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第23話
「お前ー、うちはストレス発散の道場やあらへんぞ」
南條は珍しく呆れたように言って、ベンチに座る神原の隣に腰を下ろした。それに神原は目を細めるだけで、悪びれる様子もなく、とりあえずという感じで頭だけ下げた。
「前に、選手を鍛えれていいとか言ってたでしょう」
「鍛えるんと壊すんは違うぞ」
南條はジムの選手相手に暴れ回る万里を見ながら、眉尻を下げた。
相変わらず鬼のような強さを見せる。掴まれても蛇のように身体を捻って、そこからするすると逃れてしまう。だが…。
「技が荒いのぉ」
「私に言われても分かりませんが、そうですね、フラれたんでヘコんでるんでしょ」
「ほう、あんな色男でもフラれるんか」
南條は心底愉快そうに笑って、顎を撫でた。フラれたくらいで技が荒くなるなんて、まだまだケツが青いということか。
「まぁ、本人はヘコんでるなんて思ってもないでしょうけどね」
「気が付いとらへんのか?」
「アホですから」
逢うと一回はそれ聞いてるような気がするという言葉を聞いて、南條は万里を見ながら、うーんと唸った。
「しかし、女遊びもそこそこにせんと、刺されてまうぞ。確か決まった女がおったやろ、あれには。まだ祝言は挙げへんのか」
「あー、そうですねぇ。まぁ、ケツの青い男ですから、まだまだでしょうね。極道もんは所帯持ってなんぼなんて時代は、石器時代の話ですよ」
神原は切り捨てるようにそう言うと、にっこりと微笑んだ。相変わらず、辛辣な男だ。
「でも、お前さんも大変やのう。シモの世話までせんとあかんてなぁ」
「馴れれば容易いことですよ。まぁ、今回はイレギュラーでしたけどね」
「あれにもイレギュラーっていうんがあったんか」
自分がイレギュラーみたいな人間なのにと笑うと、神原も困ったように笑うので珍しい顔を見たなと南條は思った。
ジムのシャワールームに飛び込んで、シャワーコックを開いて汗を流す。排水溝に流れる水を見ながら、その単調な動きと自分の今を比べて首を傾げた。
何か変だ。何だか自分で自分が収集出来ない。こんなこと初めてだたと思いつつ、年か?と思わず笑った。
こう、バランスが取れない感じ。何か、ぐらついてる。それくらいにあやふやな表現でしか表せない今に、イライラする。
言うなれば、バランスボールの上に立っているような危うさ。ぐらぐらと揺れているような浮遊感が腹立たしい。
「おい、気が済んだか?」
シャワーカーテンを開けて、神原が顔を出してきた。しかし湯気のせいで眼鏡が一瞬で白くなり、くそっと悪態をついて眼鏡を外したその神原のネクタイを掴んで、引き寄せた。
「うわ!!お前!!」
一瞬の出来事で抵抗も出来ない神原の唇に吸い付いて、首に腕を回して引き寄せる。急に引き寄せられた神原は、バランスを崩して壁に両手をついて、それを受け入れた。
無理矢理に舌を捩じ込んで絡めながら、白い足を神原の足に絡めた。その間もシャワーは流れ続け、二人を濡らしていく。
「ん…」
ぴちゃぴちゃと卑猥な音を立てて舌を絡め、ゆっくりと唇を離すと、神原が嘆息した。
「お前なぁ」
「二、三発殴られてもうたわ。情けない」
鼻先がくっつくくらいの距離で囁くように言いながらも、絡めた脚も首に回した腕も解こうとしない。
未だにシャワーは上から降り注いでくるし、スーツは重みが増してきた。しっかりセットした髪も濡れて、どんどん身体が重くなる。最低だ。
「俺は服のままシャワー浴びる趣味ないけどな。で、ここでヤルつもりか?」
「どう?」
「それで?鬼頭組のアホと同じになるんか?」
神原がそう言うと、万里はムッとした顔をして次の瞬間には神原の唇に噛みついた。
「俺が眞澄のこと好かんの知ってて、それ言うんか」
「いってぇな、ほんま…。やて、そういうことやぞ」
「もう、萎えたからええ」
万里はそう言って神原を突き放すと、シャワーカーテンを閉めた。それに神原は眉を上げて、全身びしょ濡れになったスーツの内ポケットからスマホを取り出した。
少し濡れているような感じもするが、特に問題はなさそうだ。とりあえず万里が外側のフックに掛けていたバスタオルでそれを拭うと、リダイヤルボタンを押した。
「俺だ。トランクに予備の着替えあるから、ジムのシャワー室まで持って来い」
神原は端的にそう言って通話を終えると、水を含んで重くなったジャケットを脱いで、ネクタイを外した。
そしてシャワー室入口付近にあるベンチに腰掛けると、シャツのボタンを外して、ついでにベルトも緩めた。
何だこれ、最低だろ。
ガチャッとドアの開く音に顔を向けると、シルエットで小山内と分かった。神原は適当に眼鏡を拭いて掛けると、脱いだジャケットとネクタイを小山内に投げた。
小山内はずぶ濡れの神原を見ても顔色一つ変える事なく周りを見渡して、棚に綺麗に畳まれて置いてあるバスタオルを取って神原に渡した。
「ったく、クソガキが、くだらねぇことしやがって」
「補佐、オヤジから連絡がありました」
「…チッ、次から次と…。おい!早くせぇや!組長がお呼びやと!」
神原は我鳴ると、さっさと着替えて雫の落ちる髪をタオルで拭った。
中途半端に浴びたシャワーが気持ちが悪い。どうせなら裸でシャワーは浴びたいものだ。
「オヤジー?また説教か、小言か…。俺が聞いてやらんかて、神原が聞いてやったらええやないの」
イライラとしている神原の隣に、いつの間にかシャワーを終えた万里が出てきて腰掛けた。
「説教されるようなこと、するからや」
「どのこと?相内会?あれは、やるべきことやろうて」
「たまには褒められることせぇや。あれはあれでイレギュラーやねんぞ」
神原の小言に、万里は口を尖らした。
明神建設の看板があがったそこは、いつしか彪鷹が訪ねてきたところだ。あの頃はまだ建設途中だったが、今では立派に稼働して見れる状態になっている。
万里はそこのエレベーターに機嫌の悪い神原と乗り込んだ。
「そっちゃのほうが可愛いよ?昔みたいで、俺は好き」
「あ!?」
万里がシャワー室に引きずり込んだせいで、いつもきっちりと整えられている髪は乱れ、前髪も下りて学生のようだ。
腕っぷしに自信がない分、泊が付くようにそういう髪型にしているのだろうが、万里はこちらの方が見慣れているので好きだ。
とはいえ、万里の好みなんて神原に関係あるわけもなく。
「こんな髪型でお前と並んだら、益々、明神組は出鱈目だって言われるやろうが」
それ、どういう意味よと聞く前にエレベーターは停まり、ドアが開いた。神原はそれと同時にさっさと降りて、万里はその後を渋々、付いて行った。
社長室と書かれたプレートが掲げられたドアをノックすると、入れと一言だけ聞こえた。それに神原は失礼しますと一声掛けて、ドアを開けた。
「おう、お疲れ…なんや、神原その頭。イメチェンか」
木崎は珍しい神原の髪型に首を傾げたが、昔みたいやなと笑って部屋の中央にあるソファセットに二人を促した。
長身で体格のいい木崎は、さすが武闘派明神を大きくした後継者の一人でもあるだけあって、その猛禽類を彷彿するような鋭い眼光に陰りは見えない。
50代半ば、荒くれ者をまとめあげるには一瞬の油断もままならないのか、強さのにじみ出る風貌だ。
「お呼びと伺いました。何か?」
神原は万里とともに腰を下ろすと、思い当たる節が多すぎる呼び出し原因はどれかと首を捻った。
もし神原が把握しているものではなく、万里の独断で仕出かしたことならば速攻殴ることにしようと微笑を浮かべると、万里がその顔を見て、うわーと小さく声を上げた。
「万里はいつまで経っても問題児やなぁ」
「このアホに成長を求めるのは、どうかと思います。諦めてください」
切り捨てるように言うと、万里が酷いわーと不貞腐れて煙草を咥えた。その二人を見て、相変わらず、どっちが親か分からんなと木崎は笑った。
「で、本題はや。相内会、何で手ぇ出した?」
やはりそこかと、まぁ、それだろうなと思いながら神原は息を吐いた。
万里は基本的に好きに動き回るし、木崎もそれを咎める事はしない。あまりに間違いがあるときは、神原が万里の動きを止める事を木崎は知っているし、それが暗黙のルールのようになっているからだ。
だが今回は神原は止める事はしなかった。ということは、何かきちんとした理由があってのことだろうと木崎は思ったのだ。
「その前に、BAISERというホストクラブをご存知ですか?」
「ああ、あの一等地に軒構えとる金の卵やろ。どことも馴れ合わんと、上手い事やっとるらしいな」
「そのBAISERに相内会が手を出してます。予てより、オーナーの蓮周とは交流があるので、今回は仲介を申し出たという事です」
木崎は”へー”と言いながら、万里に手を差し出した。万里がそれに気が付いて煙草を差し出すと、一本引っ張りだし咥えた。
「まぁ、相内会は目に余るとこもあるし、うちがせんでもいずれは上から殺れ言われたかもしらんからな。それはまぁ、ええわ」
「はぁ…」
えらく簡単に終わったな、ではなぜわざわざ呼び出したんだと訝しんだ神原が木崎をじっと見ると、木崎は大きく嘆息して万里に指先を向けた。
「ほれ、お前がこの間、余所者とやり合って大怪我したんなぁ。…冬子さんにバレた」
ボソッと言ったそれに、万里がバッと顔を上げた。そして神原は木崎と同じように大きく嘆息した。
「何で!!俺、隠れてたやん!」
「怪我の話してるんを、聞かれた」
バツの悪そうに言う木崎に、万里は”もー!!”と叫び声を上げた。
「あかんて、マジであかん!ヤバいヤバいヤバい!またあの説教が始まる!!つうか聞かれるとか、どんだけ!!」
万里は頭を抱えて項垂れると、チラッと横目で神原を見た。だが神原はただ頭を振るだけだった。
「俺にはどないも出来ひん、お前が死んでこい」
「ひ、ひど…」
「万里、お前はここ最近、帰ってないってなぁ。その事でもたいそうお怒りや」
木崎は煙草を燻らして、神原同様諦めろと万里に言って笑った。それに万里一人だけが笑い事じゃないと、両足を抱えてソファに転がった。
もうこうなった万里は放っておけと、神原は一つ咳払いをした。
「それで、相内会の稲峰ですが、最近、動きが派手です。この間、これと揉めた余所者のこともありますし、少し体制を強化した方がいいかと」
「あー、稲峰一徹なぁ。好かん男や。親の首取って、我がそこ座ってるんやからなぁ。分からんのが若頭の柴葉や。あれは先代が可愛がっとった男で先代にデカい借りがあるはずやのに、何で稲峰の言いなりなっとるんか」
「あと、グリモワールを持つ男と接触しました」
「はっ!?ほんまに…あったんか」
木崎はぎょっとした顔を見せたが、次には白けた表情を浮かべ舌を鳴らした。
「誰が集めた情報か知らんけど、ほんま趣味の悪いもん作ってくれたもんやわ」
「そこではっきり分かった事があります。やはり、鬼塚組の現在の現状は把握されてません」
「心のとこか。ふふ、まぁ、そうやろうな。あそこは仁流会であって仁流会でない、まるで別もんや。恐ろしい男やでな」
「今のネックは相内会ですが、そのことは任せてください。ところで事業の方はどうですか?」
「ああ、上手いこと動いとるわ。極道が金儲けするのに辛い世の中っていうんは、生き難いもんやな。せやけど、お前が紹介してくれた駿河がええ仕事しよるから、このままいけば軌道に乗るわ」
「それは安心しました。では、私達はこれで」
神原は木崎に頭を下げると、猫のように丸くなった万里の襟元を掴んで引っ張った。だがそれは微動だにせずにソファにしがみついて、ここから動きません!と言わんばかりだ。
「てめぇ…」
「いやや!海里も一緒におるんやったら行く!」
子供の駄々である。こうなったら意地でも動かないのをよく知っている神原は、眼鏡にかかる前髪を乱暴に掻きあげ舌を鳴らした。
そしてスマホを取り出しどこかに掛けると”来い”と一言だけ伝えて切り、万里の頭を思いっきり引っ叩いた。
その姿に若頭形無しやのうと木崎は呆れ顔を見せた。
ここで木崎が一喝すればいいような気もするが、幼い頃から家族のように慣れ親しんだ木崎の言う事を万里が聞く訳もないので、読みかけのスポーツ新聞を取り出すと、それを開いた。
それから数分もしないうちにドアがノックされ、小山内が現れた。
「行かへん!!」
小山内を化け物でも見るような顔をして見て、足をバタバタさせて暴れるが、小山内はそんな万里をしがみつくソファから引っ剥がして、米俵のように担ぐと木崎に頭を下げ部屋を後にした。
「では、また」
神原が疲れた顔で頭を下げ、ドアを閉めたそこから万里の叫び声と神原の怒鳴り声が響き渡って、木崎は自分の引退はまだまだ先だなと思い知った。
一等地に軒を構える明神組本部。そこは万里の生家であり、現在もそこで生活をしている。
その住み慣れた屋敷の居間に連れてこられた万里は、目を右に左に泳がせて落ち着かない。隣の神原は先ほどの万里の行いにキレて、目も合わせてくれない。
広い部屋の柱時計を見ると、夜の7時を回ったところ。これは夜明けを拝むのかもしれないと思いながら、いや、それは困ると項垂れた。
すると、ぎしっと廊下の軋む音がして、万里はすっと背を正した。その軋みがまるで悪魔降臨だと、万里は息を呑んで唇を噛んだ。
「お待たせ」
すっと襖が開いて、白の下地に百合の花が描かれた着物を着た女が現れた。
木崎と変わらぬ年頃で、いや、それよりもまだ上だが、その美貌は褪せる事なく輝いて見える。
乱れなく結い上げた髪は艶やかな黒髪で、まるで黒猫のようだ。にっこり細められた瞳は切れ長で、それに見つめられただけで万里は言葉が出なくなるのだ。
まるでリアル極妻。いや、極妻だけど。
「久しいやないの、万里」
「あの、ただいまー。えへへ、お久ひぶりです…かーか」
言いながら少し膝を下げた万里は、”かーか”と呼ばれた女、明神 冬子 に小さく頭を下げた。
「長らく顔見せへん思うたら、えらいおっきい怪我してたらしいやないの」
「えー、そないなことあらへんよー。なぁ、海里」
助け舟を求めたが、神原は俺に振るなと言わんばかりに万里を睨んだ。万里同様、神原も冬子には太刀打ち出来ないのだ。
「万里、家の中ではサングラス取りなさい」
ビシッと言われ、万里は慌ててサングラスを外した。
あのちゃらんぽらんでいい加減な明神万里も、この母である冬子の前では形無しだ。
といっても、冬子と万里に血の繋がりはない。万里は養子なので冬子は養母であるが、冬子はそれはそれは万里を可愛がった。
しかし溺愛をしてはいても躾はとんでもなく厳しく、このちゃらんぽらんな男が出来上がったのは、その反動ではないかと神原は思っている。
だが冬子の愛情はまさに母心そのもので、顔の傷のことを誰よりも愛し、目に障害が残った時は誰よりも怒り狂い極道を止めろと狂乱したのだ。
冬子は万里どころか神原も極道であることが、誰よりも気に入らない人物だった。
「海里は元気そうやねぇ。でも、あんた、何その髪型。イメチェン?まぁ、昔みたいでうちは好きやけど」
「今日はたまたまです」
というか、あなたの愚息のせいですと心の中で舌打ちをする。
「ほんまに、万里はうちの言う事を一切聞かんから、困るわ」
「俺の言う事も聞きません」
お前!そこはフォローすることやろ!と神原を睨むと、自業自得とそっぽを向かれた。
「あの、とーとは?」
「今日は風間はんとこ行ってはるわ。木崎が会社転がしてるから、何や話するいうてなぁ。ほんま、あんたも海里も極道やのうて会社の方、入ったらええやないの」
「やて、俺、アホやし」
ケロっと言うと、刺すような視線で睨まれ、しまった!と苦笑いを浮かべる。こんな時は、冗談は一切通用しないのだ。
「余所者にヤラれたんやて?怪我は?大丈夫なん?」
「いや、もう全然平気やし、そない大した事あらへん…」
と言った万里の膝に、神原が膝を当ててきた。だが気が付いたときには遅く、冬子はにっこり笑みを浮かべて”大した事あらへん?”と呪詛のように呟き始めた。
「あんた、大した事あらへん言うて、何回死にかけたん!!」
「いや!死にかけた事はあらへん!」
「あんたが死にかけてへんでも、うちがどない死ぬ思いした思うてんの!!やり合うた言うて、顔痣だらけにしたかと思えば、骨まで折って!!あげく、目まで潰されて!!」
いや、潰れてへんし、見えてるし、ちょっと赤いだけやしと反論するにも相手が悪いと、冬子にごめんと繰り返した。
そんななか、出て行くタイミングを逃した神原は、まさかの道連れに”マジかよ…”と顔を青くした。
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