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第1話

 どうしよう。あの人を逃してあげたい。  男の人が太い鎖で手足を繋がれている。金色の髪が腰まであって、女の人みたいに優しい顔立ちだけどさっきまで叫んで暴れていた。  声がかれている。  若葉みたいな緑の瞳がしおれたようになる。  日に日に弱っていくのがわかる。  まともな食事を与えていないからだ。  あの人に無体を働いている極悪人(マスター)は七日に一度仕入れのためにこの研究所を留守にするから、どうにかその隙に逃げて欲しいんだけど、おれはあの人の鎖を外してあげることもできない。     あの弱り方では、自分で鎖を外すのも無理だろう。  あの人も暴れなければいいのに。  大人しくじっとしていれば殴られたりしないのに。   ねぇ、いい子にしていなよ。そうすれば今よりも少しは良くなるよ、おれは語りかけるけれど、きっとおれの声はあの人には届いていないのだ。     あの人がここに連れてこられた時、目覚めて辺りを見回しおれや、置いてあるものに驚きと嫌悪の眼差しを向けた。  あの人が嫌そうな顔をしなかったのは広い水槽を泳ぐ魚や、カゴに入れられたオウム。  鱗や羽を持った生き物には、あの人は優しいどこか哀れみの色の浮かんだ眼差しを向けた。  その後は、おれに対しては嫌悪感を隠しもせずこちらを一顧だにさえしなかった。  仕方ない。  おれはとても醜いから。  おれは、ガラスの瓶に入れられた『人工生命体(ほむんくるす)』だ。  自分が閉じ込められているガラス瓶の蓋さえ開けることができない。  非力で見ていることしかできない生き物だ。  瓶詰めの、ひょろ長く足の分かれた薬効人参みたいなしわしわの醜い姿。  人間を殴打した後のような肌色に青やら紫やら黄色のまだらになったような汚い肌。  頭にちゃんと顔がついて目も鼻も口もある。  髪はない。ヒゲも睫毛もない。  元の姿を思い出そうとするんだけど無理だった。  次に生まれ変わるならあの人みたいな綺麗な姿がいいなぁと、瓶の中からこっそり見つめる。  あの人はマスターが愛玩用に買ってきた奴隷か何かかと思ったけれど、どうにも違うようだった。  檻の中の動物の方がよほど可愛がられている。  餌を与え、寝床を整え、撫でたりおやつを与えたりするから、檻の中の獣は従順だ。    おれは何度か脱走しようとしたから、もうガラス瓶の中から出して貰えない。  それでも大人しくしていれば、マスターは瓶の中に白桃の切ったのを入れてくれたりする。  おれは白桃が一番好きだ。  こんなにうまい食べ物は他にないと思っている。  あの人も最初は鎧を着ていたけれど、剥ぎ取られて、そのうち服も破いたり切ったりされて、今はもう裸だった。  食事が与えられないせいで痩せてしまったけれど、手足が羨ましいほど長い。  マスターはどうしてあんな綺麗な身体を殴ったり刺したりするんだろう。    マスターはあの人を裸にして、雄が雌にするような交尾をする。  あの人が泣いて、動けなくなるまで、まるで鞭打つようにする。  罪人にするようにひどくする。  あの人の白い膝小僧や、白い肌にほんのり赤みのあるお尻は白桃みたいで、おれはそれを見るたび頭とお腹がきゅうきゅう痺れたように感じて身震いする。  なんて美味しそうなんだろう…。  汚れたところをぴちゃぴちゃ舐めて綺麗にしてあげたいけれど、おれなんかが近寄ったら踏み潰されてしまうだろう。  おれは何日もマスターがあの人を這わせて交尾するのを見ていた。  おれがあの人に触れることはなかったけれど、マスターはあの人の陰茎をいろんなふうに勃起させしごきあげて、絞り取った精液をおれのいるガラス瓶の中にこぼした。    時にはおれを糞尿にまみれにもした。  嫌だし、恥ずかしい、悲しいけれどおれがどんなに抗議して訴えても無駄だった。  おれは与えられるままにそれを綺麗にするしかない。  でもあの人の綺麗な身体から溢れた赤い血や白い体液を舐めるときどきどきした。これを舐めたってあの人みたいになれるわけもないのに。  マスターとあの人の体液が混ざっているとおれは狭いガラス瓶の中で頭が沸騰しそうになった。  マスターとあの人が普通の番みたいに仲良くしてくれれば良いのに。そう思ったりもしたけれど、そんな兆しはなかった。どこまでいっても二人の関係は暴力的な支配しかない敵同士の平行線のようだった。  マスターが部屋から出ていくと、あの人は倒れたまま誰かの名前を呼んで啜り泣く。  来たばかりの時はマスターに負けずに言い返していた。  綺麗な顔に似合わず、噛み付いたり、唾を吐いたりした。  でも、もう何日経っただろう。  あの人は打ち倒され、自由を奪われて、人間らしい生活をさせてもらえず、雄としての誇りも踏み躙られていた。 ねじ伏せられ、屈服させられ、動物みたいに這わされて喘がされていた。  誰も助けに来ない。あの人はひとりぼっちだった。  可哀想に。  どうして誰も助けに来ないんだろう…。  あの人は助けを求めていた。  あの人は、壊れてしまうと言った。  どうして来てくれないんだと呟いて、あの人はしばらく泣いていた。  それを聞くととてもつらい。  助けてあげられなくて、ごめんね。  でも、あの人が身じろぎして泣いていると生きていて良かったとおれはほっとする。  おれはこの体になる前は何か違うものだったはずなんだけど、何回も切られたり、千切られたり、えぐられたりしている間に覚えていたことをかなり忘れてしまった。  おれの体は驚異の再生力を持っていて、切り刻まれても、すり潰されても、恐ろしいことに焼いた灰のカスからでも蘇る。  切り口から根がでるようににゅるにゅると盛り上がり再生していく。  自分で言うのも何だがはっきり言ってすごく気持ち悪い。  実験の過程で切ったり焼かれたりしたせいでずいぶんちっちゃくなってしまって今はもう人の手のひらぐらいの大きさしかない。  本当は失敗作として焼いて廃棄されるはずだったんだ。  それが灰のカスから蘇ったことで、もう一度実験の対象になってしまった。  この研究場所を作ったマスターは、再生したおれの体を千切っては魚や蛇に投げ与え、その蛇や魚をあの繋がれた男の人に食べさせている。  焼いたりしない。  生血や内臓なんかを。  そしてマスターはあの人の血や体液なんかを俺に舐めさせる。  マスターはこれまでおれの体に魚やカエルの心臓を継いでみたり、おれの心臓を猫の体を開いて縫いつけたり、ひどいことを色々やってきた。犬、山羊、豚、実験の対象がどんどん大きくなるのが怖い。  心臓の細胞が傷ついても再生する能力を持つ魚だったり、尻尾や足を失ったサラマンダーが体を修復する話をされても楽しくない。手足を切られるとすごく痛いんだよ!  痛いんだよ痛いんだよ!!  おれが泣いてもマスターは、早く育てよとおれの頭を指先でくりくり撫でる。  治りが遅いとよしよしとおれを撫でて容器の中に白桃やりんごの切ったのを入れる。  いちじくや、苺の時もあった。  おれが良い子にしていればマスターはおれを撫でて甘い果物をくれる。  マスターは時々歌う。  おれがうっとりと聞き惚れていると、笑って容器を揺する。  おれはガラスの容器に頭をぶつけてちゃぷちゃぷ揺れながらぺちぺちと拍手をする。そしてマスターはこんな陰気な研究室で恐ろしい実験などせずに、広い空の明るい場所で歌手にでもなれば良いのにと思った。  きっとみんな歌ってと言うのに。新しい歌を、次の歌をとねだって拍手をするだろう。  ああ、でもマスターが歌うと怖い。  歌の後におれはいつもより多く千切られたり、深く切られたりする。  鹿の角みたいに数ヶ月でもりもり大きくなって角が大きく完成する秋が発情期とかそんな話をされても困るよマスター!  おれは鹿じゃないし、角もない。  角を移植しようとしないでよ、育たないよ!  すり潰したおれの手足を瀕死の猫に塗りつけたり、おれのすり潰された体液に牛や豚の切り取った内臓なんかを漬け込んだり。そんな楽しそうにやらないでよ。  漬け込まれた内臓は血色も良く、腐敗もせず、ぷりぷりだよ。嫌な匂いもない。  ぷるぷるつやつやのお肉だよ。  ああ、マスターが漬け込んだ内臓を串焼きにして食べちゃった。  やだなぁ、食欲をそそるすごく良い香りがするんだよ…。  自分が食べる分は焼くくせに、あの人には生肉を口に無理やり押し込んでいる。    嫌がっている。  当然だよね、血のしたたる生肉なんて人間の食べるものじゃないよね。  あの人の喉仏がこっくりと上下する。  あの人は嗚咽して、なんとか吐き出そうとしている。  ごめんね、ごめんね、マスターが変なものを食べさせて。おれの血肉漬けなんて嫌だよね…。  でもおれの血肉であの人の傷が癒えたら良いんだけど…おれは最初はのんきにそんなことを思っていた。  最初だけだ。  ああ、もう、だめだよ。  何がだめかうまく説明できないし言えないけど。  マスターは次はあの人に何かするつもりだ。  あの無理やりな交尾よりひどいことを。  体の組成が近ければ近いほど良いはずだからと何か色々なおぞましい実験をしている。  取り出した心臓が止まらないようにするためにはどうすれば良いのかと、赤い血液に似た成分を作っている。  マスターにとっては、あの人もおれも容器や材料にすぎないんだ。  赤い血の受け皿だ。  石畳の廊下に足音が響く。朗らかな歌声が響く。  マスターが部屋に帰って来たようだ。歌っている時は機嫌が悪いんだ。  マスターは好きな歌を歌うことで平静を保とうとする。  マスターは聞き惚れるような男らしい良い声をしているのに、おれには理解しきれないけれどすてきな歌詞のようなのに。  この愛に勝るものはない。歌の終わりはそれで締め括られる。  マスターの歌う愛って何なんだ。  怖い。またひどいことをされる。あの人もおれも。 「恨むなら隊長を恨めよ」  そう言って極悪人(マスター)はあの人にひどいことをする。  あの人が悶え苦しむのを笑いながら見ている。    悲鳴をあげまいと、あの人が耐えている。  おれは恐ろしさにただ瓶の中で震えていることしかできなかった。 「お前の大事な隊長が、俺の大切な人を殺したから、これは正当な復讐なのさ」  マスターはその日はより長く、執拗にあの人を嬲った。  いつもは使わないような薬を使ったのか甘い香りが部屋いっぱいに漂い、抗っていたあの人はマスターに縋り付いて目をとろんとさせていつもなら絶対に言わないようなことを言っていた。 「ディラン、ディラン気持ちが良いよ、狂ってしまいそうだ。……お願いだやめないで、ずっと抱いていてくれ、ディラン怖いんだ、ディラン好きだ。愛している、お前だけだお前だけ愛している。離さないでくれ、ずっとそばにいてくれ…」  薬のせいであの人はおかしくなっていた。  緑の瞳は涙で濡れて、口からは甘い喘ぎがひっきりなしに押し出される。  マスターはディランって名前じゃない。  それなのにあの人はマスターをディランと呼んで愛おしそうに頬擦りをした。  口付けをねだった。その…他のこともおねだりしていた。  二人は愛しあっているみたいに繋がって抱き合って長く揺れて動いていた。  その間中ずっとあの人の甘えたような泣き声が聞こえて、肉がぶつかる音がしていた。  おれはその一部始終を見ていたはずなのに、途中から意識がなかった。興奮しすぎて気絶してしまったのかもしれなかった。  鎖で繋がれてたあの人は顔は綺麗なままだったけれど、首から下は真っ赤だった。金色の髪さえ途中から赤く染まっていた。 「アシェル、今のお前をディランに見せてやりたいよ。俺に抱かれてよがり狂うお前の姿をあいつにね。さぁ、俺もこんな悪趣味なことに時間を費やすのは飽きてきたところだし、そろそろお終いにしようかと思うんだ。ここもそろそろ見つかりそうだし」  あの人は壊れた人形のように見えた。  ねぇ、起きてよアシェル。  おれは今日知ったばかりのあの人の名前を呼ぶ。  あの人にぴったりな綺麗な名前を呼ぶ。  マスターは微笑みながら俺が入ったガラス瓶に血のついた手を伸ばした。 『マスターおれをどうするの?』 『ねぇ、マスター?』  おれは必死に呼びかける。  ガラス瓶から摘み出され、二、三度振られて、体から滴が飛び散った。    マスターはおれを新しい容器に入れた。ガラスの容器ではなくて、ぴかぴかの金属の容器だ。内壁に歪んだおれの姿が映る。  おれはマスターを見つめた。  鼻筋の通った端正な顔立ちで、大きな瞳を縁取る黒い睫毛の奥は血よりも赤い。  瞳は本当に赤く喜びで光り輝いているように見えた。 『マスター、こんな所におれを入れないで』  おれが入れられていたガラス容器はいつも温かいとろっとした液体で半分が満たされて、おれはそこに潜ったり、好きな時に顔をだしたりできた。  金属の容器は空っぽで、冷たくて、別の物が足元にあった。 『マスター、足から切れてくるよ』  痛いのに飛び跳ねることもできなかった。おれの足元には風車の羽根のように鋭い刃が並んでいた。  ガラスの容器から金属のミキサーにおれをいれて、どうするんだ。  怖いよ!やめて!  おれの重みで足裏からじわじわと切れていく。 『マスター、助けて!』  ずっと微笑んだ形のままのマスターの薄い唇が見えた。冷笑だった。  涙で歪んだ視界は蓋をされて、真っ暗になった。  がちり、と何かを押す音が聞こえたのがおれのその体での最後だった。  温かくて狭い場所をすごい早さで流れていく。乾いた土に水が染み込んでいくみたいだ。傷ついた場所に張りつき穴をふさぎ、外にこぼれていかないように膜を張る。  真っ暗なようで、光が当たる場所は赤いような赤黒いような狭い管の中を駆け巡る。    おれは再生しているのかな…。  でもこの狭い穴は何なんだ。狭い部屋が四つもある。    出口を探したわけじゃないけど、きゅうきゅうとそこから押し揉まれ噴出する様に押し出され巡りめぐって傷ついた丸い部分に流れこんだ。  穴の中に何かある。糸みたいな紐みたいなものでどこもかしこも繋がって、おれはそこで傷ついた部分をまた治した。  透明でぷにゃぷにゃしている。その上に少し硬いような膜がある。ここに何を刺されたのか。  きっととても痛かったはずだ。  別の場所は切られたせいで塞がれた管を少しずつ癒していく。そこに桃色の濡れた、たいらな肉片が生まれる。  これは舌?  流れていた血がおれと混じり合う。  滞っていたものが一気に全身を流れる感覚があった。  傷口がふさがって視界が明るく広がった。  見慣れた石の壁だ。  おれはあの暗くて狭い研究室の中にいた。  蓋のないガラス容器と、あの恐ろしい金属の容器が床に転がっていた。  乾いた場所は嫌だよ。表面がひりひりするんだもん。おれは魚みたいに外側を守ってくれる鱗を持たないから、ぬるぬるした液の中が住み良いんだ。  おれはガラスの容器の中に戻ろうとした。  あのとろりとした液体の中に潜って、ふて寝しよう。    がちゃり。  がちゃりがちゃりと、重たい音がおれの体の末端から響いた。  なんだこれ。  なんだよこれ。  おれの手じゃないし、見たことのある鎖だ。  あの人を繋いでいたのと同じ鎖じゃないか?  おれはそんなに大きくなってしまったのか?一体何と混ぜたんだ。  手も足もひどく汚れていて、鎖で繋がれていた、おれは裸で。  見慣れたしわしわの醜い手足じゃなくて、ある意味見慣れた痩せた手足の長い体。血で汚れた髪がまとわりついた男の体だ。でも髪の色がおかしかった。一夜にして色褪せたように艶もなく老婆のような白髪に見える。    髪の色が違うからあの人ではないのかな?  待ってくれ、じゃぁここに繋がれていたあの人は一体どうなったんだ。アシェルは。  でもこの手足はやっぱりあの人みたいだ。もしかして、あの人の肉体がおれの容器になったのか?  あの人の傷ついた身体の中に溶かした俺を流し込んだのか?  おれがこの肉体の容器の中に入っちゃったら、あの人はどこへ行くんだ。  まだ、この身体の中にいるのか?  マスターを呼ぼうとした俺の口に流れ込んできたのは煙だった。  おれはひどくむせて咳こんだ。  マスターが前に肉を焼いた時とは比べ物にならない量の煙が部屋に押し寄せる。  何処かが燃えている。  水槽の中の魚や、ガラスケースの中の蛇やトカゲが一斉にこっちを見ている気がした。  出してやりたい。  こんな場所で焼け死ぬなんてごめんだしあんまりだ。  鎖で繋がれたら部分を噛み切ればと思ったけれど、届かなくてどこも噛むことができず、腕を振っても抜けもしない。 『マスター!!』  おれは化け物だから、ここで焼け死んだって仕方ない。  逃げたって外の世界では化け物はみんな処分されちゃうんでしょう?  でもみんなは違う。  みんな川や野原に放たれれば生きていける。残りの子はちゃんと動物の原型を留めている。  どうしてみんなを残して火を?  マスターが火をつけたの?どうして?おれは混乱したまま闇雲に手を振る。  ただ虚しくがちゃがちゃと鎖が鳴るだけだった。  煙は濃くなり、カゴのオウムは狂ったように暴れていた。熱は上にいくから、おれよりずっと苦しいはずだ。  羽音よりも荒々しく石床の上を走る複数の足音が聞こえて、ドアに体当たりする物々しい音がおれの耳を襲った。 「アシェル返事をしろ!アシェルー」  吠え声がアシェルの名前を呼んだ。  おれはアシェルじゃない。  おれの名前、おれの名前、おれに名前があったのは随分昔のことでおれはおれの名前がわからない。誰もおれの名前を呼んで助けになんて来てくれないだろう。  どうしよう。 『人工生命体(ほむんくるす)』は許される存在じゃない。 「グゲゲゲ…ギギ…ギィランアイシテルディランアイシテル…ギゲゲゲ」  おれのかわりにオウムが叫び返した。  アシェルがマスターに抱かれながらずっと言っていたから言葉を覚えたんだ。賢い…。  斧と剣を持った男達がドアを蹴破って雪崩れこんできた。  黒光する斧が振り上げられておれは目をつぶった。  マスターは助けに来てくれなかった。おれを置いて行ってしまった。  化け物のおれはきっと斧で撲殺される。  一撃で首をはねてくれれば痛くないかなとその瞬間を待った。  手足が軽くなり何かで包まれた。  地響きみたいな重い音は、きっと何処かで柱か屋根が崩れた音だ。  おれをここで殺すのではないの? 「怪我は…ないな?」  胸や目に開いていた穴はおれが治してしまったからひどい傷はない。中身はまだよくわからない。  その人は素早くおれの体を確かめ、おれは持ち上げられて再度強く抱きしめられた。 「証拠品を持てるだけ持て、出るぞ」  声と共に、一団が動く。    あれほど出て見たいと思っていた場所から、抱えられて連れ出された。  おれがずっといた場所は地下だった。  外は暗くて、燃える明かりに照らされて炎と炙り出された影が色濃く、おれは何もわからないまま呆然としていた。  アシェルの名前を呼びながら地面に座り込んだ俺をぎゅうぎゅうと抱きしめる人がいる。  知らない顔なのに懐かしいような気がした。  強面(こわもて)だ。  たぶんおれがあのしなびたような体で現れたら、一刀のもとに切り捨てるような酷薄な顔だ。  燃え盛る炎を背にするせいで、黒く太くまっすぐに伸びた眉や夜闇と同じ瞳、眼窩の影はより黒く死神のように見えた。 『アシェル、アシェル、助けが来たよ?』  アシェルがこの身体の中にいるのか外にいるのかおれにはわからなかった。  心の中で呼びかけても返事がない。  あの人は自力で逃げようとし、抗い、傷つき、助けを求めていた。  倒れて一人で泣きながら呼ぶ名前はいつも同じだった。  この人はアシェルが呼んでいたディランなんだろうか?  わからない。  その人は汚れた手袋を乱暴に脱ぎ捨てて、おれの顔を両手で包んだ。  ふわふわの綿でも触るように、力をいれるのが怖いのかそっと頬に触れた。 「%#@£?」  あれ、どうしよう。おれはディラン?と呼んだつもりだったのに口がうまく動かなかった。  あのオウムの方がよほど上手に名前を呼んでいた。 「グギャギャギャギギ…ギィランアイシテルディランアイシィ…イーヤーギャーダズゲデェギャー」  ああ、オウムはカゴごと外に持ち出されて助けられたのかとほっとする間も無く息ができなくなった。  あれ。  ねぇ。  まって。  息ができない。  唇がくっついて息ができない。  にゅるっと入ってきたものがおれの?アシェルの舌を絡め取った。  まって、まって、まってよぉ!  どうしよう、息ができない。前の体は半分水に浸かっていても息ができたのにこの身体はだめだ。 「このあほたれ、怪我人相手に何を盛っとるんじゃ!」  ぷは!っと息ができた。  おれの唇にひっついていた人は襟首を掴まれていた。 「アシェルは回復するまで公務休職、ディランには二週間傷病人の介添を命じる。その間第四隊は第五隊指揮下に入り、スタラ家の地下消火活動及びに地下下水道の探索を命じる。ディラン、早くアシェルを休ませてやれ」  唇にひっついた人がやはりディランらしい。  そして後ろに立つどっしりと恰幅の良いおじいちゃんは彼より偉いのだろう。 「%#@£?%#@£?」  どうしよう、名前を呼んでも口はうまく動かないし、立つこともろくにできなかった。  変な薬が身体に残っているのか熱いか寒いかもわからなくて、そのくせおしっこを我慢しているみたいな感覚があってむず痒い。  身体に触れられただけで、ぶるぶると震えがきた。  立てない、立ちたくない、もれちゃう…。  ぐずぐずするおれの…アシェルの?身体はディランの匂いがする外套に包まれて抱き上げられた。  そのまま彼は馬車に乗り込む。  ディランらしき人はアシェルの名前を呼んで、頭を撫でて、血で汚れた髪にぎょっとしたみたいだった。 「遅くなってすまなかった。お前が無事で…」  ディランの声は泣きそうだった。多分泣いていた。  彼の濡れた頬がおれにくっついた。  どうしよう、おれはアシェルではないと説明しなくてはいけないのに。  包まれる身体が温かくて、髪を撫でる手が心地よくて、アシェルの名を呼ぶ声が優しくて、おれは震えながらそこにいた。  アシェルが受け取るべきものを代わりに受け取って。  ほんのちょっとだけ、優しくされたかった。  この人を騙そうとかそんな気持ちはなくてほんの少しだけ。  おれは震えながら優しい温もりに溺れた。  

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