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 ―― 至愛(12)

『伊織、今どこにいる?』 「前に住んでた僕の家の……今、駅に向かう階段の途中だよ、慎矢」 『あ~、そっかぁ』  慎矢の返事が、ちょっとがっかりしたような溜息と共に聞こえてきて、口元が緩んでしまう。 「どうかした?」 『俺、早くに着いちゃって、今、先生のマンションの近くまで来ちゃってるんだけど、花でも買っていった方が良いかなって思って』  ――ひとりじゃ、なんか花屋なんて照れ臭くて……と続いた、本当に照れくさそうな慎矢の声に、ちょっと笑い声が漏れそうになった。 「なんで花なの? 花屋さんに可愛い子でもいるわけ?」  からかうように言うと、分かりやすいくらいに電話の向こうの声が焦っていた。 『ばっ、バカ! 違うってば。 ほら、先生は俺逹の就職や進学祝いって言ってくれてるけど、先生だって秋に結婚するんだし、お祝いにどうかなって……』 「先生、男なのに花なんて喜ぶかな……。どうしてもその花屋に行きたいんだね? 慎矢は」 『なっ!? そんなんじゃないって!』  真面目な声で返した僕の言葉に、電話の向こうで更に慌てて真っ赤になっている慎矢の顔が目に浮かぶようだ。 「分かった、分かった。じゃあ、適当に買っておいてよ。僕も今からすぐに電車に……」  そこまで言った時だった、下から階段を上ってくる人に気付いたのは。 「……あ……」 『……どうした、伊織?』  僕がいきなり言葉を途切らせたから、慎矢が不思議そうに問いかけてくる。  その声が、やけに小さく遠退いていく気がした。  ――どうして……  出掛ける時はいつも後ろに流している前髪が、ナチュラルに下ろされていて、目にかかるくらいに伸びている。  ゆっくりと階段を上がって来るその人は、神経質そうに繊細な指先で前髪を掻き上げた。  僕を見上げてくる眼差しに、身体が凍り付いたように動かない。 『――おーい、伊織? 聞こえてる?』  耳に、慎矢の声が小さく届く。 「……あ……、うん、聞こえてる……。すぐに電車に乗るから、先に行ってて」 『……え? もしもし……』  僕の視線は階段を上がってくるその人に釘付けになっていて、無意識に指が通話を切ってしまい、何か言いかけていた慎矢の声が途中で途切れた。  あの家が取り壊されると決まってから、もう随分と日にちは経っている筈だった。  だから、このタイミングで逢うなんて思ってもみなかった。  こんな偶然があるなんて。  その人は、驚く様子もなく、まっすぐに此方へ距離を縮めてきた。  目の前の景色が、まるで高速で巻き戻されていくような錯覚がする。

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