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第7話
雷音は自分の学習力のなさに自己嫌悪に陥っていた。俺、アホなのかもと高い天井を見上げる。
アホかもと思う原因、それは今の状況。雷音は絢爛豪華なバスタブに、万里と二人向き合って浸かっていた。
いつかの光景と全く同じだ。壁も天井も装飾品も変わらない。すべてが同じで白昼夢にも似た状態。
あの日、ここにはもう来ないと思っていたのに自分から飛び込んでいるだなんて、これこそ飛んで火に入る夏の虫…。
「あー気持ちええ、俺、風呂好きやねん」
「ああ、そう」
素っ気ない返事をして、雷音は白く濁ったお湯を手で掬う。ご機嫌な万里と違い、雷音は己の浅慮さを呪っている最中だ。
にべもない返事しかしない雷音に、万里はお湯を弾き飛ばした。
「あんはんなぁ。どないよ、それ。あんはんが付いてきとって機嫌悪っ…。ナンバーワンのアフターはこんなんなん?」
「客にしてるみたいにしてほしいのかよ」
非難はごもっともだが、雷音は投げ遣りに言ってお湯を弾き返した。
社交辞令もなし、敬うなんてとんでもない。ここまでくれば開き直って対等でいいやと思った。
「ふふふ…何や、今度は不貞腐れかいな。まぁええわ。俺はホスト雷音は好かんさかい。ホスト雷音はよそよそしいてつまらん」
天を仰ぐように頭を縁に載せながら、万里は笑う。男二人、足を伸ばして浸かっても、まだスペースが残るバスタブ。
今更ながら言われるがままホテルに付いてきて、風呂に入る自分が滑稽過ぎて笑える。
だが後悔しても後の祭り。雷音は顔をお湯で洗って、目の前の万里を見た。
「ねぇ…。それ、見えてんの?」
雷音は万里の涙のような傷跡を指差す。それこそ真紅の瞳から流れる赤い涙のように存在を誇示する傷跡。
身体が火照っているのか、傷も目も、普段より赤く色づいているように思えた。
「見えとるよ。でも、視力良好とはいかんなぁ」
「そんな顔に傷作って、目にもダメージ喰らって。それでも極道ってやる価値あるんですか?」
「出よった、雷音の極道嫌い。やて、こん顔の傷は自ずから進んでこさえたもんやないで」
「は?」
「巻き沿いや巻き沿い」
「巻き沿い?」
「そや、俺が極道なった事件」
「なにそれ」
雷音は形の良い眉を顰めて、万里を見た。
「抗争に巻き込まれて、乗っとった車がクラッシュして、俺はこん傷、親は命取られたんや」
「え…サラリーマンって。あれ?おかしくないですか?あんた、明神万里って名前ですよね?それって明神組の血縁者ってことじゃないんですか?」
「まぁ、話せば長い話やけどな。ガキの俺と両親が乗っとった車が、たまたま抗争中の極道連中の車列に入り込んでもうて、車もええのん乗ってたおかげで組員や思われてなぁ。他の明神の組員乗った車と共に襲撃喰らったんや。ほしてこん傷。堅気の俺ら巻き込んだ事件さかい、連日大騒ぎならはったで。知らん?まあ、身寄りのない俺を、先代が養子に取ってくれたんや。ラッキーやろ?」
「何がラッキーだ!ヤクザのせいで親殺されて、恨みがあっても感謝なんて一切ないだろうが!!」
声を荒らげた雷音に、万里は驚いたように顔を向けた。
「どへんしたん?ビビるやん」
「…何でもない」
雷音は吐き捨てるように言うと立ち上がり、バスルームから出ていった。
自分が怒る義理など何もないが、だが親を殺されて、直接ではなくともその要因はある人間に養子に入る。
万人には理解されない人生みち。雷音は奥歯を噛み締めた。
やはり極道は極道。雷音は頭を振った。
「雷音は気分屋さんやなー。風呂に一人残されて悲しいわ」
ベッドに腰かけていた雷音の背中に凭れるように、ローブに身を纏った万里がベッドに乗り、座った。
高級なスプリングのベッドは万里の重みで沈みはしたが、軋む様な音を鳴らす事はなかった。
「気に障ったんなら、こん話しもうせんから。ヘソ曲げんと機嫌直してぇや」
雷音の背中に背中を合わせ、猫の様に後頭部を擦り寄せる。濡れた髪が肩に当たって、気持ちがいい。
「気に障ったとかじゃない…理解出来ないだけ」
「せやね、理解出来んね」
万里はフフッと笑った。
「…こん傷嫌い?目は気色悪いかもしらんけど」
万里は身体を反転させて雷音に後ろから抱きつく様にして、肩に両腕を回した。視線だけ動かせば、ルビーの様に赤い目が柔らかく笑っていた。
「…嫌いじゃない。目も、気持ち悪くもない」
本心だ、お世辞じゃない。雷音は万里の涙のような傷を気に入っていた。
サファイヤの様な碧眼でもなく、自分の様な色素の薄い茶色がかった目でもない。
一生に一度逢えるか否か、それほどに貴重な宝石。そう言っても過言ではない万里のルビー色の瞳。
そして小綺麗な顔に刻印の如く刻まれた傷は、セックスの時には万里が高まれば高まるほど赤く色ずく。それが綺麗だと素直に思った。
「雷音はややこしいお人やなぁ、男ゆーんはこへんにややこしいんやろか?おなごの方が扱いやすいかもしらんわ」
「…うるせ」
「雷音は俺の稼業が好かんのやねぇ。まあ、好かれへんような稼業やへんさかい、仕方おへんけどな。あんはんには、もっとちゃう理由がありそうな気もするわ」
「ないよ。夜の仕事してんだから、俺にも色々あるし。あんたも極道なんかやってりゃ、色々あるんじゃないですか?詮索はなしだ」
「せやな。堪忍」
万里は雷音の鍛えられた背中にそっと口付けた。筋肉の筋を指で撫でながら、背中の窪みに舌を這わす。
「…あんた、本当はノンケなのに何で俺を誘うの?」
雷音は万里の腕を引っ張り、その羽の様に軽い身体をベッドに腰掛ける自分の上に跨がせた。
「ノンケって何?」
「…ホモとか…ゲイじゃないでしょ」
「あー、こへん非生産的なことを、なんでしたはるんかってこと?」
「まぁ、そんなとこ」
万里は雷音の問いに、うーんと唸って考える仕草を見せた。
欲望のままに行動する、万里の性格は恐らくそんなとこだろう。なので敢えて何故そんな事をするのかと聞かれると、本人はそんなに難しく考えて行動している訳ではないので答えに困るのだ。
「あ、そうそう、一回な、鑑別入ってな」
「鑑別?替え玉はなかったんですか」
「やり過ぎて、親父も何事も経験やて代役くれんとぶちこまれてん」
「またチャレンジャー。慰めものでしょ、あんたみたいな顔」
顔の傷と目の色は異質だが、ベビーフェイスに白皙の肌。身体つきもしなやかで、がんじがらめの規律と閉鎖的な空間にこんな男が居れば、血迷う人間が居てもおかしくはない。
腕っ節の強さでくぐり抜けたのか、実はやはり男との経験があるのか。
「せやせや、俺もそないやと思ったんやけどな。知っとる?ああゆーとこてプライバシーかなんや知らんけど、普通は受刑者の罪状や刑期やなんか知られへんし、言うたらあかんねん。もちろん名前もない。数字で呼ばれるんやねん。やて、」
「みんな知ってた」
「せや、房ん奴等だけやあらへん、他ん奴等も皆こぞって俺に頭下げよる。まあ、つまらん。でな、そん房に線ん細いガキがおってな。こへんな奴、消ゴム一個もよぉパクらんて奴。ヘタレでおなごみたいに目デカイ」
「ソイツが慰めもの」
「ありがたいことにな、俺に贈呈しよんねん。房ん奴等。笑うやろ。生まれたてん小鹿みたいにガタガタ震える奴を、俺にどうぞてなぁ。萎えるて。男掘る気もなかったんに。さかいに、俺専用てソイツが他にされんようにしてん」
「…え?答えになってないけど」
万里が収監されていたというのに興味があって大人しく話を聞いてはいたが、結局それが雷音の質問の答えにどうなるのか。
雷音は万里の華奢な腰に腕を回して、ぐっと抱き寄せた。それに万里が妖艶に笑い、雷音の唇をぺろっと舐めた。
「まーだ。大人しいしとき。で、房ん中は一人でオナるんも禁止、かと言ってケツ掘るんも掘られんのもかなん。それも数週間って話やあれへん。何ヶ月もや。そない究極ん状態やて耐えれたんに、あんたは何やヤりたい思った」
「え、何それ」
「マイノリティなんて、己の匙加減やで。本能や」
雷音の肩に腕を乗せ、万里が悪戯っぽく笑う。
その己の匙加減を皆、世間の目や常識に捕われて越えれずにいるのだ。万里の様にこうだと思って、ぴょんと飛び越えられるのなら人は悩んだりしないだろう。
「あんたのは節操なしって言うんじゃないんですか?普通の男はね、ゲイでもないのに女役なんてやろうと思わないんだよ?」
「神原にもよぉ言われるわぁ。そないゆー倫理観とかがなさすぎるゆーてな。えげつないよなぁ」
「まさに、その通りでしょ」
「欲望ん赴くまんまってやつや。気持ちええことはみんな好きやろ?」
チュッと口づけられ、息を一つ吐く。まるで魔性だと思いながら口づけを返し、舌を絡ませたところに中断を促すけたたましい電子音。万里の携帯だ。
「はー、なんな」
万里は落胆して雷音の頬にキスをして、雷音の上から降りるとテーブルに置いてあった携帯を手にした。
ディスプレイに映る文字にまた嘆息すると、通話ボタンを押した。
「まさか嫌がらせやないやろうな、神原?は?そないよ、いつものホテル。どへんした?うん…あー?…うん、そうなん?わかった」
万里は肩を竦めて携帯を切ると、ローブを脱ぎ捨てた。何もかもがあらわになり、雷音は思わず顔を背けた。
「仕事?」
風呂に入る前に脱ぎ散らかした服を次々纏う万里は、何も言わずに愛用の煙草、ダビドフ・マグナムを銜えた。
「…?」
「仕事やなく、トラブルやな。難儀や」
「トラブル?」
雷音は落ちていたネクタイを拾い、万里の首にかけると手慣れた手付きで巻いていく。それに万里は笑った。
「嫁はんみたいや」
「こんなゴツくてデカイ嫁なんて、遠慮したいね」
「せやなぁ。なぁ、あんた携帯おせてや」
「は?」
キュッとネクタイを締め、雷音は首を傾げた。
「まさか持ってへんわけないやろ?携帯。店通うてあんた待つんも楽しいけど、時間無駄にするんはかなんわ。せやさかい、携帯。店用やないで。プライベート」
「えー」
思わず露骨に嫌な顔をしてしまい、それを見た万里はぷっと吹き出した。
「そへんストーカーみたいにメールするわけやへんし、電話もせんわ」
「本当に急な呼び出しは止めてくださいね。俺も客居るんだし」
「ほんに、ややこしいお人やなぁ。こへんに注文つけられたん、初めてやわ」
万里は雷音が結び終えたネクタイを丁度いいくらいに整え、煙草に火を点けた。そして腕時計をはめながら、あっと声を上げた。
「うわ、時間ないやん。神原キレたら難儀やさかいなぁ。あんた、これ。後でメールしてきて。メルアドと携番入れて。やらな、不幸ん手紙送るさかいな」
万里は珍しく早口でそう言うと胸ポケットから名刺を取り出し、雷音に押し付けた。
「朝までごゆるりしときや。浮気はあかんえ」
そして軽く口づけると、慌ただしく部屋を出ていった。
「…はぁ」
急に静かになった部屋で雷音は大きく息を吐いた。
腰にタオルを巻いた状態で放置されるなんて初めてだと思いながら、ベッドに転がった。雷音は押し付けられた名刺を掲げて、思わず嘆声を漏らす。
名刺に刻印された文字は、仁流会明神組若頭 明神万里。アドレスと携帯番号を教えるのに組の名刺を渡すなよと呆れながら、だがそこに刻印された肩書きがただの紙っ切れをやたらと重たいものに変える。
ズシリと感じるそれを振り払うようにパタパタと名刺を仰いで、雷音はナイトテーブルに置いてある煙草に手を伸ばした。
明神万里はかなり変わった男だと思う。変わっているとしか言いようがない。なんと言っても快感のためにマイノリティを簡単に飛び越えるような人間だ。
燃えるような真紅の瞳とそこから流れるように伸びた赤い傷。儚げで中性的な容姿に加えられたスパイスは、一気に注目の的となる。
ミステリアスでリリカル。なのに武闘派を謳う明神組の若頭なんかを襲名しているのだから、腕っぷしも相当なのだろう。
握れば折れそうに思えた腕は無駄なく筋肉のついた使い込まれたもので、身体のバランスがいいのも格闘技で鍛え上げたからだろう。万里は間違いなく極道なのだ。
雷音は何度目かの溜め息をついて、形の良い額を名刺で叩いた。
「聞いてる?雷音?」
ハッとして雷音は、直ぐ様蕩けるような笑顔を向けた。その笑顔の先、雷音の隣には大手銀行頭取の孫娘である花梨が少し膨れっ面で雷音を見ていた。
「ごめんね、怒った?」
「上の空!」
「違うよ、ただ最近風邪気味でさ。なかなか治らないんだよね」
言って、花梨の柔らかな髪を撫でれば花梨は大袈裟に大丈夫?を連呼した。
「大丈夫だけど、花梨ちゃんにうつらないかなぁ。それが気になって。花梨ちゃんが風邪引いちゃうとか、俺は無理だよ。ツラいもん」
頬杖をついた肘を組んだ膝について首を傾げると、花梨は顔を赤くした。
何不自由なく、花よ蝶よと育てられてきたのだろう。我が儘だが純粋さがある。
純粋というのは世間を知らないということで、花梨はその手の男に掛かれば直ぐ様騙されるだろう。
現に花梨は友達に誘われて行ったホストクラブのホストに言葉巧みに騙され、危うく身体を差し出し大金を巻き上げられるところだったのだ。
それを知った家族が何とか阻止して危険を回避されたものの、花梨は一度覚えたホスト遊びをやめようとはしなかった。
そしてこのままではいつか大事になりかねないと、孫可愛さと、中学から大学まで名門女子高に通い続けた男慣れしていない花梨をBAISERへ連れてきたのは他の誰でもない、祖父だ。
変な店の変なホストへ入れあげるくらいなら、多少料金が割高でも枕営業もない、教養と知識を兼ね備えたBAISERのホストへ入れあげたほうが孫娘の身の安全が保証されるというものだ。
紳士的で下世話な話もしない、時には一般常識を身に付けさせてくれる、まさに一石二鳥のホスト遊び。
BAISERは花梨以外にも同じような事情の客が多く、それも売りの一つだ。
かと思えば、芸能界という特殊な世界に疲弊したアイドルや歌手や俳優は老若男女問わず、BAISERに普通を求めてくる。
芸能人だと色眼鏡で見られることもなく、下心もなく、ただ愚痴を聞いて酒を酌み交わすだけの普通。
政界の人間も大企業のCEOや役員など錚々たる人間も、普通を求めてくるんだから滑稽な話だ。
雷音は花梨の話を聞きながら、そんな冷めたことを考えていた。
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