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January
俺はこのまま死ぬんだろうか。
考える事はと言えばそればかりだ。
深夜のコンビニバイトへ向かう途中で、誰かに襲われた。相手は男だったと思う。武器は多分……スタンガンか何か。目が覚めて暫くは、首の後ろがヒリヒリしていた。
けれど確認は出来ていない。
傷の具合だけではない。
何もかもが、把握出来ていなかった。
余り広くはないと分かるだけの、真っ暗なここがどこなのか、俺を襲ったのは誰なのか、目的はなんなのか、あれから何時間経ったのか。何ひとつ分からない。
いや、何時間、なんて短時間でないのは確かだ。
両手は後ろで括られ、足首も縛られ、ついでに口にも何か噛まされていて、体勢を変えるのも一苦労で、通常よりも体力を使う。固い床で寝ていると体が痛くなって何度も向きを変える羽目になったが、もう痛みよりも動く事の億劫さが上回っていた。
空腹も深刻で、轡を繰り返し噛み締めたりもした。布製なのか、唾液を吸うそれは腹の足しになる事もなく、今や異臭を放ち始めていた。
そして何より、俺の精神力をごっそりと削いだのは排泄だ。催してもどうにもならず、漏らすしかなかった。
真っ暗なここは室内ではあるようだが暖房は入っていない。股間や尻の冷たさが、堪らなく惨めだった。でも今が冬でまだ良かったのかもしれない。これが夏だったら、この悪臭がどれだけ酷い事になっていたか。痒みだって、耐えられないものになっていた筈だ。
それにしても分からないのは犯人の目的だ。
身代金でもぶん取る魂胆なら、小さな子供だとか大企業の重役だとかを狙うだろう。残念ながら俺は夢見るしがないバンドマンで、現実は単なるフリーターだ。実家もごく普通の家庭で裕福ではない上に、既に疎遠になっている。
金銭目的でないなら俺に恨みでもあるのか。それも身に覚えのない話だが、絶対にないとも限らないだろう。だとしても、だったら何故、拐ったまま放っておかれているのだろうか。
やはり俺は、このまま朽ちていくしかないのか。
糞尿垂れ流して餓死か。最悪な最期だ。
耳を澄ますと、遠くで寺の鐘の音が聞こえた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……除夜の鐘だ。
俺がバイトに向かったのが28日の夜だったから、数えて……もう、そんな簡単な計算をする気力もない。
バンドメンバーとか、バイト先のオーナーとか、俺を探してくれているだろうか。
だとしたら少し急いで欲しいところだ。
衰弱し切るのが先か、完全に発狂するのが先か、どちらもそう遠くなさそうだ。
除夜の鐘は幾つ鳴っただろう。
新年を告げる鐘に耳を傾けていると、突如もっと近いところで、ガチャガチャという音が聞こえた。
誰か来た……?
犯人? 警察? 誰だ?
鐘よりは近いものの、まだ多少距離のある音に、意識を集中させる。腐ってもバンドマンだ、耳には自信がある。
一般の住宅なのか、鍵を開け、扉を開閉した音に続き、廊下を歩く音。土足ではない。もっと静かで、でも足早でドタドタと響く。
それが徐々に、こちらへと近付いて来る。
相手を推測するよりも早く、目の前の扉は開け放たれた。
「……!」
その場が一気に明るくなり目が眩む。
僅かに見えた光景はごく一般的な住居といった具合で、目に飛び込んで来た光もただの室内灯だった筈だ。しかし暗闇に慣れ切った俺には強烈で、どんな人物が現れたのかも、すぐには分からなかった。
「ただいま! やっと仕事が終わったよ、ミツル」
男の声が俺を呼んだ。ミツル。間違いなく俺の名前だ。
「それから明けましておめでとう。スーパーの惣菜だけど、一緒に食べようね」
なに……何がなんだか……
恐らく俺は、とんでもなく酷い格好をしている。
手足を縛られ口は塞がれ、下半身は汚物でぐちゃぐちゃだ。
男はそれらを、一切気に留めている様子がなかった。
「ほら、口外してあげるね。お腹空いたでしょ?」
どころか男は、汚れた俺を厭う事なく抱き起こすと口の枷を外しにかかる。
この顔……見覚えがある。この顔は、ああ、そうだ。
「寂しかった? ごめんね、なかなか家に帰れなくて……あは、凄いね、これ。涎でびしょびしょ」
明るいところで見ればなんて事はない、けれど数日間、俺がずっと噛んでいた異臭のするタオルを、男は愛おしいもののように唇を寄せた。
知っている男だ。
よく店に来る、常連客だ。
特に目立つわけでもない、草臥れた風体の痩せた30前後の男。弁当や栄養ドリンクといった、これまた特徴のないものをいつも買っていく。
顔は知っている。でもそれだけの男だ。
他に接点などない。
「それじゃあご飯にしようか。一応ね、お正月っぽいもの買ってきたんだ。食べさせてあげる」
俺は言葉を失った。
言いたい事も聞きたい事も山ほどあったけれど、どこから口にすればいいか見当もつかず、それ以前に劣悪な環境で放置され、声そのものがすぐには出なかった。
結局、俺は殆どされるがままで、男は片手でビニール袋をガサガサと漁る。正月用なのか紅白の包装紙が見えた。
腹は減っている。今にも倒れそうだ。でも体もあちこち気持ち悪いし、それに1番の気掛かりは。
「……あんた……何者……?」
俺の認識ではただの常連客でしかない男が、何故こんな暴挙に出ているというのか。
「いやだなミツル、そんな冗談」
「冗談……? 冗談はどっちだ……! てめぇ、こんなコトして、タダで済むと……!」
「あはは、悪役の下っ端みたいだよ、その台詞」
男は全く意に介さず、他愛なく笑い飛ばす。
俺は強引に体を捩っては、全身全霊で男を睨みつけた。
「……どうしたの、ミツル」
漸く、男から笑みが消えた。やっと取り合う気になったのか。
「さっさと俺を解放しろ。俺はてめぇなんか知らねぇんだよ」
正確には顔だけは知っている。だが知っているのはそれだけだ。
この男の行動理由など、一切知らない。
「……酷いなぁ、ミツル。どうしてそんな事、言うの?」
「っ……!」
みし、と軋んだ音が聞こえた気がした。
それほどに強く、男は俺の腕を掴む手に力を込めている。
怒らせた? 失敗した? ヤバい?
そうは思うが、最早策を巡らすだけの思考力も残っていなかった。
「俺だよ、芝原公二。ミツルの恋人だろう?」
「は……なに言って……」
なんだコイツ。頭おかしい。恋人? 何をバカな事。
「ねえ、俺の帰りが遅かったから拗ねてるの? それは悪かったけど、仕方ないでしょ? これからはミツルも養っていかなくちゃならないし。幾らミツルが男でも、あんな時間に働かせるのは不安だからさ」
なんだ……? 何を言っているんだ、コイツは……?
男は――――芝原は、少しだけ表情を和らげ、宥めるように眉尻を下げた。
つまり……? コイツの中で俺は恋人で、養っていると……?
ふざけんな、こんなの監禁以外のなんでもないだろうが。
要するに、男の俺が男のターゲットにされるとは思っていなかったが、大分末期のストーカーにロックオンされていたらしい。
「お……俺はッ!」
まだこれだけの余力が残っていたのかと、自分でも驚くような大声が飛び出した。
このまま黙って好き勝手されて、いつかニュースを賑わすつもりなどない。
「俺は! お前なんか知らないッ! いい加減にしろよ、このッ……!!」
パン、と乾いた音が響く。
頬がじんじんして、叩かれた事に気付いた。
「ミツル。あんまりしつこいと、怒るよ」
情けない事に、俺はそれだけで涙目になった。
余りにも不利な己の立場を実感してしまった。
手足を縛られ空腹で起き上がる事もままならない。ついでに下半身は汚物塗れだ。
元々の体格ならば勝る俺も、現状では勝ち目がない。
喚いても悪態をついても、事態は好転などしない。
それを思い知るには、充分な一撃だった。
「叩いてごめんね。ミツルもお腹減って、イライラしちゃったんだよね」
半ば呆然としていると、芝原はこれでもかと頭を撫でて微笑んだ。
やはりいつも見かける、冴えない男の顔だ。厳ついわけでも、凄みがあるわけでもない。どちらかと言えば気の弱い、パッとしない顔立ちだ。
だが今の俺は、そんな男の顔色が気になって仕方がない。
「さ、食べよう。お弁当もあるけど……どうせだから先にお正月っぽいもの食べたいよね。2人の新しい1年の始まりなんだし」
芝原は本当に、恋人を相手にするような穏やかな表情で、嬉々とした声音で以て言った。
俺は答えに窮する。
強行策に出られない以上、今は話を合わせて隙を見るくらいしか脱出方法はないだろう。
しかし今の俺に、そんな頭を使う力はありそうにない。かといって手足を括られた状態で暴れても怒りを買うだけだ。
「これ……本当は切るんだろうけど。まあいいよね、面倒だし。そのまま食べちゃおう」
芝原の手元に視線を落とす。包みから現れたのは伊達巻だった。それを? 切らずに? 風情も何もあったもんじゃない。
なんて最悪な正月だ。
それでも俺は数日ぶりの食料を前にして、ごくりと喉を鳴らしていた。
ああ……でもその前に、水くらい飲ませて貰えないだろうか。水分も摂取しておらず、唾液も乾き切っている。
「はい、あーん」
だが気の利かない男は、包装を剥いただけの伊達巻を早速口に運んでいる。
仕方なく、恐る恐る、口を開いた。
「んっ……ぅぐ、んっ……ぅぶ、」
待て待て待て待て!
僅かに開いただけの口に、芝原は思い切り柔らかい塊を押し込んできた。
最初の方は頑張って飲み込もうとしたのだけれど、すぐに口から溢れ、脆いそれは床にボロボロと落ちた。
「あーあ……ミツルってばこんなに零して……」
ヤバい、怒られる。
そう構えてビクついていると、芝原は落とした塊を拾い上げ、俺の口元へと運んだ。
「美味しい?」
芝原はにっこりと笑っている。
食べカスを摘まんだ指はは、口に運ぶだけに留まらず、口腔へと侵入し、甘みのあるそれを押し潰すように舌を撫でた。
途端に、とてつもない嫌悪感に襲われる。
少ししょっぱい指の味や体温を感じ取ってしまった。床に落ちたものを入れられた。別に俺は潔癖症なわけじゃない。でも口の中を、洗ってもいない男の指で弄られ、汚物で汚れているかもしれない床に落ちたものを、舌に載せられた。
込み上げたのは、吐き気だ。
「ウェ……ッ! ぉ、ぉ、あ……うぅ……ッ」
当然吐くものなどなく、男の指から逃れるように顔を背けた直後に、今口にしたばかりの幾らかの欠片と、胃液だけがボタボタと垂れた。
具合は、更に悪化した。
「大丈夫? 詰まっちゃった? あ、水あるよ、水。飲む?」
芝原は俺の背を摩りながら、初めて真っ当な受け答えをした。
尤も原因に関しては否定してやりたかったが水は欲しい。俺は繰り返しコクコクと頷いてみせた。
ややして、ミネラルウォーターのペットボトルが、口に宛がわれる。出来れば1度、口を濯ぎたかったが、流し込まれ続ける水に、それは叶わなかった。
今度は殆ど零す事なく、ボトル4分の1ほどの水を嚥下する事が出来た。
多少渇きが癒されただけで、依然気分は最低だ。
「落ち着いた? じゃあ残りも食べてね?」
「ぐ、ぅ」
言うが早いか、また口に伊達巻を突っ込まれる。
零さぬよう必死で咀嚼するも、ペースが追い付かない。そもそもこうやって食べるものでもない。明らかに無理がある。
結局、先ほどよりは多く食べたところで、俺はまた吐いた。
ほぼ胃液のみだった前回と違い、今度は水分と食べ物が多く混ざっている。喉にかかる負担は軽減された反面、床には、正視に耐えない吐瀉物がぶち撒けられた。
またやってしまった。
しかし不可抗力だ。好きで吐き出したわけではない。俺だって、かつてないほどの空腹状態なのだ。
俺は芝原をチラリと見る。
怒らせただろうか。折角の食料を、取り上げられてしまうだろうか。これ以上放置されたら、俺は本当に死んでしまう。
果たして、次に芝原が取った行動は、意外なものだった。
いや、よくよく考えれば、最初と同じ行動ではあった。
芝原は、素手で俺の嘔吐物を掻き集め始めた。
「ダメだよ。ちゃんと食べて」
「や……やめっ……嫌……ッぐ、ぅぅぅう……ッ!」
芝原は掬ったそれを、俺の口へと押し戻した。
疲労とパニックで取り乱した俺は口を噤む事を忘れてしまい、容易く酸っぱい臭いのするそれを押し込まれてしまった。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!!
だが口は芝原の手で塞がれ、吐き出せない。終いには、いつまでも飲み込めずにいる俺の鼻を笑顔で摘まんで、無理矢理に飲み下させた。
そこまで来るともう、嫌悪感よりもただただショックが大きかった。
俺は呆然と、眼前の人間を見る。
「ミツル、ついてるよ、ここ」
不意に、口の端を何かが掠めた。
それが芝原の唇である事に気付いたのは、頬も鼻も目尻も、あちこちに触れられ、遂には舌で下唇を舐められた時だった。
それがキスであると気付いたのは、もっとあとになってからだ。
だって今の俺の顔は、口は、酷く汚れて、吐いたばかりで、なのにこいつは。
ああ本当に――最悪、だ。
「まだまだあるからね。お正月だし、奮発したんだよ。いっぱい食べてね」
そうして、嘔吐と強引な嚥下を繰り返す不気味な食事で、俺の新年は明けた。
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