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第30話
「ったく、あのアホ、思っくそ剥がしよって。ヒリヒリするわ。あんさん、どないな教育したはるん!?」
万里と由はロビーまで見送るという彪鷹の後ろを歩きながら、その背中に文句を言った。ヒリヒリと痛むのと容易く捩じ伏せられた腹立たしさから、怒りの矛先を親である彪鷹に向けているのだ。
「いやー、アホ息子でごめんやで」
「ほんま、有りえへん」
彪鷹はエレベーターの呼び出しボタンを押すと、振り返った。それに万里と由が顔を合わせた。
「なんやの」
「あー、お前らさ、Thanatosって知ってるか?」
「は?タナトス?何それ。あんたら、さっきから何なん?何や、隠しとるやろ」
蛾眉を顰めて長身の彪鷹を見上げると、彪鷹はうーんと唸るような声を出した。
「いや、仁流会に不穏な空気が流れてるよーっていうやつや。ほれ、知らんか?Thanatos。別名、李王暁 ちゅう殺し屋らしいで」
「は?殺し屋?」
「それが日本に観光に来てるんやと。明神組は仁流会の番犬やろ?なんや、噂聞いてへんか?」
「初めて聞いたわ。殺し屋とか、映画ん見過ぎやろ」
万里が笑うと、ちょうどエレベーターが到着して扉が開いた。万里と由がそれに乗ると、彪鷹は、ほなここでと告げた。
「下に相川がおるから、外に出してもらい」
「Thanatosは、顔に刺青のある男ですよ」
閉まる瞬間に由が言うと、彪鷹が驚いた顔で由を見た。由はそれに微笑を浮かべ、そしてドアは閉まった。
「由、知ってるん?」
「ほんの、噂。ガセかもしれへんけどな」
嘘つきやなと万里は眉を上げた。
由の情報は外れたことがない。情報源がどこなのか決して言うことはないが、今まで一度も間違えたことも外れたこともないのだ。
なので、そのThanatosが顔に入れ墨のある男というのは99%、確証のあるものということ。
「殺し屋やて。恐ろしねぇ」
万里は小さく呟いて、首を竦めた。
由は車を走らせ万里をカフェに連れて行くと、2階の窓際の席に座らせオーダーを取りに行った。
立地のいいそこは先ほど行った鬼塚組のビルに負けず劣らずのビルに囲まれていて、そのせいかサラリーマンの息抜きの場所のようにスーツ姿の男がコーヒー片手にブレイクタイムを楽しんでいた。
見下ろせば忙しなく動くサラリーマンも見えて、忙しそうだなと自分には縁のないそれをぼんやりと眺めた。
左目を覆うガーゼは大きく、頬の傷も隠してはいるがさすがに目立つそれに、時折、視線を感じた。
それに苛立って舌を鳴らすと、あのクソガキ思いっきり引っぺがしやがってと、思い出したように痛み出した頬を撫でた。
「お待たせ、カフェラテで良かった?」
「なんやてええよ」
そう言う万里の前にカフェラテが置かれたが、万里は由の手にあるそれに相変わらずかと呆れた顔を見せた。
それに気が付かない由は向かいに座ると、まるで蓋をするように山盛りに載せられたクリームをストローで掬い上げて、ペロッと舐めた。
「それ何なん?コーヒーなん?」
「キャラメルクリームカフェモカ。おまけでチョコソースかけてもろてん」
「糖尿なんで、自分」
「ならへんならへん」
どこから出る過信。そういう奴が一番なるねんと、言うだけ無駄かとカフェラテに口をつけた。
「で、どないすんの?考えてんの?」
「なーんも。ただ心が逢わせてくれる言うてるし、そっから」
「逢ってから考えんの?俺、聞いてへんねんけど、その由良雷音とどういう繋がり?」
やっぱ、そこ気になりますよねと由を見ると、にっこり微笑まれた。これ、言わないと無理なやつだ。
「…BAISERって店知っとる?」
「BAISER?ホスト界の最高峰やろ。客は老若男女問わず。でも、身分不相応の人間は入店出来ひん、会員制のホストクラブ」
「さすが、よぉ知っとる。まぁ、そこのオーナーの蓮ってゆーのんに雷音を紹介してもろた。蓮は神原ん知り合いみたいやったけど、そん雷音は俺が重傷負ったときに匿ってくれたんや」
「へー、海里のねぇ…。あ、見てみぃ」
由はウィンドウの向こうに顎を向けた。それはそのビル街で一番大きな会社の入り口で、人の出入りも激しいところだった。
「なに」
「株式会社由良物産」
由のそれに万里がハッとした顔をした。
「そう、一新一家のフロント企業。すごいんよ、あの会社。貿易に強い会社でね、アジアでの貿易パイプのデカイこと。仁流会にはないパイプやね」
「由良、物産」
「資金力でいうたら、鬼塚組とええ勝負や。鬼塚組はあの相馬のおかげで風間をも凌ぐちゅう資金力持っとるいう噂やけど、ほんまのとこは分からん。一新一家は表立って派手な動きはあらへんけど、なんやいうても老舗極道。代紋掲げてからの年月はうちよりも古い。大きい抗争はしたことはあらへんけど、誰も手ぇ出さんとこみると相当な力持っとるちゅう話や。昔から仁流会とは仲良しさんちゅうわけやあらへんけど、佐渡の時代にモメたことがあったらしくて風間とは距離があるな」
「うちと友好関係あるわけやてあらへんのんに、俺のために動いたってことは相当、雷音も無理したってことやあらへんの?」
「さぁ、どうやろうなぁ。他との馴れ合いを好まんせいもあって、一新一家も内部はあまり知られてへんからなぁ」
由のそれに万里が何かを思い出して、顎に手を置いた。極道の何もかもが記された…。
「あれになら載っとるんやろか。グルルワール…いや、ちゃうな」
「は?」
「グルグルワール…なんか、禁断の書って知っとる?」
「…あの、グリモワール?」
「せや、それ!グリモワール。BAISERに出入りしたはるルポライターで、衣笠ってやつが握っとる…ちゅう噂」
最後の方は声が小さくなった。
そう、衣笠は頑なに持っていることを否定した。そのせいで酷い目に遭ったとも言っていたので、もし実在していたとしてもそれを認めることはしないだろう。
「ふーん。なんや、俺がおらん間に楽しそうなことやなぁ」
由はそう言って笑って、クリームを掬った。
それから宿泊するホテルを探して、食事をして少しだけ観光という名の偵察をしてみる。歌舞伎町界隈はさすがの賑わいを見せているが、やはり異国色が目立っていた。
歌舞伎町は特殊な街だ。極道や反グレ、海外者、とにかく縄張りも特殊で手が出しにくい。うっかり海外者の縄張りに手を出そうものなら、大きな戦争に繋がる。
ここでは組の代紋も何の役にも立たないほど、ルールが独特だ。
「こうゆー場所って、あれやね、独特やね」
万里はビルの影で喧嘩をする輩を横目に見て笑った。みんな元気そうでなによりだと。
「こういう界隈が必要な街なんやろうね。オリンピックの波に乗って一斉排除するにしても、なかなか簡単にはいかんしなぁ」
「お姉ちゃんの色もちゃう」
「人が違うって感じやな。疲れたか?片目やし」
「うーん、ちょい疲れた。心から連絡は?」
「あったで。明日の昼に一新一家に行けって。連絡はしといたって」
「そっか」
こんな所まで勢いで来てしまったが、帰ったら椅子がないかもしれない。というよりも破門の可能性もある。
いくら会長の息子といえども、どこまでもそれが罷り通るものでもない。
「赤字破門出るかも」
「えー、万里に?ほな、俺も出るわ。どないする?二人で放浪の旅にでも出る?海外にでも」
「せやねぇ。俺ん容姿じゃあ、国内では普通には生きていかれへんからねぇ」
赤い目に頬の傷。今更、普通の何かが出来るわけでもない。任侠の世界よりも、堅気の世界の方が残酷なことは多いのだ。
「明日、晴れやとええな」
万里は濁って見える夜空を見上げ、肩を竦めた。
都内近郊にある大きな屋敷の近くに車を停めて、万里と由はその門構えに息を吐いた。
でかいわ、とりあえず。そんな感じ。
どこまでも伸びる白い壁は高く、そしてシミひとつない。その壁よりも高い門はまるで要塞の入り口のようだ。
仁流会と肩を並べるというだけあって、立派すぎる屋敷は尋ねる前から疲れが出る。物怖じしてはいけないとはいうものの、これは物怖じとかそういうレベルの問題だろうか。
「どないする?万里」
「あれ、普通にピンポンーって出来はるん?たのもーってせなあかんのんちゃうん?」
「門の前でたのもーなんて叫んだら、カチコミや思われるでしょ」
ですよねーと万里はネクタイを締めなおして、由に合図をした。
車は門の前に緩やかなスピードで近づいた。すると門の横の勝手口から人相の悪い男が出てきて、あ、家を間違えてはいないなと確信を持てた。
運転席のウィンドウを開けて、由が顔を出すと男は眉間に深い皺を寄せて近づいてきた。
「どうも、鬼塚組から連絡いってます?明神組です」
「ああ、明神さん。遠いところまで、ご苦労様です。門を開けますんで、入ってすぐの左に客人用の駐車スペースがありますんで、そこに車停めてください」
男はそう丁寧に言うと、勝手口からまた中に入っていった。教育はしっかりされているようだ。
ギッと門が鳴いて観音開きのそれが、ゆっくりと開いていく。由は万里の顔を見るとアクセルを踏んで、中に入った。
まるで林の中に迷い込んだような、そんな感覚だ。入ってすぐ左に数台の車が置ける駐車スペースがある。右側には松の木が何本も植わっていて、それこそ林だ。
そして、駐車スペースから奥に入ったところに大きな屋敷の入り口が見える。
「マイナスイオン全開」
万里は呟いて、車を降りた。入り口には先ほどの男が居て、万里と由はその男の方へと近づいた。
「どうぞ」
言われ、広い三和土に靴を脱いであがる。用意されたスリッパに足を入れ、檜の無垢材の床をペタペタ歩く。
外同様、中も年季の入った立派な建物だ。年輪が浮き出て色の濃くなった大きな柱が家を支えていて、万里は何気にそれに触れた。
広く長い廊下を歩いていると、右側に壁、左側に雪見障子のある部屋をいくつも通り過ぎた。頭を下げて覗くと、奥に硝子の引き戸が見えた。向こう側は庭のようだ。
ということは、この壁の向こうはあの松の林が続いているのかと、改めてすごい屋敷だなと感嘆した。
「客人がお見えになりました」
男はある部屋の前でそう言うと、雪見障子を開けて頭を下げ万里たちを中へ促した。
中には男が一人、座布団に座っていた。広い畳の和室の床の間には大きな掛け軸が飾ってあり、その前にはしっかりと手入れされた盆栽が置かれていた。
万里と由は男の前にある座布団に座ると、とりあえずという感じで頭を下げた。
「急な訪問で申し訳ない」
由がそう言うと、男は小さく笑って手を前に翳した。
「いえいえ、遠くまでご苦労様です。自分は一新一家の若中で奥菜といいます。頭がもう来ますので、お待ちください」
「そうですか」
奥菜はそう言うと立ち上がり、万里たちとは反対側の襖を開け、奥に消えてしまった。
あちら側が庭のある方。両側に廊下がある家ってことかと、万里と由は家の構図を頭に描いていた。
すると、暫くして男が二人現れた。
前に居る男はどこか儚げで影のある男だ。黒く艶のある髪は丁寧にセットされていて上品さが男に良く合っていた。鴉の羽のように黒光りする艶っぽい双眸は、長い睫毛が影を作る。
華奢な鼻は脆そうで、殴ればすぐに砕けそうだった。身長は万里と変わらないだろうが、鍛えている万里とは違いスーツの上から見る限り、男は華奢に見えた。
その後ろに居る男は、それとは対照的に身体の大きな男だった。長身で鍛え上げられた身体。そして、眼光の鋭い尖った瞳。
高い鼻と多くを語らなそうな薄く引き締まった唇は、きゅっと閉じられている。茶色に染まった髪はあちこちに立てられていて、長めのウルフカットというところか。
これが護衛だなと、万里と由は腹の中でニヤリと笑った。
「遠くまでご苦労様です。一新一家若頭の由良雨音です」
やはり、前に居る男が本命だと万里は頭を下げた。ということは、これが雷音の兄。恐ろしいまでに似てない兄弟だなと思った。
「明神組若頭明神万里です。急な訪問、申し訳あらしまへん」
「お気になさらずに」
雨音が万里の前に座ると、奥菜が盆に茶を載せてやってきた。それを後ろの男が受け取り、万里と由の前に茶受けと共に置く。
万里は頭を下げると、雨音を見据えた。
まるで見えてないようにも見える、黒い目だった。潤んでいるようにも見えるし、黒いガラス玉のようにも見える。そして、恐らく、万里と年は変わらないように思えた。
「目、どうされました?」
じっと見る万里に気がついたのか、雨音は微笑んで万里のガーゼで覆われた目を見た。
「あー、ちょい怪我しましてん」
「そうですか、大事にならなければいいですね」
「おおきに。それでー、あの」
「本来であれば、組長がお会いするところなんですけど、今、療養中でして」
「療養?どこぞ悪いんですか?」
「肺を患っているので、空気の綺麗なところで静養しております」
「そうですか」
「ところで、そちらの方は補佐の方ですか?」
「申し遅れました。若頭補佐の飛鷹 由です」
「そうですか。後ろのは柘榴 と申します。うちの補佐は組長と一緒に居るので、今日は外しております」
男ー柘榴は頭を下げたが、万里はハッとした顔をして柘榴を見た。だが、すぐに視線を外した。
「ところで、今回は急にお見えになったご用件は?」
万里は、あっと頭を下げた。それに雨音は小さく首を傾げた。
「先日は、お力を貸していただき誠にありがとうございました」
「ああ、そのお礼ですか?わざわざご足労いただかなくても、結構でしたのに」
そんな大したこと、何もしてませんよと雨音は笑みを浮かべた。
「そんお礼もありますがー。こちらに楢崎雷音、居てはりますよね?」
こういう交渉は全て神原に任せてきた万里は、煩わしいとその名を口にした。隣で由が肩を竦めたが、話術は苦手だし拳勝負で生き抜いてきた万里には相手の腹を読む器用さはない。
その不器用さに気がついたのか、雨音がにっこりと微笑んだ。
「楢崎ではなく、由良雷音なら居ますが?」
「それ、返してもろたらありがたいんですけど」
「万里!」
さすがに由が声を上げ、雨音は驚いた顔をして万里を見た。
「返す、ですか?あれを?」
「そう、返して欲しいんです。やて、俺が不甲斐ないばっかりに雷音が動くことなって、結局、戻りたあらへんとこに戻るて、理不尽や思いませんやろか?」
家の人間に戻りたくない場所と告げるのはどうなんだと、由は項垂れたが、万里はそれに気が付くことなく雨音の黒い宝石のような目を見つめた。
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