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 ―― 至愛(13)

「……伊織」  懐かしい低い声に、名前を呼ばれて胸が震えた。  ……父さん……  そう声に出そうとすれば、体内の血が熱く巡るのを感じる。  伸ばされた手に、触れたい感情が込み上げてくる。  ――違う。この感情は間違っている。  だって、今の僕は、あの頃の僕じゃない。  ――『……なるべく早く帰りますね』  『いいから、ゆっくりしておいで』――  最愛の人の、優しい笑顔が胸を過っていく。  だから、大丈夫。心は迷ったりする筈はない。  巻き付いてくる見えない鎖は、自分の力で解くことが出来る。  繊細な指先が頬につっと触れて、身体は勝手に戦慄き、胸の奥が煩くざわめいた。 「……おかえり、伊織」  ――違う……。  父さんに逢いにきたわけじゃない。  頬に触れた指先が、首筋を伝い下りて肩を掴む。  引き寄せられる力に、僅かに抗い、僕は頭を後ろに引いた。  高い位置にある太陽に顔を照らされて、その光の眩しさに目を眇めた。  ――雨宮先生……。  手を伸ばしてやっと届いた光を、僕は手放したりしない。  ふっと、眩しい太陽の光が父さんの影に遮られて、目の前が陰る。  僕を見下ろす、優しい眼差しと視線が絡んだ。 「……ただいま……、父さん……」  桜並木の遊歩道を両親と手を繋いで散歩したあの頃。  あまりにも人が多すぎて、大人の腰までも身長がない小さな僕は、人の波に揉まれて息苦しくて。そんな時は、父さんが肩車をしてくれた。  夜中に高熱を出した僕を大きな背中に負ぶって、大通りまでしか来てくれない救急車まで走ってくれた。  僕の頭を撫でてくれる、優しくて大きな手。  僕の好きなあの階段から見える景色も、最初に教えてくれたのは父さんだった。  僕は……小さい頃から、父さんが大好きだった。  ______  ――『桜が咲いているうちに、何処か一泊くらいで旅行に行こうか』  ああ……こんなに幸せでいいのかな。  幸せ過ぎて、怖いんだ。 『じゃあ、何処に行くか考えておくから、伊織も考えておくんだよ』  ――いいね?  そして、恋人は僕の唇を甘く啄むように口付ける。  ――怖いほど幸福なのは、失ってしまう怖さも知ってるから。  教授が好き。  雨宮 侑を、誰よりも愛してるから……、大丈夫。  その想いがあるのだから、  縺れた鎖は、自分で解いて自由になれる。  『ESCAPE』 end / + to be continued → →

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