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第2話
どうしよう。おれはアシェルではないと言うのに伝わらない。
「%#@£?$*〆&γ※Ωβα%#@£!?」
ぺれりらぱりゃぽりみゃーみたいな壊れた破裂音がおれの声だなんて、なんで喉が再生できないんだろう?
『人工生命体 』の時はどうやって話していた?
おれは一生懸命話してるつもりだったけれど、おれが一方的に話しかけてただけだった。
マスターはわかってくれたけれど、あの人には全然伝わっていなかったし。
おれ、もしかして人間の話し方がわからないのかも。
あるいは心臓とか生きていくために必要な臓器を必要順に再生して、喉を治癒するためのおれのほむんくるすの再生力とか体液が足りなくなったのかもしれない。
こっちの方が理由として納得できそう…。
手のひら一枚ぐらいのおれの体の大きさで、ミキサーで刻まれてたぶんコップ1杯ぐらいだろう。
成人の人間の大きさを癒すにはきっと全然足りなかったんだ。
手足だって目立った傷はないけれど痩せたままだ。やせ衰えた筋肉を再生できなかったんだ…。
口から、もしかしたら切られた喉からおれは注ぎ込まれて、外にこぼれていかないように急激に膜を張った。多分あれが厚すぎるか硬いかして元とは違うふうにしてしまったのかもしれない。
今思えば四つあった狭い部屋は人間の心臓の心室だったんだろうな。
マスターが言っていた。
人間は喜怒哀楽の感情があるから心室が四つあるのだよと。
変なの。
心と心臓は同じなの?
おれは人間とは仕組みが違ってた。両生類のカエルと同じように肺とぬめっとした皮膚で呼吸していた。
おれはカエルじゃないけど…カエルの心臓は心室が三つだ。
マスターはおれのむねを切り開き、銀色の板の上にぴくぴくする心臓を乗せて解剖しながら言っていた。
心室が三つしかないから『人工生命体』は感情も欠けているに違いないと。
欠けてるのはやだなぁ…。
でもそれ以上に嫌なのは切り離されたのにぴくぴく動いてる心臓だよ。
心臓がないのにそれを見ているおれも。
気持ち悪いよ。
カエルの心臓ってさぁ、切り離しても塩水っぽいなかでしばらく動いているんだよ。そのうち止まっちゃうけど。
マスターは心臓も開いてピンで留めたり絵を描いたり、大きな眼鏡みたいなので覗いたりしてたけど、切り離した状態で長く保たせるために心臓を浸す溶液にも色々な手を加えてた。
だからあれも塩水っぽいんだけどたぶん何かおれにはわからない物が色々入ってたんだろうね。
マスターが永遠に動き続ける命を作ろうとしていたのか、完璧な感情を持った生き物を作ろうとしていたのか、もっと他の何かを創ろうとしていたのかおれにはわからない。
でも、そのどれにもおれはなれなかったんだろう。
だからおれは廃棄されちゃった。
マスターはおれを金属のミキサーに入れて蓋をした。
自分の重みで足裏から切れていきながらマスターの顔を見上げた時、おれは恐怖していた。
最後に見えたマスターの微笑が見えて蓋が閉まって真っ暗になった時、おれは絶望した。
マスターが朗らかな声で俺にはわからない歌を歌う時、聞いている間は楽しかった。
マスターがガラスの瓶の蓋を開けて切った甘い白桃を入れてくれると嬉しかった。
マスターがあの人を這わせて繋がっている時、それを盗み見ると胸がどきどきした。
あの人の白濁や赤い血を舐めると恍惚とした。
ねぇマスターおれには何が欠けているの?
おれに決定的に欠けていたのは、感情ではなく美しさだよね?
おれがあの人…アシェルみたいに美しい姿をしていたらマスターはおれをもう少し大事に可愛がってくれたんじゃないかな?
良い子だなともっと撫でてくれたかもしれない。
そばでもっと歌ってくれたかもしれない。
瓶の上に黒い布をかけることもしなかったかもしれない。
マスターは最後にアシェルを斬ってしまったから、おれも最後はそうなってしまったかもしれないけれど。
悲しくて、悲しくて涙が止まらなくなった。
マスターはおれを殺して、おれを捨てて行ってしまった。
「アシェル?どこか痛いのか?」
おれの涙に気づいたディランが唇で涙を押さえて舌先で舐めとった。
額や瞼や鼻先にキスをして汚れてごわごわした髪を撫でる。
「もう大丈夫だからな、大丈夫だから着いたらすぐに綺麗にして医者に見てもらおう」
大丈夫…じゃない。全然大丈夫じゃない。
アシェルもおれと同じように絶望したんだろうか?
だって助けが来ると信じて耐えて、耐えて、ディランに会えないまま存在がなくなってしまった。
マスターが変な薬を使わなければ、あの人はあの人のまま助かったかもしれない。
弱った身体が薬に耐え切れずに負けてアシェルは幻に囚われてしまった。
マスターがいると弱音を吐かなかったけれど、彼は一人で倒れている時、泣いている時ずっとディランの名前を呼んでいた。
ディラン。
ディラン、早く来てくれ。
助けてくれディラン、俺は壊れてしまう。
ディラン、もう耐えられない。どうして来てくれないんだ。
ディラン、早く見つけてくれ、助けてくれ、こんな汚れた俺を殺してくれ。
毅然としていたあの人は、抗っていたあの人は、殴られことも、犯されることも、人間の尊厳を奪われるような扱いにも耐えていたけれど、自分が人間ではなくなる嫌悪に耐えられなかった。
おれの、おれたちの汚れた血肉で肉体が生かされることに発狂寸前だった。
おれも周りにいた子たちもただ一生懸命生きていただけなんだけど、アシェルにとってはおれたちは穢れたおぞましい存在だった。
おれたちはそのへんの草や野菜や果物や鳥や豚なんかと何ら変わらない存在なんだよと訴えたんたけどね。あの人にはおれの声は届かなかった。
だからあの人は汚れたように見える現実より、美しい幻の世界に精神が堕ちてしまった。
マスターに抱かれながらその姿はディランに見えていたはずだ。愛していると言いながら。
ずっとそばにいてくれと言いながら。
マスターもアシェルも愛と言いながら、どうしてこんなに悲しいことになるんだろう。
愛ってもっと良いものなんじゃないの?
ディランは優しい手つきでおれの髪を撫で続ける。おれがもしも砂でできた城だったとしても崩れないぐらいにそっと撫でる。
馬車が止まると俺は車輪がついた担架に乗せられて、寝たまま温いお湯で髪と身体を洗われた。血で汚れてもつれた髪は絡まって少し切ることになった。
おれはされるがままに大人しくしていた。
手も足も、頭を支えていることもできないくらいに身体は重かった。
ディランの他に二人白い衣の人がいる。どちらも無表情で流れるように作業する、
ディランの方が恥ずかしそうに、おれの裸の下腹部に二人の目から隠すように布をかけた。
洗い終わった後も青い透明なすごく高そうな瓶からどぼどぼと水をかけられる。
この無表情の二人は神官なのかな?
青い瓶の中身は…聖水だった。
「%#@£?」
おれはディランを呼んだ。おれは聖水をかけなくちゃいけないような化け物だと思われているんだろうか?
「アシェル、おまえを侮辱するわけじゃない。俺はお前を信じているけれど決まりなんだ。許してくれ」
近づいたディランの手には銀の器があって、そこに聖水が注がれる。
え?これを飲むの?聖水って飲むものなの?
飲めっていうなら飲むけどさ。
きっとこの聖水を作った人は、あるいは清めた人は、この水が悪しきものを浄化すると信じているのだろう。
アシェルの身体が良くない場所に囚われていたから。
もしかしたら、これがアシェルではなくて、アシェルの皮を被った化け物かもしれないから…。
聖水が悪魔やそれに類するものにかかったら、焼けただれたり、痛みで悲鳴を上げると思っているんだろう。
人間はおれたちを汚いものだと思っているんだ。
例えばあの場所に生き残っていたのが醜いおれだけだったとしたら、おれが聖水をおかわりして飲み干しても、聖水のプールで泳いでもおれを滅殺するにちがいなかった。
聖水なんて、どんとこいだよ。
おれがガラス瓶の中で浸っていた溶液の材料の一つが聖水なんだもん。純度100%でも全然大丈夫なんだよ。
だから聖水で傷ついたりしない。焼けただれたりしない。
でもおれの心は傷ついたよ。
こんな綺麗な姿でも化け物だと思われるなんて。あんなにディランを信じて耐えて待ち続けたアシェルに聖水をかけて飲ませるなんて。
聖水を飲んだのがそのままだばだばと目からあふれて落ちてきた気がした。
「アシェル?アシェルお前、目はどうしたんだ…まさか、そんな…」
悪魔の目に、とディランは言った。ひどい言いようだ。
ディランが小さな手鏡を横たわるおれの顔の前にかざす。
あの人は新緑の若葉みたいな鮮やかな緑の瞳をしていた。
鏡に映るおれの目はかけ離れた色をしていた。
左は赤く、右は黒っぽい。
「アシェル、見えるか?その目ちゃんと見えているか?」
あの透明に思えたぷにゃぷにゃしたものは眼球の一部だったのかな。
おれが頷くと、ディランは良かったと小さく呟いた。
「なんらかの薬の投与で色素が沈着したのか、内部で炎症を起こしているのかもしれません。聖水はしばらく飲んでいただきましょう。別途洗浄のための点眼薬をお出ししましょう」
横からそんな声がした。白い衣の人は医者なのか。
目があうとはじめて表情らしきものが現れた。
なんだか安堵しているような顔だった。
髪も身体も拭かれて、下着と寝巻きも着せられる。運ばれて柔らかい寝台に寝かせられる。
うわぁぁぁ。すごく嫌だ。何も着たくない。人間は服を着るけれど、おれは裸でぬるぬるの溶液の中に浸かりたい。
だめだったら、さっきの身体を洗った場所でもいい。水のある所が良いんだよ。
「ψζΘλφ!!」
「%#@£!!」
服を脱がせてよ!!ディラン!!おれは訴える。
こんなひらひらな寝巻きでも汗を吸ったりして、おれはひからびちゃうよ。びしょびしょのぬるぬるがいいんだよ。
おれの喉からはわけのわからない悲鳴じみた音がもれるだけだった。
「アシェル、辛いのか?もう大丈夫だ。もう何も心配しなくてもいいんだ」
うわぁぁ全然通じてないよ!ディランは何度もおれの頭を撫でた。
疲れの滲んだ顔がゆっくりと近づいてきて、唇が重なった。かさかさの唇だった。
だめだよ、おれが余計に乾いちゃうよ。
おれが必死で舌先でディランの唇をこじ開けて中を探る。舌先で口内をなめまわした。
また息ができなくなって、ディランの舌がおれの口の中に侵入してなけなしの唾液を全部啜って持っていきそうになった。だめぇぇ。吸っちゃだめぇぇ。
皮膚で呼吸ができたらキスで息が苦しくなることなんてないだろうに。
あ、鼻があった。
すんすんと鼻で息を吸い込むと、ディランの唇は離れて、たらりと涎が糸をひく。
拭くなんてもったいない、よこせ。おれは舌を伸ばす。
「アシェル、アシェル…そんなに煽らないでくれ…」
あおる?おれには水分が必要なんだよ…。ひからびちゃうよ、怖いよ。
あ、怖いと思うと目の端に涙が滲んだ。あ、もったいない。引っ込め涙。
「どこか痛いのか?まだ水を飲むか?…蜂蜜水か橙花水を持ってきてもらおうか?」
なにか今、とても魅惑的な響きが聞こえて、おれはかくかくと頷いた。
甘いのかしらん…。
ディランが離れて甘い水をもらいに行っている間、おれは広い部屋に目を向けた。
目は色が違うと言われたけれど、幸い良く見えた。
ベッド、小さな机と椅子。服をかける棚。壁についた鏡。
珍しいものはない。見たことのあるものばかりだった。
壁にさぁ、天使の絵が飾ってあった。
赤い羽の天使と白い羽の天使だった。どちらも美しい顔の天使の足元には黒い蛇みたいなのが苦しげな顔で踏みつけられている。
ひどい絵だ。
もっと愛護の精神を養うべきだよ。
羽の異形を敬うのなら、鱗の異形を同じように大切にしても良いはずなのに。
おれとオウムは連れ出してもらえたけれど、地下室にいたみんなはどうなってしまっただろう。蛇や、魚や、トカゲ達…。あの絵みたいに踏まれてないと良いんだけど…。火は消し止められたんだろうか。
マスターが火をつけたんだろうか。
悲しい。
でもその混乱の間にマスターが逃げられたのだとしたらみんなきっと喜ぶんだろう。
マスターのお役に立てたと言って。
おれは何かマスターの役にたてたのかな?
マスターがいないのにおれはどうすれば良いんだろう。
寂しい。怖い。悲しい。
感情がそちらに傾くと、鼻水が出そうになるみたいだった。だめだ、出ちゃだめだ。ひからびちゃう。
ずりゅっと鼻をすすった。
人間。
憧れていたはずの人間の身体。
思っていたよりずっと重い。勝手に涙は出るし、鼻水もそうだし、なのに口の中は乾いている。
前の方がしっとりしてた。
この身体をどうすれば良いんだろう?
この身体はアシェルのものです、中身は『人工生命体 』のおれです、と言ったらどうなるんだろうか…。
誰かおれをこの身体から抜き出すことのできる者はいるんだろうか?
出されちゃったら器のないおれはどうなっちゃうんだろう?
処分か、蒸発か、昇天か。
このままでいても良いよって言ってくれないかな…。
アシェルがこの身体の中にいて、疲れて眠っているだけかもしれないし。
『アシェル、アシェル、いたら起きてよ、もう大丈夫だって』
おれはまた心の中で呼びかけてみた。返事はない。
「アシェル、蜂蜜水をもらってきたよ」
透明なガラス色の器に琥珀色の液体を入れてディランが戻ってきた。
「蜂蜜は滋養があるし、喉にも良いからな」
そう言ってディランは自分が飲んだ。
え?お前が飲むの?
と思ったらまた唇がくっついて、ちゅるっと口の中に水が入ってきた。
甘かった。
おかしなことに身体が喜んでいるのがわかった。水が口から入って身体の中を巡って行くのがわかる。
すごいな、人間の身体。
「お前が生きていてくれて本当に良かった」
ディランは低い消え入りそうな声で言った。アシェルに向かって言ったんだろうけれど、こうして見つめられて聞くとおれに言ってくれているように思えた。
今だけ、とおれは願う。
身体が治ったらちゃんと返すから。アシェルのことも話すから。
「ずっとそばにいる、安心して眠れ…」
『離さないでくれ、ずっとそばにいてくれ…』
アシェルはうわごとのように言っていた。ディランの今の言葉を聞いたらどんなに喜んだだろうに…そう思ったら胸がきゅうっとした。
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