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第18話

「へぇ、やるねぇ。避けちゃった」 「やめろ!!柴葉!」 「やからぁ、あれ。安曇くれたらええんやて」 その名前に全員が驚いた。まさかの安曇だ。そう、柴葉の言う”あれ”とは安曇の事だったのだ。 「安曇、さん?」 雷音が驚き怯んだ瞬間に、両側に居た男達が雷音の腕を掴んで身体の自由を奪った。鍛え上げられた雷音の腕に、男の堅い指が喰い込む。 「…っ!!離せ!!」 「おい!柴葉!やめぇ!!」 「シーッ。大声出しなや。あんな、この男、井岡っていうてな、昔、ボクサー目指しててんけど挫折してなぁ。何や、網膜剥離ってのんになってもうてんて。可哀相やろ?このパンチ受けたら、兄ちゃん、顔歪んでまうで」 柴葉は煙草に火を点け、くつくつ笑う。周りのホストがざわつくなか、雷音の目の前に立つ男は厭らしく笑い、ファイティングポーズを構えた。 なるほど、先ほど雷音が紙一重で避けたパンチ。かなり鋭いものだったが、昔取った杵柄というやつか。 「どうする?なぁ、ええやん、安曇くれたら。このホストの兄ちゃんは、1日にどんだけ稼ぎ出すんよ。安曇なんてホストでも何でもあらへん、経理やないの。それくらい、くれてもええんちゃうの」 蓮は顔を歪めて俯いて拳を握っていた。唇を噛み締めて。 こんな蓮を見るのは、雷音は初めてだった。いや、雷音だけではない、この店の従業員、全員が初めてのはずだ。 「蓮さん、大丈夫。いいから」 雷音はそう言うと、余裕に笑ってみせた。 ここで安曇を犠牲にして、自分が助かるなんて冗談じゃない。顔の形が変わろうが何だろうが、そんな事は正直どうでもいいのだ。 そうだ、もし安曇を犠牲にすれば、今、ここに自分が居る意味が全くなくなってしまう。今までのすべてが無駄になる。 極道に負けることになる。 「いいんだ」 雷音は蓮に頷いてみせた。蓮の目には迷いが見えたが、雷音はいいからと蓮の迷いを消すように再度、強く頷いた。 「あ、そうなん。じゃあ、死んでもらおうか」 柴葉が手を挙げると、男は”せぇの!”と声を上げた。来る!と衝撃に備えた雷音のその顔に、ビシャビシャと雫が降り注いだ。 「は…?」 「だ、誰じゃ!!!」 雷音が目を開けると、目の前の男の頭は何故か水浸しで足元にはビニールの破片のような物が散乱していた。水風船だ。 「誰じゃ…は、こっちの台詞じゃ…、このボケ!!」 聞き覚えのある声がしたと思ったら、男に見事な飛び蹴りを喰らわす万里の姿が目に飛び込んできた。 あ、と思った瞬間には、着地と同時に雷音を拘束する男の首に足を巻き付け、そのままぐるっと身体を反転させる。アクロバットの様なその格闘に、誰も何も手出し出来なかった。 「何や!!」 さすがの柴葉も驚いて立ち上がる。いきなり現われた男が次々と舎弟を倒していくものだから、先ほどの余裕は全くなくなっていた。 「誰じゃ!貴様!!」 「ふー、弱。話にならんねぇ。ほんま、こん人ら」 万里は少しだけ乱れたスーツを直して、胸ポケットから煙草を取り出した。 すると、わなわなと震える柴葉の座る席のテーブルに乗ると、ゆっくりと近付く。そして柴葉の目の前に来たところで、そこにしゃがんで煙草を銜えた。 「火、貸してくらはる?」 「ああ!?舐めてんちゃうぞ!!このクソガキが!!」 柴葉が万里の胸倉に手を伸ばそうとすると、それを万里は簡単に払い除け、ゆっくりとサングラスをズラした。 「2度も言わせへんで。火、貸してくらはる?」 「お、お前、明神のルビー…」 先ほどまでの威勢はどこへいったのか、柴葉は喉を鳴らして息を呑んだ。万里はその、柴葉の見慣れた表情ににっこり笑うと首を傾げた。 「ねぇ、火ぃ、あらへんの?」 「…くそ」 柴葉は忌々しげに言うと、胸ポケットからジッポを取り出し火を灯した。 万里の目の色と同じ色を灯す火。万里はそれににこっり笑うと、礼を言って煙草を近付けた。 すっと吸い込んで煙を吐き出すと万里は顎に手を置いて、柴葉を見た。 「で、あんた、どちらはん?」 「稲峰組の若頭、柴葉や」 「稲峰?知らんわぁ」 「ああ!?相内会の稲峰組じゃ!!!」 「…知らん、言うてるやろ」 その声は、誰も、雷音でさえも聞いた事もない、正真正銘、極道である明神万里の声だった。 対格差は断然で、柴葉の方が背も高ければ足も手も長い。恐らく、潰れた拳から武闘派なのだろう。 だが、そんな対格差は万里達の世界では何の意味もない。それを証明するかのように”明神のルビー”と聞いただけで今までの威勢はどこへ消えたのか、柴葉は大人しくなってしまっていた。 日本の極道の頂点に立つ、仁流会の牙である明神組。その中でも異質で荒くれ者だと評判の明神万里。その圧倒的な迫力に、柴葉は息を呑んだ。 「で、そのしょーない会の何とか君は、蓮のお友達なんかいな?」 「友達じゃ、ありません」 柴葉の代わりに雷音が答えると、万里は、ふーんと言って笑った。 「お友達やないの?あ、堪忍ね。俺、仁流会明神組若頭、明神万里。そのルビーって呼び名は好かんのよねぇ、やめてくらはる?」 「……」 「なぁ?今日は帰った方がええんとちゃう?蓮もあんたん友達やあらへん言うし、店も営業出来はる状態やあらへん。大したおもてなしも出来そうにないもんねぇ」 万里はそう言って、柴葉に紫煙を吹きかけて妖艶に笑った。 柴葉は苦々しい顔をして立ち上がると、出入り口に向かって歩き出した。それに転がっていた舎弟連中は、這う様にしてその後を追った。 「よいしょ、テーブルに乗ったらあかへんね。大丈夫かいな、蓮」 「たまたま、通りかかったわけやないな」 「俺が呼びました」 奥から声がして振り返ると、今にも泣き出しそうな顔をした安曇が立っていた。その顔はまるで死人の様に青く、恐怖にか、それとも別の何かにか華奢な身体は小刻みに震えていた。 「くそったれが、出て来んな言うたやろうが」 「でも…っ!!」 「まぁ、そへん怒ったりなはんな。俺が来んやったら、今頃BAISER NO.1ホストん顔は腫れあがって、原型止めてへんやったかもしらんえ?」 「くそっ!!」 蓮は血の滲む口の端を拭って、近くのソファに腰を下ろした。 「…おい、みんな怪我してる奴居ないか?表はどうなってる?美田園さんは?あと、ゲストにフォロー入れろ」 雷音が手を叩くと、呆然としていた従業員全員が一斉にハッとして、倒された椅子などを片付けたり専用の携帯で連絡を取り始めたりしだした。 こういう状況に慣れている黒服やホストも居れば、いわれなき暴力を初めて目の当たりにする者も居る。その辺のフォローも入れておかないとなと思っていると、雷音の元へ奏大が駆け寄ってきた。 「雷音、美田園さん、やっぱ稲嶺組の人間って分かったみたいで手出しせんかったらしい。で、少しケガしてるから、俺、病院連れていってくる」 「ケガ、軽いのか?」 「うん。受け身とったしって。でも、他にも表に居たスタッフはケガさせられてる。高坂さんとか」 「そっか、じゃあ、何かあったら連絡して」 「わかった」 奏大もいつもの陽気さは消え失せ、少し青白い顔をしていた。さすがに恐怖が勝るかと、雷音は奏大の頭にポンッと手を置いた。 「お前、平気?」 「…うん、平気」 へへ、と笑う顔を見て、雷音も頷いた。 柴葉達が来たとき、丁度、大物の客を帰したばかりで助かった。平日のど真ん中というだけあって、客入りもいつもより少なめだったのだ。 そんな事を考えていると、ふと視線を感じて見てみれば、見慣れた顔と目が合い頭を下げた。神原だ。 神原は走り回る従業員の間隙を縫って雷音に近付くと、徐に顔を覗き込んだ。 「うん、怪我はないんですね」 「あ、はい、あの、助けてもらったんで」 「ああ、うちのアホにですか」 神原が見る方向へ目をやると、そこだけまるで別世界の様な不穏な空気の席になっていた。 安曇は叱られた子供の様に佇んで、今にも泣き崩れそうだし、蓮の顔はまるで般若のようだ。そんななか、一人だけ暢気に煙草を燻らす万里という、見事な構図だ。 「あそこの席が一番被害が大きいですね。あなたの店の方もあそこを一番に片付けたいでしょうが、あれじゃあねぇ。まぁ、とりあえず、話が出来るとこに移りますか」 神原の言葉に雷音は迷う事なく頷いた。 そして5人が移動したのは、数多くあるVIPルームの一つだった。 初めて万里と逢ったルームよりは少しだけ手狭な、だが広々とした空間。その部屋の長く生地の良いソファに蓮は座ると、安曇が持ってきた冷却剤を変色しだしてきたそこに当てた。 「さて、聞くところによると、お相手は相内会稲峰組だとか?」 神原が部屋のドアが閉まると同時にそう言うと、蓮はそっぽを向き、安曇は俯いてしまった。 「なぁ、相内会って?」 そこはお前の分野だろうと言ってしまいたくなる相手、万里が隣に腰掛けた神原に問いかけた。そんな万里を神原は蔑視するように見ると、チッと全員に聞こえる様に舌打ちした。 「相内会稲峰組。まぁ、構成員の数はうちには遠く及ばずですが、なかなか活きのいい組でして、うちと同じ様に武闘派を謳っています。傘下組で目立つ様な組はありません。相内会で稲峰組だけが飛び抜けているといった感じですね。ですが、最近は咲良組と盃を交わしたという噂もあります」 「咲良組?あそこは老舗極道で、兄弟組は取らないはずですよね」 思わず口を衝いて出た言葉に、雷音はハッとした顔を見せた。 「雷音さん、詳しいですね」 「あ、いえ、一応、俺もあちこちの店を渡ってきたんで」 「なるほど。まぁ、咲良組はそういう昔気質の極道なのですが、稲峰組はとりあえず組を大きくしたいと。まぁ、これが今の会長である3代目稲峰一徹になってから加速したようですが」 「ほんやて、それとこんにーさんがなん関係がありよるん?欲しい欲しいて駄々捏ねとったらしいやん」 万里が首を傾げ安曇を見たが、それもそうだ。組を大きくするのに、どうして柴葉があそこまで安曇を欲しいと言ってきたのか皆目検討がつかない。 だが肝心の安曇は、この数時間で一回りも二回りも小さくなったと言ってもいいほどに身体を丸めて俯いている。忘れていたが、安曇はコミュニケーション能力が劇的に低い人間だった。所謂、コミュ障というほどに。 なので、どういう状況下であれ、安曇に何かを聞くというのは不可能に近いなと雷音は頭を掻いた。 その瞬間、ふわっと酒の香りが漂う。そうだ、酒を頭から被ったのだった。 一度気になると、それがひどく鼻につく。雷音はジャケットを脱いで、シャツのボタンを3つほど外した。 「安曇はIQ200の、スーパー天才児って奴や」 もう観念したように口を開いたのは蓮だった。 「え?天才児?」 雷音が安曇を見ると、安曇はまた更に小さくなったような気がした。 「その天才児を、どうして稲峰組が欲しがっているんですか?」 「安曇はただの天才児やない。数字に取り憑かれた天才児ってやつや。ようは安曇にかかれば、デイトレードで一攫千金も夢やないというよりは、何やったら7日間のお試し期間で億万長者にしてくれる打ち出の小槌みたいな奴や」 「マジで…」 意外な安曇の顔に、雷音は驚いた。確かに数字に関しては頭の回転の速い男だと思っていた。 ただの金の亡者だとばっかり思っていたが…。 「俺と柴葉は元々、幼馴染みや」 「はぁ!?」 「おやおや」 今日一番の衝撃の告白に、雷音が珍しく声を上げた。 「あ、だから呼び捨て…」 あの状況のなか、蓮は柴葉を敬称なしで呼んでいた。蓮の性格からのことかと思ったが…。 蓮は冷却剤を乱暴にテーブルに投げると、大きく嘆息して足を投げ出した。 「俺が安曇拾った時は、柴葉もあんなんやなかった。やから安曇の事も紹介した。柴葉は安曇が数字に長けた人間やっていうんを知っとる。柴葉がああなったんは、稲峰組なんかの若頭になってからや。悪ぶってはおったけど、今よりはマシな男やったのに」 蓮はどこか悔しそうに言って、そこで黙ってしまった。 幼馴染みであれば、あの粗暴さしか見えない柴葉ではない時を知っているのであろう。ならば、今のこの状況を誰よりも悔いているのかもしれない。 「ふーん。で、神原、その稲峰組と咲良のんは可能性としてはあんの?」 「さぁ、どうでしょうね。咲良組はご存知の通り、他の組との馴れ合いを好まないもので可能性は低いかと。ですが、どちらにせよ稲峰組はどこかの大きな組と兄弟盃を交わしたいようで、あちこちにすり寄っているのは確かです。咲良のほかでというと、一新一家も最近は稲峰組との繋がりは大きいようですけど」 「一新一家、ですか?」 雷音がその聞き慣れない名前に蛾眉を顰めた。 「雷音さんも、聞いたことはあるでしょう?一新一家。傘下組も兄弟組も持たない、老舗極道です。幸か不幸か、仁流会では鬼塚組の今の組長と贔屓の仲でいざこざこそはありませんが、一新一家は稲峰組とは違い規模の大きな組ですので、うちと敵対する事になると厄介です。まぁ、一新一家は稲峰組やうちのように武闘派というわけではありませんが…」 「ふーん。ほな、蓮はんさ、ここはギブアンドテイクってことでいかん?」 万里が煙草を燻らしながら、微笑を浮かべた。 「ギブアンドテイク?」 「な、神原」 万里は隣に座る神原に少し肩をぶつけて、あとはゆったりソファの背凭れに凭れ掛かってしまった。それを神原は横目で睨んで、仕方ないなと息を吐いた。 「まぁ、詳しくは言えませんがうちのこのアホが、ちょっとした問題を起こしておりまして。ああ、それは組のトラブルでもあるのですが、先ほども申し上げたように稲峰組は組の規模を大きくするのに躍起になっております。咲良組や一新一家にすり寄っている話もありますが、問題はうちのトラブル相手のところとも接触している情報があるのです」 「え、あの、トラぶった相手って…」 雷音がハッとして神原を見ると、神原は正解と言わんばかりに微笑んだ。 「ええ、香港マフィアです」 「なっ…!ちょ、それでギブアンドテイクって、どういう意味や」 さらりと言われて、今度は蓮が慌て出した。 出てくる名前は物騒な組の名前ばかり。果ては香港マフィアだなんて、一体、何をさせられるのか。これ以上は面倒事はごめんだというのが、蓮の正直なところだ。 「そんな大層なことではありません。落ち着くまでの間、うちの人間を店に置きます。ああ、安心して下さい、店内ではなく外など分からないところにです。所謂、ボディガードですね」 「それに対して、うちは何もやってやれることなんかあらへんぞ」 「ありますよ、衣笠さんに動く様に手配していただければ」 「菫、を?」 神原の申し出に蓮は乾いた笑いを吐き出し、雷音は珍しい名前が出たなと首を傾げた。 衣笠菫は蓮の昔馴染みとかで、よくBAISERに顔を出しては従業員控え室でタダ酒を飲んでいる男だ。フリーのルポライターとかで3ヶ月くらい姿を見ない事もあるが、居る時は毎日居たりする。 雷音もよく話はするが、書いている記事は極道のそれではなく、ホステスの裏側とか掲載されても読み流されそうなものばかりだ。そんな男をわざわざどうして…? 「どうして、衣笠さんなんですか?」 雷音が素朴な疑問を口に出すと、蓮がギロッと睨んで来た。これは衣笠も安曇同様、何かを持っているという事か。 「衣笠菫は色々な名前を持つルポライターでしてね、その一つに紫花地丁(シカジチョウ)という名があります。この紫花地丁という名のライターは、極道の裏の裏までをも知り尽くしていると専らの噂です。その情報源は定かではありませんが、これが驚くほど正確なんですよ」 「その情報のせいで生死の境彷徨った、どあほうやないか」 「はは、まぁ、裏の世界には知られたくないことしかありませんからね。でも、どうでしょう?一度だけ、衣笠さんとお話をしたいんです」 「そんなもん、俺が呼んで、菫がほいほい出て来るかいな」 「やて、衣笠ってあんたの言う事やったら何でも聞くって聞いたで」 神原とのやり取りを黙って聞いていた万里が言うと、蓮はチッと舌打ちした。雷音はそれを見て、違和感を感じた。 確かにタダ酒を飲みに来る衣笠を怒鳴りつけていたのは蓮だ。そういう面では蓮の方がパワーバランスは上なのかなと思っていた。 だが、何でも言う事を聞くというのとは違うと思っていた。手のかかる幼馴染みを叱りつける。言うなれば、そんな感じかと思っていたのだ。 「例えば、菫が俺の言う事を聞いたとして、あんたらと逢うたとしようや。そこで何を話すんかは知らんけど、何か菫に頼み事した。が、菫はそれを断った。ほんなら?」 「それはそれ、これはこれってことなんやないの?」 「あ?」 「語彙が乏しい男なもので、申し訳ありません。衣笠さんの答えがイエスであろうとノーであろうと、ボディーガードを引くつもりはありません。うちのも色々とご迷惑をお掛けしていますし、そこは別です」 「……安曇、電話」 蓮は少しだけ考えて、そして、観念したように安曇に言った。

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