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【1】

 この世界の中心であるヘブンズタワーから放射線状に広がる街並み。そこから伸びる道路はどこまで行っても果てがない。昼夜関係なく眩い光に照らされたその世界には、数えきれないほどの人々が暮らし、生まれ変わることを願いながら日々生活している。  災害も争いもない理想郷と謳われるこの場所は、人間が足を踏み入れることは出来ない。なぜなら、ここは与えられた生命を全うし、神に選ばれた者だけが住むことを許される天国だから――。  ヘブンズイースト5thアベニュー。そのメインストリートから外れた狭い路地沿いに『ダズルランドリーサービス』がある。 「おはようございます!」  木製の扉を勢いよく開いたミチは、背後でガタッと蝶番が外れる音を耳にして身を強張らせた。窓際のデスクでタブレットに目を落としていた社長であるシファが、別段驚く様子もなくのんびりと顔をあげた。 「おはよう、ミチ。君は何回、そのドアを壊せば気が済むんだ? ここにきて5436回目だぞ」 「ミチさん、記録更新ですね」  同じスタッフであるマナが、綺麗に巻かれた長い髪を揺らしながら茶化すように笑う。そんな彼女に恨めしげな視線を向けながら、ミチは自分のデスクに向かった。積み重ねられたファイル、未読の回覧書類。眠っている間に減っていることを願って出社するが、その数も光景も昨日とまったく変わってはいない。  小さくため息をついたミチに湯気の立ったコーヒーが差し出される。マナはトレーを胸に抱きしめながら、わずかに身を屈めてミチの耳元に顔を寄せた。 「新規の依頼が入ったようですよ。シファ社長からお話があると思います」 「え? やっとこっちに帰ってきたと思ったら、また依頼? 報告書もまだあげてないのに……」 「丁寧、親切、スピーディー。ミチさんほど完璧に仕事をこなすスタッフはいませんから。だから、社長も安心して頼めるのだと思います」  マナが顔を上げてチラリと窓際のデスクを見る。その視線に気づいたのか、シファはタブレットから視線をあげ満面の笑みを浮かべた。  長身でスタイルが良く、スリーピースのスーツを着こなしてはいるが、柔らかい栗色の髪についた寝癖を直してきたためしがない。緩くウェーブした長い前髪は、いつも一筋だけ丸みのあるシルバーフレームの眼鏡にかかっている。レンズの奥にある薄いブルーの瞳は穏やかで、彼がいるだけでほんわかとした気持ちになるから不思議だ。見た目は三十代から四十代と推測されるが、彼の年齢は誰も知らない。黙っていれば端正な顔立ちが際立つイケオジだが、口を開けばそのユルさに誰もが脱力する。 「――そういうわけだから。ミチ、よろしくね」  マナとの会話を聞いていたのか、彼は片手をヒラヒラと揺らしながら笑っている。 「社長、俺を過労死させるつもりですか?」 「ん~? もう死んでるから、これ以上死ぬことはないよ。この前の報告書はいつでもいいからね。でも、今回はちょっと頑張ってもらわないといけないかも。いろんな意味でね」  毎回頑張ってるよ……そう言いかけて、ミチはその言葉を黙って呑み込んだ。シファがミチに対して絶対的な信頼を寄せ、仕事を任せてくれるのは正直嬉しい。しかし、回を重ねるごとにそのハードルは確実に上がっている。この会社――ダズルランドリーサービスには、ミチを含め五名のスタッフがいる。業界内では小規模――いや弱小と言われてもおかしくないが、その実績と信頼度は他の中堅企業とは比べ物にならない。この世界を統べる天界庁の上層部から直接依頼が来るのは、この街に溢れるクリーニングサービス業の中でも数が限られている。ゆるキャラ社長のシファが、天界庁とどういう繋がりを持っているか未だに不明だが、上層部がこの世界で有益になると思われる者だけをピックアップし、その魂の『洗濯』を依頼する。そう――ダズルランドリーサービスは、その仕事を担う魂の洗濯屋なのだ。  ヘブンズイーストにあるビジネス街には、クリーニングサービス企業が乱立している。その数は天界庁しか分からない。誰でも起業することは出来るが、扱うものがものだけに厳しい審査を通らなければ経営権は与えられないようだ。  人間は現世での生命を全うすると、天界と地獄という二つの世界への道が用意されている。生きている間に人望に恵まれ、善行を積んだ者はおのずと天界への切符が渡される。しかし、人間界の弱みにつけこんで闇へと誘う下級悪魔に魅入られた者は、有無をいわさず地獄へと堕ちる。じつに理にかなったシステムではあるが、なかには自分が意図しないうちに自死を選ぶ者も少なくない。最愛の人と離別したり、社運を賭けたプロジェクトが失敗して責任を負ったり。真っ当な意見を発したにも関わらず、周囲の人たちからの誹謗中傷に耐えきれず。はたまた、クラスメイトからのいじめに悩んで……。与えられた命を途中で断つことは、すべてを放棄してしまうことと同じ。つまり、生まれ変わる権利も剥奪されてしまう。その魂は、天界と地獄の間にある『無』の空間で永遠に闇を彷徨い続け、いつ果てるとも分からない苦しみを味わう。  彼らの魂は皆が皆、悪魔に魅入られているわけではない。苦痛からの解放を条件に悪魔と取引する者も少なくないが、もとは穢れのなかった魂を天界に引き上げる救済措置として発足したのがこのサービスだ。企業に所属するスタッフのほとんどが救済された者だと聞く。与えられた生命を全うし天使となった者は、自分が救われたように、余命が明確になった人間を救う。依頼の際、その期間はスタッフに明かされない。長い時もあればあっという間ということもある。その限られた時間内でどれだけ魂を救えるかが、スタッフの力量にかかっている。  ダズルランドリーサービスのように少々特殊な案件を扱う会社以外は、スタッフを大勢抱える大企業が率先して動く。そうでなければ、世界中の死者の魂を救うことは出来ないからだ。 「アジア圏――特に、日本を任せられるのはミチだけなんだよ。いつも通り、日本支社に頼ってくれればいいから。必要なものは全部用意してくれる。戸籍に身分証明、住む場所や車、スマホも……」 「はいはい。分かってます」 「話が早いなぁ。じゃあ、データを送っておくから目を通しておいてね。クライエントとの接触は早い方がいいなぁ……」 「それって……余命が短いってことですか?」 「それは俺も分からない。なにせ天界庁(うえ)からの指示だから……」 「そうですよね……」  ミチは自分がどんな人間だったのか知らない。日本人であったことは間違いようだが、どうやってここに来たのかまったく覚えていない。白いシャツとパンツを身に着け、光に包まれた長い廊下を大勢の人たちと共に歩いていた。そこにはいろんな言語が溢れていたが、不思議とすべて聞き取ることが出来た。そして、突き当たりの開けた空間に出たミチは、そこにいたスタッフにいくつかの書類を手渡され、ヘブンズタワーの一画にある『職業紹介所』の相談カウンターに並んだ。自分の特性に合ったクリーニング企業を紹介してもらうためだ。  何を考えるでも、自分の意思で選ぶこともない。ここでミチに与えられた仕事は魂の洗濯だった。そんなミチに声をかけてきたのがシファだった。寝癖のついた髪を撫でながらミチの顔をまじまじと覗き込んだ彼は、まるで探し続けていた人物に出会えたかのように安堵し、並んでいる彼の腕を掴んで引き抜いた。その瞬間、ミチが手にしていた書類の空欄に『ダズルランドリーサービス』と明記され、管理者であるシファの証明印が押された。それがシファとの出会いだった。そして、自身が『ミチ』という名前であることを知った。  あの時、職業紹介所には人が溢れていた。その中で、偶然見かけたミチを――初対面で、何も知らない人物を自身の会社のスタッフとして安易に雇い入れるだろうかという不信感もあった。しかし、彼のもとで働くスタッフは皆、才能に溢れている。彼には、各々が持つ特性や才能を見抜く力があるのだと思う。もしも、シファに声をかけられなかったら、今頃は大企業で淡々とノルマをこなしていたに違いない。  生きがい――死んだ人間がこういうのもおかしな話だが、ミチはこの世界で自分の居場所を確立していた。 「――あぁ、一つ言い忘れた!」 「何です?」 「こっちに戻るときは、お土産よろしくね。経費で落とせるようにしておくから……。あっちで流行ってるスイーツ、いっぱい買ってきて」 「は?」  さりげなく土産を強請るシファに、ミチもマナも呆れて言葉を失った。彼の甘い物好きは今に始まったことではない。スタッフが人間界に出張する際は必ず現地のスイーツを買ってくるように指示を出す。しかも、それを経費で落としてしまうあたり、ユルい見かけによらず自己中心的なところがある。天界庁からの特殊な依頼は報酬額も大きい。経費でスイーツを大量に買うぐらい微々たるものではあるが、それが毎回となってくるとスタッフの方も気苦労が絶えない。 「社長、体を壊しますよ。それに、持ち込まれる方の身にもなってください」  マナが怒気を孕んだ声で言った。急に怒り出した彼女に何があったのかと、ミチは固唾を呑んで見守った。 「壊れないから大丈夫。仕事して頭を使うと糖分が欲しくなるんだよね。マナもカリカリしてないで甘い物食べたら? 我慢するのって、もっと体に悪いよねぇ」 「結構ですっ」  ここのところ、スタッフルームに持ち込まれるスイーツをシファと一緒に食べていたマナが「太った」と嘆いたことを思い出し、ミチはムッとしたまま背を向けた彼女に同情した。彼女は先日『スイーツ断食』なるものを敢行することを公言していた。それをすっかり忘れているのか、それともマナの決意を揺るがすためか。シファは悪びれる様子もなくミチに「よろしくぅ」とウィンクすると、マナの怒りをかわすようにフロアを出て行った。  自分の仕事の傍ら、シファの秘書も務めているマナ。こうやってつまらないことで衝突することは多々あるが、すぐに和解する。それは、互いを認め合い、何よりも信頼している証拠だ。  それはマナだけじゃない。ここにいるスタッフ全員に言えることだ。この世界に迎えられた数えきれないほどの魂の中からシファに選ばれた精鋭。仕事を託されるのは、その人でなければならない理由があるからだ。 「――もうっ。ミチさん、お土産は私に買ってきてくださいね。社長には絶対にあげないんだからっ」  鼻息荒くそう呟いたマナの言葉で、冷えかけていたフロアの空気がふわりと柔らかいものへと変わった。二人の動向を見守っていたミチは、知らずのうちに眉間に寄っていた皺を指先で伸ばすと、堪えきれず笑みを浮かべた。 「分かった。社長にバレないようにマナの分を買ってくるよ。もちろん、経費で……」 「やったぁ! 楽しみに待ってま~す」  さっきの不機嫌な顔はどこへやら、パッと明るく笑顔を見せたマナに苦笑いを浮かべたミチは、自身のノートパソコンに目を向けた。シファからのメールを受信したことを告げるアイコンが点滅している。それにカーソルを合わせクリックしてメールを開いた。いつも以上に細かいデータ、指示事項も多い。それを手持ちのタブレットに転送させると、ミチは大きく息を吐いた。  いつも通りの慣れた仕事。それなのに、胸騒ぎがする。それは、データに書かれていたクライエントの名前を目にしてから、より顕著なものへと変わった。  野崎(のざき)英慈(えいじ)。天界庁上層部に選ばれた人間。その理由は――。  依頼人の真意を探ることは、クリーニング業界では禁忌とされている。それは十分すぎるほど分かっているはずなのに、なぜだか気になって仕方がない。こんなことはミチにとって初めてのことだった。  彼はどんな特殊な力を持っているのだろう。上層部がこの世界で有益だと認めた特別な人間。でも、その命は残り少ない。  彼の心の傷を癒し、魂を輝かせることが出来れば、その謎はすべて解ける。  ミチはいつになく使命感に燃えていた。ほんの些細な興味。それがだんだんと膨らんでいくのが分かった。 「必ず……。あなたの魂をキレイにしてあげます」  彼の背中で白い翼が揺れた。意欲と同時に、記憶の片隅で今朝の夢が蘇る。心に翳りを落とすその正体に自ら触れることになるとは、今のミチには予想も出来なかった。

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