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第19話

衣笠菫は、それから20分もしないうちにBAISERへやってきた。 ホールの片付けをしていたREIが衣笠を雷音達の居るVIPルームへ連れてきて、衣笠はそこに居る面子に首を捻った。 「えーっと、これはなんやろ?」 確かにそうだ。急に呼び出され、店は散々な状態。通された部屋に居るのはただ者ではない人間。 よからぬ状態ということを察したのか、うーんと唸って、だがどうしようも出来ないと思ったのか観念するように部屋に入るとソファに腰を下ろした。 「周、もしかして俺が今まで飲んだ、タダ酒の請求?」 「ふざけろ、菫」 冗談を言う状態でもないのかと、衣笠は肩を竦めた。 衣笠菫は不思議な男だった。髪を切りに行くのが面倒くさいという理由で、自分で切れるところは自分で切って見えない後ろ髪は短い尻尾が出来上がっている。 それが薄汚くもむさ苦しくも見えないのは、衣笠の容姿のせいだろう。 長い睫毛が縁取る少し垂れた瞳は、衣笠の人柄を柔らかく見せる。高い鼻と、口角が常に上がっている様に見える尖った唇。整った顔立ちに無造作に伸びた髪は、衣笠をスタイリッシュに見せていた。 だが難点はどうも垢抜けない黒ブチの眼鏡だ。 「初めまして、こんばんは」 「明神組、神原海里さん」 神原が名乗る前に、衣笠はそう言ってフッと笑った。そしてテーブルに置かれていた蓮の飲みかけのブランデーを取ると、それに口を付けた。 「俺も初めて逢うんですけど、そっちは明神組若頭、明神万里さん…で正解?」 「へぇ、俺って有名人なんやねぇ」 万里はくつくつ笑って、隣に座る神原を見た。だが神原は衣笠を見たままで、万里に視線をやることはなかった。 「ふむ、ちょっとだけ下の子達に聞いたけど、何や、トラブルって?」 「柴葉や」 「あら、まぁ」 蓮の言葉に衣笠は、うーんと天井を見上げた。 「あれ?でも明神さんがなんでおんの?そもそも、俺は何で呼ばれたわけ?」 「あなた、相内会の情報持ってますよね?というよりも、日本極道の全てを把握しているとも言える」 神原の言ったことに衣笠はぷっと大袈裟に笑って、顔の前で手を振った。 「またまたー、そんな趣味の悪い情報、持ってませんけど」 「その眼鏡の下の傷、それを負ったのはその情報のせいですよね」 「…へぇ、そこまで知ってんの。じゃあ、トボけるだけ無駄ってか」 衣笠は観念したように眉を上げ、ゆっくりと眼鏡を外した。そして右の前髪をゆっくりとあげると、髪の生え際あたりに火傷の痕。そして、顳かみから耳の下の方まで伸びる、切り傷の痕が顔を出した。 雷音も初めて見る、衣笠の素顔だった。 「そんな情報持ってへんのに、勘違いした連中が俺にやらかした制裁。挙げ句、でっかい墓穴掘ってくれて埋めてくれようとしはったわ」 「本当に持ってないんですか?グリモワール」 「グリモワール?グリモワールって、ヨーロッパの魔術書ですよね」 「さすが雷音さん、博識でいらっしゃる。そうです。あのエロイムエッサイム等の召還儀式などのグリモワール。ただ、衣笠さんの持つグリモワールは魔術や召還儀式などの手引きではなく、もっとリアリティな黒い手引きになりますがね」 蓮は視線だけ衣笠に向けたが、衣笠はその視線に気が付いているのか居ないのか、眼鏡をかけ、前髪を適当に戻すとポキッと首を鳴らした。 「黒い手引きかー。まぁ、大奥義書、グラン・グリモワール…あとは鬼書、とりあえず色んな名前が付いてるみたいやね」 「持っていらっしゃるんですね」 「さぁ、それはどうでしょう。そうやねぇ、仮に俺が持ってたとして、あんたらが欲しがってる情報を渡したとして、俺に何の得があるんでしょうね」 もっともな意見だ。 衣笠がもし本当にそんな物騒なものを持っているとして、ジャーナリストならば命よりも大事なネタを差し出して、何の得があるのか。 雷音は万里に目をやったが、やはりそういう事は全て丸投げしているのか煙草を燻らしながら神原を見ているだけだった。 「それは、情報を買えということですか?」 「ほらな、周。ヤクザはすぐこれやろ、何やあったら金で解決できると思っとる」 衣笠は鼻で笑って、ブランデーを一気に煽った。珍しく、イラついているのが分かる。 「ほな、はっきり何が欲しいか言いーな。回りくどいことは好かんさかい、何が条件か言うてくれんと前に進まんえ。これと言葉遊びしはるんやったら勝手にしたらええけど、あんたでは勝てんと思うで」 神原に丸投げしていたと思われていた万里が、唐突にそう言うと煙草を灰皿に押し潰す。 こういう事に時間を割くのは嫌いらしく、こちらもやはり苛立ってい見えた。煩わしい駆け引きは苦手なようで、さっさと答えを出したいという感じが万里らしいと感じた。 「はは、さすが明神さん。話が早い。ほな条件、あんたらの仁流会への取材や」 「は?取材?」 「そう、取材。俺、一応フリーのジャーナリストですから」 「取材やて」 万里はフフッと笑って神原を見た。それに神原は微妙な顔を見せる。 「取材、ですか」 「そう、仁流会 鬼塚組 鬼塚組長のな」 それに部屋に居た人間全員が、え?となった。 「はっ!!はははは…!!」 途端、万里は大声で笑いだした。何が可笑しいのか分からない他の人間は、ただ唖然とその姿を見ていた。 だがこの夜の世界に居て、関東の、といえどもその名を知らないわけではない。あの、鬼塚組だ。 「あんた…」 散々笑って、腹が捩れると言う万里は、ようやく落ち着きを取り戻すと神原にどうする?と声をかけた。 神原は少し逡巡して、眼鏡を上げると首を傾げた。 「また、どうして、鬼塚組組長なんですか?」 「ん?やて、グリモワールも完璧やないからよ。そもそも、グリモワールが現れたんは仁流会の平成の大戦争が終わったのちの話。連日連夜、何が楽しいんか明けても暮れても抗争して、極道の世界の中で同族殺ししてた真っ最中。そんな中に持ち出された禁断の書物現代版っていう、噂や」 「なるほど、ようは今の鬼塚組の情報だけがごっそり抜けていると」 「さすが頭がええね。その通り。グリモワールの中の鬼塚組組長は鬼塚誠一郎であって、今の組長の記載は一切ない。若頭の相馬、ほんで最近、若頭に納まった佐野彪鷹の記載もない。ないない尽くしってわけや。あの組はおかしな組で、あんだけでっかい組のくせに内情は霧の中。同族、あんたらでさえも内情は掴めてない。せやろ?まぁ、例えばPCやけど、セキュリティ対策ってことで毎週、果ては毎日更新プログラムがアップロードされるやろ?言うなれば、毎日新しく生まれ変わってるわけや。やっぱ、何でも更新はしとかんとあかんやろ、セキュリティ面でも。ま、これもグリモワールがあったとしたらっていう、たらればの話やけどね」 衣笠の話に部屋が静まり返る。 これがジャーナリスト魂なのか、それともただの命知らずなのか。駆け引きの材料がハイリスクすぎるのではないかと思った。 もし、本当にグリモワールが存在したとして、もし、本当にあの顔の傷がそのせいで負った傷であれば、その原因であるグリモワールの内容を今以上に充つにしたいものだろうか。すぐにでも、手放したくならないだろうか。 その静まり返った部屋に、ぱんっと手を合わせる音が響いた。万里だ。 「ふーん、やてな、あんたが前に手ぇ突っ込んだんは大型犬やねん。大型犬注意の看板上がってるけど、何なし檻ん隙間から手出してみたら噛まれたみたいな。やて、今、手突っ込もうとしてるんは大型犬なんかやあらへんかもよ?せやなぁ、あれはライオンかなぁ。それも、牙剥いて、涎垂らして、お腹空かした」 「は、はは、そりゃ怖いな」 「ま、そん情報はいらんわ」 「え!?」 万里がそう吐き捨てたので、衣笠も蓮も驚いて声を上げた。それは雷音も同じだった。だが万里はいつも通り飄々としていて、持ちかけた衣笠のほうが狼狽していた。 「いらんって」 「あんた、フリーのジャーナリスト?やっけ?あんたにはルールはあるか?何でもええで。せやな、極端に言うたら、靴は左からしか履きまへんってゆーような」 「そりゃ…俺は俺なりにルールはある」 「やろ、俺もルールはあんねん」 万里は煙草を銜えて火を点けると、ゆっくり紫煙を吐き出した。 「俺のルールは家族を売らんってことや」 それは普段の柔らかな口調とは比べ物にならないほどに、しっかりとした澱みない言葉だった。 何かの引き換えに家族は売らない。例えそれが不仲だと言われている相手であろうが、仁流会の組織に居る人間は万里にとって家族なのだ。 ある日突然、家族を亡くした万里の、絶対に譲れないルール。その頑ななまでの気持ちが雷音にはヒシヒシと伝わってきて、途端、切なさが一気に込み上げてきた。 「あんたが鬼塚の情報を欲しがるんは、まぁ、気持ちは分かる。なんせ、架空の人物って言われとるくらいの人間やもんな。実は女やったとかいう噂もあるし、死にかけの爺って噂もある。あとは、せやな。実はフェイクで鬼塚誠一郎は生きとるっていうんもあるよな?」 「確かに、そういう噂はある。あとはかなり年の若い、成人式を済ませたばかりの若僧だっていうのも」 「どれも定かでない。なら、実際逢うて、そん目で真実を知りたい。まぁ、ジャーナリズムに則った素晴らしい精神やと思うけど、残念やけど俺はそれには乗れん」 万里はきっぱりとそう言い捨てると、この話は仕舞いやと指を鳴らした。 「では、うちのがこう言うので、衣笠さんはお引き取りいただいて結構ですよ」 やはり普段どういう対応をしているとしても、万里の意見は絶対なのか神原は万里に反論する事なくそう言った。 衣笠はそんな万里と神原を交互に見て、蓮に視線を移した。蓮は衣笠に首を振ってみせたが、衣笠は少し思量して息を吐いた。 「…あんたは、俺から何の情報を引き出そうとしてる?それで何をしようとしとる?」 「せやねぇ、俺が欲しいんは相内会が何を企んでくれとるんかってゆーこと。それで何をしはるかはー、そないやねぇ、あのウサギみたいに小刻みに震えとるにーさんを、ウサギ小屋から無理矢理引っ張り出されへんようにすること、かいな」 「…わかった」 衣笠はそう言うと、観念したとばかりに両手を広げた。 「言っとくけど、グリモワールが存在するかどうかは今後一切聞かないで欲しい。それが俺からの条件」 「かまへんよ、そない無粋な真似せんわ」 「じゃあ、いいよ。聞きたいこと聞いてくれて」 「ほな、早速やけど、相内会の連中のキナ臭い動きかいな。何で最近、あへんに目障りなん」 「そりゃ、組織でっかくするためでしょう。会長の稲峰一徹っていうのは、極道になるために生まれてきたような、悪の化身みたいな奴でね。2代目は昔気質の極道で、堅気には手を出さないとかそれなりにルールがあったみたいで、明神さんとこと同じ様にイケイケで生きてきた組やけど、そこまでアホはせんかった。まして、仁流会の縄張りに足踏み入れるなんてことは」 「うちの島ですか?」 「いーや、鬼頭組。稲峰組の傘下で五嶋組っていうんがおって、そこが無謀にも鬼頭の島でヤクを捌き始めた」 「知ってた?」 万里が神原を見ると、神原は苦笑いをしてみせた。ようは、初耳だということだ。 「ふふ、仲良うしたほうがええよ。ほんまにね。ま、この五嶋組の動きに気が付いた鬼頭組が烈火の如く怒り狂い、先月五嶋組はぶっ潰されたんやけど、そういう闇雲なところをみると相当金に困ってると思える」 「ふーん、そないなん。2代目は何で退いたんな」 「退いたんやない。寝首かかれたんや」 「なんや、内部紛争か」 しょーもないなぁと万里は眉を上げて、呆れた。 「稲峰一徹は2代目稲峰久仁彦を盃交わした仲で、血縁者やあらへん。本名は久保田一徹。相内会ではかなり腕の立つ男や言われてるけどね。もともとキナ臭い男やった。ま、極道にキナ臭いもなんもないけど、とりあえず金の大好きな男や」 「咲良組と一新一家との関係はどうなん?」 「ん?ああ、そんな噂もあるけど、それもないやろうね。咲良組は極道やけども、そんな派手な動きを好む極道やあらへん。まして、稲峰一徹と咲良組の組長の仲はあまりええもんやない。先代とは交流あったみたいやけどね。あと一新一家やけど、ご存知の通り、一新一家は規模の大きい組や。そんな力のある組が、敢えて相内会みたいな危険要素を取り入れる意味よ。それに一新一家も仁流会同様、ヤクを嫌う珍しい極道でね。ヤク大好きの相内会と仲良くなる訳があらへん」 さすが、これがグリモワールを掴む男の情報かと雷音は息を呑んだ。 普段、ジャーナリストらしい様を一切見せないが、今はどうだ。ギラギラした目でそれを語るその顔は、紛れもなく衣笠菫の顔ではなく、極道の裏側までを知り尽くす紫花地丁の顔だった。 「香港マフィアには詳しくはありませんか?」 「俺はあっちに首つっ込むほど愚かやあらへん」 「愚か、ですか」 「そ、愚かや。香港マフィアのこと探ってみぃな。バレたら言い訳も聞いてくれんと、何やったら街中で惨殺されてもおかしない。倫理観が全く違うんや、残念な事に」 衣笠はお手上げというように手を上げて、肩を竦めた。神原はそれに笑うだけで、何も言わなかった。 「でも、」 だが、お手上げと言った衣笠が言葉を続けた。 「そっちの世界に詳しい人間なら、紹介してやらないことはないよ。ただ、高いんだよね。あいつ」 人差し指と親指で円の形を作って、微妙な顔をする衣笠に万里は不敵な笑みを浮かべた。 「神原、よろしく」 万里がそう言うと、神原は場所を変えましょうかと衣笠と一緒に部屋を出て行った。それを蓮が追うように出て行き、安曇も万里に頭を下げて部屋を出て行った。 しばしの沈黙。万里と雷音、部屋に残された二人。その慣れた状態だったはずのそれが、何だか居心地が悪いなと心許ない雷音は珍しく目を泳がせた。 「災難やったなぁ」 ぽつりと話し掛けられ、雷音は指先まで強張ったのを感じた。 何てザマだと自嘲する。BAISERのNO.1ホストの肩書きが台無しだ。 「まぁまぁ、けったいな真似せんから」 余程、挙動不審に見えたのか万里が笑った。ソファに腰掛け煙草を咥えるその様が、妙に懐かしく思える。 別れを告げてから、そんなに時間も経ってないのにだ。 「頭、どつかれた?」 「いえ、酒をかけられただけです」 「さよか。まぁ、なんものうて良かったわ。用心棒んことやけど、俺は来んから安心しいなって言うとこ思て」 「…え?」 来ないと聞いて、安心したような残念な様な気持ちが入り交じり、雷音は万里の顔を見た。 「奏大、やっけ?俺らのこと知らんやろ?せやけど、あんたにちょっかい出そうとしとったんは知ってはるから、気ぃ悪いやろ」 「あ、そうですか」 「小山内とかやりたいけど、あら神原ん子守りがあるから。やて、腕は確かな連中やさかい、安心しいな」 奏大との事を言い出したのは万里のせいだと言いたくなったが、そんな事をしてどうなると雷音は苦笑いした。 「…飯、食ってますか?」 「は?」 「あんた、すぐに食わなくなって酒ばっか飲むから」 「ふふ…食っとるよぉ。飯は美味いもんやて、教えられたさかいね」 誰に、と聞きかけて口を噤む。頭に浮かんだのは和花だった。 自分で考えている以上に女々しくなっているらしく、雷音はらしくないと乱れた髪を手で乱暴に掻いた。 「ま、それだけ。あんたも無茶しなね」 ポンッと飛ぶように軽やかに立ち上がり、雷音の横を通り過ぎようとした万里の腕を雷音は無意識に掴んだ。 引き寄せて、抱き締めたいだなんて馬鹿なことを考えてしまって慌てて手を離した。 「どへんした?なんかあんの?」 「目、見たい」 自分の気持ちとは裏腹に口をついて出たのは、あの隠された宝石への愛しさだった。 「は?」 「目、見たいんです。サングラス、外してくれません?」 呆気に取られた顔をしていた万里だったが、次には困った顔をした。自分でも、何を言っているのかと思う。 「…ふふっ。あんたもけったいな子やね。こないなん見たい言う子はおらんよ?」 「誰も?」 「あんだだけやわ」 万里は笑ってサングラスを外した。そして、ゆっくりと雷音を見上げた。 その真紅の瞳に雷音は息を呑む。やはり、宝石だと思う。赤い、この世にたった一つの宝石。 「綺麗ですね」 「ははっ…。ほんま、けったいな子」 万里は眉尻を下げて困ったように笑って、サングラスを掛けた。 「ほな、お疲れ」 万里は雷音の肩をポンッと叩いて、部屋を出て行った。そのドアが閉まった瞬間、雷音はくそったれと悪態をついて、その場にしゃがみ込んだ。

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