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第3話

 どうしよう。人間の身体は思ったよりも熱い。  目の前には剥き出しの喉がある。喉頭隆起(こうとうりゅうき)喉仏(アーダームの林檎)、なめらかな肌が少しだけ盛り上がっている。どうしてこれが林檎なんて呼ばれるのかはわからない。  アーダームは神様が地面の土から最初に作った人間らしい。人間が皆土から作られたのならば、おれの前の体とそう変わらない気がするんだけれど、明らかに違う。何もかも違う。熱を持った身体、水をたくさん貯めておける器だ。  あざもなく、皺もない筋肉の流れも鎖骨のくぼみさえ美しい。  神様はこんなに綺麗なものを作れるのに。  どうして醜いものの存在を世界に許したんだろう。    ディランの肌の上をゆっくりと汗が伝い落ちて行く。あれ…暗いのに良く見える。  おれは舌先を伸ばす。届かない。  汗のちっちゃな滴は彼の白いシャツに吸い込まれてしまった。もったいない。  ディランのにおいがする。  おれは胸いっぱいにディランのにおいを吸い込む。  においって、鼻から直接脳味噌に行くんだろう?  もしアシェルがこの身体の中にいたら、においで目が覚めるんじゃないかと思って。  でも何の反応も起きない。アシェルに呼びかけても、返事がない。      ディランは鎧を脱いで、立襟のシャツの首元を緩めておれの横で眠っていた。  おれは眠るディランの喉を見ていた。  彼がこの身体を置いて部屋を出て行かないように監視していた。  身体にまわされた彼の手が熱い。  おれの身体を引き寄せてディランは眠っている。  マスターの冷たい指とは全然違う。  身体に貯めてある水が全部蒸発してしまうのではないかと不安になるぐらい熱かった。  人間の身体はすごく熱い。  布で包んであるし、朝までにおれ、ひからびちゃうんじゃない?  それとも人間は皆こうなの?  離れて寝た方が良かったかな?  無理に引き止めるんじゃなかった…。  ディランは嘘つきだったんだ。「ずっとそばにいる、安心して眠れ…」て言ったのに、ベッドの横に座っておれのこの身体の…つまりはアシェルの指を握っていたのに、おれが目を閉じていくらも経たないうちに手を離した。 「%#@£?」  彼は立ち上がろうとしていた。人間の言うずっと、ってこんな短い時間なの?違うよね?ねぇ、どこに行こうとしたの?そばにいるって言ったのになんで?眠ったらまた離れちゃうんじゃない?  思っている事が言葉にできなかった。  喉の奥が猫みたいにぐぅるぐる鳴る。    伝われ!伝われ!目に力をこめる。  ディラン行っちゃだめだよ。  アシェルが、この身体の正当な持ち主はものすごくディランに会いたがっていたんだから。  あんなに、ずっとそばにいてくれと懇願していたんだから。  ずっとひとりぼっちだったんだから。  おれはぶるぶると震えながら指を伸ばした。人間の腕はなんて重たいんだろう。 「起きていたのか…」  ディランは驚いた表情を浮かべ、次に苦笑しておれの震える腕をベッドに戻し、白髪を撫でた。  不思議な感じだ。  アシェルの髪は金髪だったのに色が抜けて白髪になってしまった。  喜怒哀楽にあてはめるなら、ディランは哀しい顔で、髪に指を絡めた。そのままするりと指から髪が落ちる。  汚れてもつれた部分を切ったから、腰まであった髪は肩を少しこえるぐらいしかない。    『人工生命体(ほむんくるす)』の時、おれには髪がなくてはげちょびんだった。  髪には治癒能力がないし、育毛には栄養が必要だ。切断された四肢を再生するのが一番大事だから、ほむんくるすには毛はない方が効率が良い。  他の体毛もなかった。  まぁ、もともと無いものを生やそうと思って生やせるものでもないので仕方ない。  体毛がないから外気の影響を受けやすくて、傷もつきやすくて、そこは本当にカエルと一緒だった。カエルと一緒な扱いをされるのはすごく嫌だけど。  だって、虫がご飯とか嫌なんだもん…。  そこはね、果物が良いよ。甘いのが良いよ…。  甘いのを食べながら撫でられると、おれは生きてるってすばらしいなぁと思ったものだよ。  例え狭いガラス瓶の中でも。  マスターがおれのことをちっとも好きじゃなくても。  褒められたり撫でられるとすてきな気分になった。  この身体は、人間は髪に神経なんて無いはずなのに、撫でられると…あ、安心した。胸がどきどきするのと安心は正反対なような気もするんだけど。  いたわりの手つきだ。  人間の言葉は難しいよね。人間の手も難しいよね。  いたわり…暴力的な手つきじゃなくて、とても優しい。  千切るのも撫でるのも同じ手でやるのに全然違う。  神様は人間が撫でるしかできないように作ればよかったのに。  そうして撫でて、おれを寝かしつけて、おれが目を閉じてしばらくすると…ディランはまたゆっくりと手を離した。  足音を殺して静かにこの部屋から去ろうとする背中におれは声をかける。 「%#@£?」  彼は振り返る。 「…アシェル、眠っていなかったのか。目をつぶれ、寝なくてはだめだ」  彼は戻って来てさっきと同じように俺を寝かしつけ、結局三度も俺を置いて出て行こうとした。  四度目に彼は諦めたのか根負けしたのか、皮の胸当てみたいな鎧を外し、革靴も脱いで俺の隣に横たわった。  ねぇ、知っているよ。  人間には三度目の正直って言葉があるんでしょう?  一回目や二回目は失敗しても三回目はうまくいくんでしょ?  おれを…ううん、アシェルをこんな暗い場所に置いて行くつもりだったの?  ずっとそばにいてくれるって言うのは嘘だったの? 「…俺がここにいても良いのか?俺がいるとゆっくり休めないだろう?」  おれはすっごくもどかしい気持ちでディランを見つめた。  もし、もしアシェルが目覚めた時にディランが見えなかったらアシェルは失望するだろう。  失望の最上級は何て言うの?  絶望だ。絶望しちゃうよ。 「%#@£…でぃ…ぁ」  おれは声を絞り出した。喉の奥から唇までがぶるぶるする。 「アシェル、わかった、無理をしなくて良いから。俺はここにいるから。無理をしないでくれ、お前の身体はぼろぼろなんだ。寝なくてはだめだ」    ディランはおれの顔中に唇を押し当て、髪がくしゃくしゃにならないようにすいて、背を指先でとんとんと叩いた。  その叩き方はマスターがガラスの瓶を叩くのに似ていた。  おれがガラス瓶の中でうねうねちゃぷちゃぷしていると、だ・ま・れ、う・る・さ・い、って。  マスターごめんなさい。おれ、良い子にします。  おれはしばらくの間はじっとして、動くのをやめる。  マスターが作業するのを眺めてしばらくするとおれの手足は勝手にうにょうにょし始めるんだ。  退屈で、構ってほしくて、寂しくて。  マスターはむっつりとした顔で仕方のないやつだな、と言って俺の手足を千切って水槽の魚達の餌にした。  ぱしゃっと水面を叩く音が聞こえた。競って食べる魚達の尾びれが水面や水槽を叩き数秒の後にはしんとする。  静かになるとマスターは上機嫌で、綺麗な笑顔を浮かべて作業を始める。  おれはぬるぬるの溶液の中に潜る。 『痛いよマスター。良い子にしてるからひどいことしないで。無視しないで…』  きっと後で果物の切れ端をくれる。  良い子でじっとしていたら、後でなでなでしてくれる。  涙も体液も全部ぬるぬるの溶液の中に混じり込む。痛いって悲鳴も寂しいって思いも全部ぬるぬるの中に溶けていく。  良い子にしていたのにマスターは俺を処分して行ってしまった。  思い出すと堰を切ったみたいに涙があふれ出た。  おれは目をぎゅっと閉じて、鼻をすすって水があふれだすのを止めようとした。ひぐひぐとへんな具合に鼻と喉が鳴る。  ああ、ディランが起きちゃった。  ディランは俺の顔を犬みたいに舐め回して、涙を全部舐めとって、身体を少し起こすと蜂蜜水が入った器を取った。口移しで甘い水が身体の中に入ってくる。  流れた涙より多くの水が入って来て、おれの身体が潤っていく。 「ごめんな、アシェル。お前に泣くような辛い思いをさせて。助けるのにこんなに時間がかかって。こんなに傷ついて痩せて…」  アシェルの名前を呼びながらディランは身体を優しく撫で回した。どこも千切れていないアシェルの身体を丹念に撫でた。おれも痛い場所をこんな風に優しく撫でて欲しかった。    アシェルはいいな…。こんなに大事にしてくれる人がいて…。  ディランの鎖骨の窪みに鼻先を埋めて熱い胸に頬を当てる。  ディランの身体はなんて熱いんだろう。  皮膚の一枚向こうで暖炉の炎が燃え盛っているように熱い。  夜が明けるより早くこの熱でおれは溶けてしまうんじゃないかな…。  溶けて全部シーツに吸われちゃうんじゃないかな?  そうしたら再生するおれは何になるんだろう?  アシェルの形になるのかな、それとも、もとのおれの形?  シーツになって綺麗なディランを包んでいるかもしれない。  でもそっちの方がミキサーで刻まれるよりずっと良い終わりのようだと思って目を閉じた。  おれが目を閉じても置いていかないでね。  おれは願うしか出来なかった。

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