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第11話
ぴちょり、と鼻の上に水が落ちる。茣蓙の上でイブキは体を縮こめた。目を覚ます前から水と土の匂いがして、ああ、洞窟の中だと思った。
奥まっていてよく見えないが、穴蔵を四つん這いで進むと段々広くなり、奥には湧き水が溜まっている。こんな場所で十日も生き延びられたのも、この水のおかげだろう。
村にいた歴代の巫女は、この山で龍の加護を受けひと月を過ごし、神と口を交わすことで村に恵みを与えたのだと言う。巫女は穴蔵に入れられても尚生き、美しさは変わらなかったと。
実際は、この水で体を清め、水と湿気で出来た苔で生き延びられたのだろう。そして雨が降るのを待った。神も、神と口を交わす巫女も、最初からいないのだ。
檻の前に目をやると、はっとした。大きな笹の葉の上に、鰯や蕪、栗などの食料がたくさん置かれている。
「……シダ」
まるで貢ぎ物だ。口角を緩ませながら、栗の皮を剥き、かりっとほろ甘い実を口に入れた。
シダは不思議な男だ。
たった一人でこの山に住む男。名前無い、家族もいないシダに、自分の生い立ちを重ねていた。
シダはぶっきらぼうで、強面だが、優しい男だ。
穴蔵の中にいながら、巻き込んではいけないと思うのに、自分が人寂しいのもあるけれど、シダの強さに惹かれていった。つい、話しかけたり。遠ざけようとして、出来なかったり。
病気の自分を介抱して家に連れて行ってくれた。家から出してくれず、半ば強引に抱かれたが、手つきは自分を労るように優しかった。こちらを強く思う愛情が伝わってくるのを感じた。一方的に欲をぶつけられることしか知らなかったイブキは、シダの中にある濁流のような激情を、どうしようもなく――寂しい心で、嬉しいと感じた。
水を飲み、少し眠った。翌朝はとても冷えていて、食料と一緒に置いてあった麻の着物を重ねて着た。
日の経つごとに、自分の体が弱っていくのがわかる。
水を飲み、虫が湧かないよう体を清める以外は、日がな一日茣蓙の上に寝転がるようになった。わずかに日の差す場所で、太陽に当たって、眠る。その繰り返し。
うつ伏せになったイブキの耳に人の声が聞こえた。
体が鉛のようで、起き上がることはできなかった。
「死んどるか?」
「いや、生きとるぞ。驚いたな」
檻の外から聞こえる声は、聞き覚えがあった。村の役人たちの声だ。
「婆さんの孫だと言うのも、あながち嘘でもなかったかもしれんな。出してやれ」
指示する声は、たしか村長の息子のものだ。どやどやと声に囲まれ、イブキは自分の体が浮くのを感じた。瞼の裏に透ける太陽が痛い。両側から腕を抱えられ、人形のようにぶら下がったイブキは、ゆるりと目を開く。自分を神輿に担いだ村役人の男が、正面に立っている。
「イブキ、もうひと月だ。お前が檻に入っても、ちっとも雨は降らんかった」
イブキは黙っていた。
「儂らはな、お前に知らせに来たんじゃ。巫女の婆さんは死んだぞ」
眠たげだったイブキの目が見開いた。
「う、うそだ」
「おまえが山に行って、数日経ってからか。雷が出た日だ。あの晩は冷えたからな。風邪をこじらせたんだろう」
ぼろりと涙が流れた。
「うわああ……」
糸が切れたように前のめりになって倒れる。村長の息子が指示し、一人がイブキの髪をつかみ顔を上げさせた。
泣き濡れた顔が上を向く。
「穴蔵にいてもお前は変わらんなあ。女みたいな顔しとる」
粘つくような声と表情が、幼いイブキを苦しめたあの僧と重なる。
「痩せたか? 俺は反対だったんじゃ。こんな穴にお前を入れるのは勿体ないと思っていた。今は大仏造りで、男も女も若いのはおらん」
にやけた顔が近づく。
「誰も龍神なんか信じてねえ。年寄りの世迷いごとだ。みんな放っておけ言うたが、俺はなんとかしてお前を救いたいと思っていた」
「はなせ……」
地面に転がされて四肢を押さえつけられる。抵抗する声は弱々しく、力は残っていない。覆い被さる男に吹き込まれる。
「犯して捨てても、誰も文句は言わん。もう婆さんもいない。お前を庇う奴はおらんよ。大人しくしておけ」
涙に濡れたイブキの顔から、すっと表情が消える。
もう、どうなってもいいのかもしれない。大事にしてくれた人も、帰る家も、自分にはない。何もかもから逃げるように目を閉じた。
瞼の裏の暗闇で――最後に、会いたいと思った。
シダに、会いたい。
ざん、と水の音がした。
「なんだ?」
男たちが上を見上げる。先ほどまで晴れていた空に、黒雲が被さっている。次いで、耳をつんざくような、空が割れる音を聞いた。
誰かが震える声で湖を指さした。
「龍だ……」
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