらに放り投げられ、周りから、人の気配が消えていく。
ぽつ、と頬に水滴が落ちた。さらさらと砂のような雨が、辺りを濡らしていく。
「イブキ」
頭を抱えられ、ゆるりとイブキは目を開いた。
「シダ」
名前を口にした男の頬には、藍色の鱗があった。ちょうど龍と同じ色の。
「俺にもまだ、雨を降らせる力が残っていたとは思わなかった」
抱き上げられ、大木の下に移動する。自分を抱える太い腕にも鱗が見える。手の甲にも、足にも。
「シダ……おまえは、おまえが龍神さまだったのか」
ひとではなかったのだな。雨で濡れた唇で、イブキはつぶやく。
自分を抱えるシダが頷いた。
「俺はずっと、罰を受けていた。もう何年も昔、俺が神と呼ばれていた頃、いたずらに土を崩し、川を溢れさせた。山の神から罰として人に変えられていた」
けれど、とシダは続ける。
「もうずっと自分が誰かということも忘れかけていた。だがイブキが来たから、思い出した」
「俺が?」
シダの厚い唇が、歌を口にした。
「俺が歌ったから?」
「ああ。そして、願ったからだ。お前が心からの願いを、初めて俺に」
殺されそうになって――シダに会いたいと、そう願った。
ふふ、とイブキはゆるく笑う。
「歌をおぼえていて、よかった。……婆さんが教えてくれたから」
下がる気温の中、シダがイブキを抱き寄せる。胸板に頭を預けながら、イブキが言った。
「婆さん、死んでしまったんだ」
「辛かっただろう」
「うん。でも俺は、こういう日がいつか来るってわかってた。穴蔵に入ったら、俺が先に死ぬだろうから、婆さんの死に目を見なくて済む。本当は穴に入ったのも、婆さんのためだけじゃなくて、俺は、置いていかれるのが怖くて……」
けれど知ってしまった。愛してくれた人は、もうこの世にいない。支えが切れたように体に力が入らない。
「あの穴で死ねばよかった。もう生きていたくない。俺は弱い。またひとりぼっちだ。ひとりではいきていけない」
「なら俺のために生きろ」
顎を取られ、涙に濡れた顔が上を向かされる。頬に鱗のある精悍な顔つきの男は、自分をまっすぐ見つめていた。
「お前が俺に名前を与えた。何者かを思い出させた。おまえがいらないと言うなら、おまえの命は俺が貰い受ける。おまえは、俺と共に生きろ」
人のものではない、赤い目に黒い縦の瞳。その目から目を逸らすことはできなかった。
――この檻からは出られない。
背筋をぞくりとさせる予感に、不思議と恐怖はなかった。その代わり、自分を指の先まで満たしてくれる、どこか甘い毒のようなもの物が含まれていた。
「人のおまえより、俺は長く生きる。お前を残して逝くことはない」
「俺が、死んだら」
イブキの声は震えていなかった。
「俺が、死んだらまた別の人間を見つけるのか? シダ、それはいやだ」
「いいや。別の何かに生まれても、必ずお前を探し出す。約束する。会いたいと願ったように、願え」
約束――。
「約束、する?」
「そうだ、約束だ」
そのままの姿勢で、強く抱きしめられていた。
胸に自分を抱きかかえたまま、シダが立ち上がる。
「シダ、どこにいくの」
「お前に見せたい場所がある」
イブキはその時初めて、シダが笑うのを見た。慈愛のような、やさしい微笑み。
イブキも、きっと気に入る――。
その山には龍神と、一人の美しい若者が住んでいるのだと言う。
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