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第9話
万里は雷音が作ったスープパスタを二杯も食べると、満足したのかソファに転がった。
見た目が細い上に食に関心がなさそうだったので食は細いのかと思っていたが、意外に食べるので驚いた。
「ちょっと、そこで寝ないでくださいよ」
「寝ませんよ」
後片付けを済ました雷音が転がる万里に近付くと、今にも寝てしまいそうな万里は半分閉じかかった目を開けた。その見慣れた赤い目を見て、雷音は首を傾げた。
「体調、悪いんですか?」
「は?どないして?」
「目の色が薄い気がする」
いつもは燃える様に赤い真紅の瞳。今日はその赤さが少し薄い様な気がする。
錯覚かなと思いつつ、左目の下、涙袋の辺りを指の腹で撫でてみると万里はゆっくりと目蓋を閉じ、その宝石を隠した。
「んー、目ぇなぁ?気のせいやろ。まぁ、体調良好とはいかんさかい、あんさんの相手は出来んけどな」
「いりませんよ、アザだらけで傷だらけだなんて、サディストじゃあるまいし」
今は見えてはいない服で隠された部分もきっと、痣だらけだろう。そんなものを見せられてしまえば、確実に萎える。
白い肌に青黒い痣は痛々しい事この上ないだろう。
抱けば快感は得られるだろうが、立つのもやっと、座るのも辛いような万里にすればただの拷問。雷音にそんな趣味は無い。
「どこか、痛みますか?」
聞くまでもなく、全身だろうけど。
「痛いんはー、せやなぁ。あんたが口でしてくれたらのうなるわ」
「アホか」
戯けてみせる万里を雷音は身体を抱えあげると、部屋の奥のベッドへと運んだ。抱き上げてベッドまで運ぶ間、視界が高いと万里ははしゃいだ。
「客人用はないんで、一緒でいいですよね?」
ゆっくりと労る様にベッドに万里の身体を下ろすと、万里はそのベッドの広さにまた笑った。
「キングサイズとかエロい」
「身体がデカイもんでね、このサイズがちょうどいいんです。あんたには大き過ぎるだろうけど」
厭味を言うと、やはり笑われた。何をどうやっても、万里は堪えないのか雷音は息を吐いた。
「その剛腹さ、尊敬しますよ」
「そない?普通やで。剛腹とかないない」
他人の家に勝手に入り込んだ申し訳なさが皆無なのを、剛腹と言わず何と言う。図々しいか、厚顔無恥か。
「もう何でもいいや。寒くないですか?少し、今日は冷えるみたいだし」
「へっちゃらや。なぁ、キスしてぇや」
甘えた声を出して、両手を伸ばす。その顔に雷音は小さく笑った。
「どうしたの?ああ、寝れないんですか?」
「ちょい、ずっと神経昂っとったせいかいなぁ」
妙なテンションなのはそのせいか。
普段からテンションがよく分からない万里だが、今日はかなりハイだなと思いながら雷音は万里の頭を撫でるとキッチンに向かった。そして、冷蔵庫からミネラルウォーターと、キッチンの引き出しからある物を手に取ると万里の元へ戻った。
「どない…」
無駄口を叩かれる前に、それを口づけで塞ぐ。万里の細い顎を掴み、ゆっくりと口を開かせると舌を捩じ込んだ。
捩じ込まれた舌と一緒に入ってきた異物に万里は少し驚いたように身体を揺らしたが、抵抗らしい抵抗は見せなかった。
「…あんはん、何か」
口づけが離れ、銀の糸が二人を繋ぐ。雷音は揺らぐ万里の瞳に口づけを落とし、ミネラルウォーターを差し出した。
「大丈夫、軽い睡眠薬」
「やっぱり、よぉ出来た嫁さんやなぁ」
ふふっと笑いながらミネラルウォーターを口に含む万里の首に掌を当ててみた。少しだけの熱さが掌から伝わり、雷音は万里の狭い額に手を当てた。
「熱っぽいんじゃないですか?」
「そない?よぉ分からんわ。熱っぽいんはあんさんを見てるせいやないか?」
「バカ言ってないで寝てください。あんたが寝たら、ちょっと出掛けます」
「どこ行くん?浮気はあかんで」
「明日、起きても食べ物ないですよ?24時間やってるスーパーあるんで、行ってきます」
雷音はそう言うと万里の頬を撫でた。万里は子供みたいやと笑って、そして目を閉じた。
少しだけ様子を見ていると、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきて、雷音はそれに安心したように眉をあげるとラフな格好に着替えて部屋を出た。
マンションから少し歩いたところにあるスーパーは、輸入品も数多く品揃えした店だ。食材は豊富にあり、だが少しばかり値段は高め。
雷音の住むマンション周辺は富裕層が多い。なので、その値段も妥当な値段とも言える。
朝はパンか米か、好みを聞き忘れたなと思いながら自嘲する。
極道に近づくまい。思っていたのにその法則は容易く破られ、ズブズブと嵌る一方。
身体を重ね、身体に溺れ、ハニートラップだったらどうするんだと自分で自分を嘲笑う。らしくない暴走と、らしくない干渉。
部屋に無断で進入されれば叩き出せばいい。傷だらけだろうが何だろうが、相手は武闘派を謳う極道だ。傷も修羅場も慣れっこだろう。
だが現実は雷音は万里を叩き出すことはなく、ベッドで眠らしている。まるで母親の胸元で眠るように安心させた状態でだ。
雷音は小さく笑うと、ハムやレタス等を籠に入れていった。
無難なとこ、サンドイッチにしよう。あとは、野菜スープ。
健康と言うなれば美容管理はホストのマナーだ。ガサガサの肌では一流とは呼べず、自己管理も出来ないようでは三流以下。
蓮はそこはかなりシビアな上に、厳しく容赦がない。肌も髪も爪の先まで神経を使えない人間に、富豪の相手が務まる訳がないという持論で情け容赦なく切り捨てを行う。
基準は半年に一回、執り行われる蓮が厳選した健康診断だ。
その検査結果が来るまではホスト連中は死刑執行を待つような、囚人の顔をして日々を過ごす。そして結果。
赤ラインが引かれた検査結果が届けば、そのまま人間ドッグに放り込まれる。そして、その最終結果次第で裏方か解雇が決まる。
雷音が知る限り、赤ラインで表に戻れた人間は皆無だ。
「あ、フルーツ」
野菜売り場の横で、色鮮やかなフルーツが目に入り独り言を呟く。
じっと吟味しながら、何だか彼氏に甲斐甲斐しく世話を焼く女のようだと思いながら、そこは敢えて深く考えないようにした。
たまたま来た客人とも呼べない男に、自分の朝食ついでに食事を与えるため。あくまでもついでだと誰にするでもない言い訳をした。
部屋に帰ってからシャワーを浴びたりテレビのニュースを付けたりと、気を遣うことなく音を立てたがベッドで眠る万里が目を覚ますことはなかった。
そして、あと一時間もしないうちに辺りが明るくなりそうな時に、ようやく雷音はベッドに近付いた。
あまりに動かないでいるものだから、まさかと額に手をやるとほんのり温かい。死んではいないらしい。
雷音はそれこそ死んだように眠る万里の身体の下に腕を入れて、抱えるようにしてベッドに横になった。
身体が動かされたことで万里が小さく唸り、子猫のように身体を擦り付けてくる。
小さい子供をあやす様に背中を叩いてやると、またスヤスヤ眠りについた。
仄暗い部屋の中、赤く色付く傷に口付ける。少しだけそこが熱いような気がしたが、それは多分気のせいだろう。
昨日今日ついた傷ではないのは、その痕が物語っている。そっと、その傷に触れてみる。
意外に深い傷で、これを負った時の痛みは相当のものだっただろうと思った。
ぼんやりとその傷を眺めながら雷音は睡魔に襲われて、そのままゆっくり目を閉じて眠りに落ちた。
夢現つのなか、足元にモゾモゾと妙な感覚がして目が覚めた。片目を開けると、ブラインドの隙間から見える日差しが夜明けを告げていて、雷音は肘をついて上体を起こした。
「あんた、何してんだ」
雷音は大きい溜息をついて、自分の下半身に居る塊、万里に呆れた。
「いや、一食一泊の恩義」
「バカだろ、マジで」
一食一泊の恩義があれば、誰彼構わずフェラか。
万里は雷音のハーフパンツを脱がそうてして、雷音の足の間に身体を転がしていた。
「やっぱり、バカだろ」
雷音は大袈裟なほどに嘆息して、長い片足をあげて万里の身体を跨いだ。
せっかくの睡眠が。部屋の時計を見て、まだあと一時間は眠れたのにと万里を睨んだ。
「サービスどない?おにーはん」
「結構。サービスって言うなら、寝かして欲しかったね」
雷音はベッドから起き上がると、腰を回した。振り返ってみれば、万里がまたゴロンとベッドに寝転がっている。
人を起こしておいて、自分は起きる気がないのかと文句の一つでも言ってやろうと思ったが、顔色の悪さに万里の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど、具合どうですか?まだ、寝るんですか?」
「あんはんがけったいなお薬飲ますから、頭ぼんやりや」
ふふっと笑って万里はベッドで猫のように丸くなる。雷音がその頭を撫でてやると、ゆくっりと目を閉じた。
「そんなにキツい薬じゃないんですけどね」
自分もたまに飲む物で、おかしなルートで入手したものではない合法の薬だ。だが万里はまるで熱で魘されているかのようにゴロゴロしている。
よほど身体のダメージが大きいのか、本当にどこか具合が悪いのか万里は少し青白い顔でニッコリ儚げに笑った。
「何か、食べます?」
「…無理。眠い」
万里はそう言うと、本格的に眠るのかごそごそとベッドに潜り込む。
昨日はジーンズのまま寝かせたのに、今は白いしなやかな脚が白いシーツの上でまるで雷音を誘うかのように横たわる。
思わず伸ばしそうになった手を止めてベッドの横を覗き見れば、ジーンズが丸まって落とされていた。
「ったく…」
雷音はそれを拾い、何も言わなくなった塊をポンポンと軽く叩いて立ち上がると、パーテーションにしているスクロールカーテンを下ろしてリビングへと向かった。
洗面所へ向かい、ジーンズを洗濯機に放り込んでシャワーを浴びる。すっきりしてリビングに戻り、サイフォンでコーヒーを入れながら奥を覗くと、猫のように丸まったまま動かない万里が見えた。
知り合って間がない万里が、極道である万里が部屋のベッドで寝ている居心地の悪さに小さく笑う。
何だろうな、これ。思いながら新聞を捲ると、事件欄に”抗争か?”の文字を見つけた。
中国人三人が死亡、犯人は逃走。殺害された中国人が最近、縄張り争いで日本人グループともめていたとの記述がある。
日本人グループだなんて、はっきり仁流会系暴力団と書けばいいのに。
雷音はコーヒーに口を付けながら、奥のベッドで安心して眠る万里を思い浮かべる。
あの華奢な腕で、三人も人を殺したのか?
仁流会の中でも、明神組が武闘派だというのは有名な話だ。全国に名を轟かす仁流会。
その辺を歩く学生でもニュースや新聞、ネットで見聞きした事がある組織の名前。
この抗争を万里がしたと俄に信じられないとしても、それは事実なのだ。この事実が雷音にブレーキをかける。
呑まれるな。関わるな、近寄るな。
今のところ、シグナルは真っ赤な危険信号だ。
「本当、ダメだよなぁ。これ」
自分がそうした結果ではない、転がり込まれての今の状況だが決して良いとは言えない状況。
新聞を畳んでテーブルに投げて、はぁっと嘆息する。すると玄関のインターフォンが鳴り、雷音はしっかりとした確信を持ってモニター付の受話器を取った。
「セキュリティって言葉知ってる?」
『耳が痛い。申し訳ありませんね』
申し訳ありませんなんて微塵も思ってなさそうな男、モニターに写る神原は眼鏡をあげながら笑った。
どうしてそこに居るんですか?なんて聞くのも馬鹿馬鹿しい。この男の上司である万里は、雷音が帰ってきた時に既に部屋の中に居たのだ。
部下である神原が、オートロックをスルーして玄関前に居る事なんて何ら不思議な事ではない。
「開けます」
雷音はそう言って受話器を置くと玄関へ向かい、ドアを開けた。そしてそこに居た、シワ一つ見当たらないスーツを上品に着こなし、姿勢良く立つ神原に雷音は落胆する。
「下のオートロックはどうやったの?とは敢えて聞きませんよ。どうぞ」
「ありがとうございます。それではお邪魔いたします」
次から次へと、折角の休みが台無しだと雷音は頭を掻いた。
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