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【4】

 スマートフォンの写真データをスクロールしていた英慈の指が止まった。そして、ため息をつきながら首を傾けるという仕草を、かれこれ三十分近く繰り返している。 「分からないんだ……。拡大してもぼやけて……」  英慈が住むマンションは築十年と年数は経っているが、リノベーションにより快適な住空間となっている。1DKではあるが、部屋が従来よりも広く設計されているお陰で長身の英慈でも窮屈感は感じない。それに、大雑把で粗野な性格かと思いきや掃除も行き届き、男の一人暮らしとは思えないほど片づけもきちんとなされている。  ミチは座っていたソファから腰を浮かし、彼の手もとを覗きこんだ。そこには無邪気に笑う青年の写真が何枚も表示されていた。今から三年前――当時、二十二歳だった寺坂真路は今、彼のスマートフォンのデータの中で生きている。無表情なことが多く、感情をあまり表に出さない英慈もその写真の中では真路とともに笑っていた。  明るい栗色の髪、何にでも興味を抱きそうな大きな瞳。大学四年生にしては幼い顔つきではあるが、快活であったことは一目瞭然だ。しかし、それを見つめていた英慈は、故人を懐かしむというよりも訝るような表情を浮かべたままだ。  先程から何度も画面に指を滑らせてピンチしている。仕舞いには「やっぱりダメだ」と呟いて、スマートフォンをテーブルに投げ出してしまった。 「葬儀が終わってアイツの遺影を見たら、顔の部分だけがぼやけてて……。あれから、何を見ても真路の顔が分からなくなった。病院に行ったら、心因性の相貌失認症だって言われた」 「それは、真路さんだけなの?」 「あぁ……。他の人はちゃんと認識してる」  それはミチも身をもって確認している。ドラッグストアの通用口で待ち伏せていたミチを見た瞬間、露骨に嫌悪感を示した英慈の顔は未だに覚えている。失顔症は、脳の障害によって人の顔を覚えることが出来ず、個人の識別が難しくなる病気だ。だが、英慈の場合はその症状と少し異なっていた。人間の顔がみな同じに見えるという一般的な症状ではなく、特定の人物――真路に関してだけ輪郭が曖昧になりぼやけてしまう。医師の話では、幼いころから一緒にいた幼馴染を事故で亡くしたショックが一因となり、脳がその人物だけを認識しづらくさせてしまったのだという。心因性ということもあり、ストレスがなくなることで回復する可能性もあるが、それがいつになるかは分からない。  人間は亡くなった相手の声を一番最初に忘れるというが、英慈の中では声よりもその姿を思い出すことが困難になっていた。彼の記憶の中だけに生き続ける真路。でも、その顔を写真で振り返ろうにも、本当に彼であったかどうか確信が持てない。 「まったく思い出せないの?」 「雰囲気だけは覚えてる。でも……顔が分からなくなってからは、その記憶も曖昧になっていて」  ショックを回避し自己防衛するために、起こった事件やその人物の記憶を脳内から排除するという話はよく耳にするが、英慈の場合はそれとも違う。むしろ思い出したくて仕方がないのに、彼の記憶からどんどん遠ざかっていく。 「殺した――ってのは、まんざら嘘じゃない。記憶の中にある真路を存在しなかったことにしてる。死んだ者にとって忘れられることが一番つらいって……お前、言ってたよな。それ聞いて、俺は幼馴染失格だって思った。小さい頃からずっと一緒にいたアイツを記憶から抹消しようとしてるなんて……最低だよな」 「でも、それは意図的じゃないでしょう? 野崎さんは思い出そうと努力してるわけだし、記憶から消そうだなんて思ってない……」 「――本当にこの世界に存在していたのかなって、時々思うことがある。一緒に遊んだことも、学校でふざけ合ったことも、全部俺の妄想だったんじゃないかって……。実在しない人間を、ゲームみたいに勝手に動かして満足していただけなんじゃないか。事故死したことも、俺が設定したことだったんじゃないかって……」 「バカなことを言わないでください。俺の調査によれば、真路さんはちゃんとこの世界に存在していたし、あなたの幼馴染でした。なかには、架空の人物の死に心を痛める方もいらっしゃいますが、あなたはそんなに繊細ではないでしょ? この前だってゴキブリを容赦なく追いかけ回していましたし……」  あの公園での出来事からすでに十日が経っていた。ミチがこの部屋を訪れたのは初めてのことではない。英慈と会う機会を増やし、少しずつ距離を縮めていった。勢いで自身が天使であるとカミングアウトしてしまったミチだったが、英慈は未だに半信半疑なようで、彼の話を時々「はいはい」と聞き流すこともあった。  バツが悪そうに苦笑いを浮かべた英慈は、テーブルの上のグラスに手を伸ばすとそれを口元に運んだ。水滴がついたグラスの中には水出しコーヒーが注がれている。店で出されるものより少し濃い目に抽出するのが彼の拘りらしい。男らしい喉仏が上下に動くのを見るともなしに見ていたミチだったが、ソファに背筋を伸ばして座り直すと英慈の方を真っ直ぐ見つめた。 「――あなたの中にある真路さんのこと、聞かせていただけませんか?」  チラリとわずかに視線を上げてミチを見た英慈は、グラスをテーブルに置くとしばらくの間黙り込んでしまった。まだ核心に迫るのは早かったか……と後悔したが、口に出したことはもう戻らない。英慈がミチに対して少しずつではあるが心を開き始めているのは分かる。だが、土足で乱暴に乗り込めば誰でも委縮し、遠ざかってしまう。見極めが難しいところだが、ミチもそうのんびりとはしていられない。英慈の命の期限は確実に近づいている。 「何を聞きたいんだ?」  先程とは打って変わり、鋭い口調で応えた英慈に緊張感が走る。それでもミチは怯むことなく続けた。 「幼馴染であった真路さんは、あなたにとってどんな人物だったのか。一緒にいて楽しかったこと、嬉しかったこと。なかにはムカつくこともあったと思います。断片的でもいい。一番思い出に残っている事でもいい。何でもいいので聞かせてくれませんか」 「それを聞いて何になるんだ? そんなことで魂の洗濯とやらが出来るのか?」 「洗濯をする時、まず手段や方法を考えますよね。汚れがひどい物は別にするとか、取り扱いが難しいものはクリーニングに出すとか。あと、洗剤を変えたり洗う時間を変えたり……。それと同じなんです。魂の汚れ具合を精査し、最適なクリーニングを施す。至らないところがあれば何度もやり直す。それが俺の仕事です」  英慈は腑に落ちないという顔で、何度も首を傾けている。そして、ミチの顔を覗き込むように体を屈めると難しい顔で問うた。 「それって、全自動になんないの?」  予想外の質問に驚いたミチは、しばし言葉を失った。今まで何人ものクライエントに関わってきたが、こういうことを聞かれるのは初めてだった。どう答えようかミチが考えあぐねていると、コーヒーのグラスがそっと差し出された。 「あ……ありがとう」 「天使のお前でもわからないこと、あるんだな」  遠慮がちにグラスを口元に運んだミチは、上目使いで英慈を見つめた。雑味のないクリアな苦味が口の中に広がる。まるで、その答えをハッキリ出せずにいるミチを責めているみたいだ。この業界にも決まりごとはある。クライエントの質問に、答えられることとそうでないことがある。どこまで話していいという具体的な縛りはないが、担当者の采配に委ねられている。最初は無関心だった英慈の目がいつになく輝き、期待を込めた眼差しでミチを見つめていた。最初に出会った時とはまるで違うその輝きに、ミチはコクリと小さく息を呑むと、緊張で乾いた唇を舌先で湿らせた。 「――全自動という言い方はしませんが、魂には人間のからだと同じ自然治癒作用というものがあって、何らかの困難や憂いに直面しても自分の力で傷を癒し立ち直ることができるんです。そういった魂をサポートし、随時見守っている選任者がいますから。世界中の人間の魂を管理するにはかなりの労力が必要となりますが、エリア別に割り振られているので負担は軽減されています」 「へぇ……。ブラック企業ってわけでもないんだな」 「いたってホワイトです。でも、当社はちょっと人使いが荒いというか……。まあ、特殊な案件を請け負う会社なので仕方がないのかな……と」 「特殊ねぇ。――その選別基準って何なの?」  ぐっと身を乗り出した英慈は、ミチの上着の襟元を掴むと眉間に深い皺を刻んだまま掠れた声で問うた。つい数秒前まで冷静に話していたと思えば、急に苛立ちを露わにする。英慈の不安定な精神状態が垣間見えるその行動に、ミチは唇を噛んだままそれを見守った。 「俺は特別で……真路は遠くで見守られていただけ。同じ人間なのに、どうして違うんだ? 真路だって苦しんでいたはずなんだ。それなのに天使の手は差し伸べられることはなかった。アイツの魂は……ちゃんと天に召されたのか?」  ギラリと光った彼の野性味のある瞳から目が話せない。ミチは気持ちを落ち着かせるべく、何度か深い呼吸を繰り返すと言葉を選ぶように口を開いた。 「悪魔に……魅入られた者でなければ、天界の門は万人に開きます。彼の場合、自死ではないのでおそらく大丈夫かと」 「悪魔?――ある意味、あの男も悪魔と同等かもしれないな」  力なく笑いミチの襟元から手を落とした英慈は、うつむき加減のままやるせなさそうに前髪をかきあげた。一度は上がったボルテージが一気に下降する。ここ数日、英慈の感情によくみられる症状だ。こういう時はあらぬ刺激を与えない方がいい。そう分かっていたのに、ミチは彼の口から出たある男のその存在が気になった。 「あの男って……?」  今度はミチが身を乗り出す番だった。長い前髪の隙間からミチを見た英慈の目がスッと細められる。その瞬間、彼の魂が憎悪を抱いた。ハッとしたミチは咄嗟に彼の二の腕を掴んでいた。負の感情が大きくなれば、傷ついた魂はその闇を取り込んでしまうからだ。 「ミチ……?」  薄っすらと汗ばんだ彼のシャツがエアコンに冷やされ、ミチの掌をヒヤリとさせる。指が食い込むほど強く掴んだせいで、シャツには不自然な皺が出来ていた。それに気づいたミチは慌てて手を離した。 「あっ、すいません。あの……その男のこと、詳しく教えてください。真路さんの死に何か関係があるのかもしれない」  しかし英慈は、応える代わりに小さく首を横に振った。そして、訝るように見つめるミチの顔を見ることなく、ボソリと呟いた。 「真路のこと、いろいろ調べてるんだろ? それならいずれわかる……。でも、関わらないほうがいい」 「それって……真路さんとその男の間に何かあったってことですか? 野崎さんっ」  前に出た勢いでミチの腕がガラステーブルにぶつかる。ガチャンという音とともにグラスの中で黒い液体が揺れ、飛び散った滴が真路の調査資料を汚した。慌てて持ち上げた紙の上を黒い滴が流れていく。明るい部屋、それなのにやけに黒々として、まるで時間が経過した血液のように見えミチはゾッとした。 「――天界にも魂の選別ってのがあるとしたら。あの男はどんな手段を使うだろう。生きている人間、誰もが善良とは言わないけど。いつこの世界から消えるともわからずに、与えられた生を日々過ごしてる。誰かと出会い、互いに喜び悲しみ、苦労をともにしてそれが幸せだと思える日常。俺も真路も……それが普通で、定められた運命だと思ってた。でも、あの男はその運命を捩じ曲げて、多くの人々に苦痛を与え、悲しみのどん底に突き落としてきた。地獄に落ちるはずのアイツの魂が、のうのうと天界に召されるのかと思うとやりきれない」 「そんなことは絶対にありません!」  英慈の言葉を遮るように、ミチは強い口調で声をあげた。その声に驚いたのか、英慈はわずかに目を見開いたまま、のそりと顔をあげた。 「万人に開かれているとはいえ、悪人も同じように受け入れられるとは限りません。天界では魂の審査があります。古代エジプト神話では『真実の羽根』と死者の心臓を天秤にかけ、その羽根と同等または軽ければオシリス神のもとに導かれると言われています。それも、あながち間違いではなく、犯した罪が重ければ重いほど天秤は傾く――つまり、天界の審査対象から外れていきます。でも、誰かのために罪を犯したとか、誰かを庇って罪を償った者は人間界でそう判決が下されたとしても、魂は真実しか語りません。だから、嘘は通用しない……」  ミチは肩を上下させて大きく息を吐くと、一度だけ瞬きをして英慈を真っ直ぐ見つめた。 「――あなたは真路さんを『殺した』という。でも、その真偽は魂がすべてを語ります。口先でなら何とでも言える。自身にそう言い聞かせることで、贖罪したつもりになっている人たちは大勢います。ですが、蓋を開けてみればその多くは偽善や同情。一番大切なのは保身……」 「違うっ!」  英慈は鋭く声をあげ、ミチを真正面から挑むように睨みつけた。 「俺の……真路に対する思いは偽善や同情なんかじゃない。俺は……守るって約束した。初めてアイツにあった時、なぜだか分からないけど俺が守らなきゃ……って思った。自由奔放で、他人の世話になることが嫌いだったアイツは、俺の知らないところで苦しんでいた。どうして気づいてやれなかったんだろう……なぜ、もっと早く手を掴んでやれなかったんだろうって……。あの男を殺してでも、真路を……」 「随分と物騒なことを言いますね。安易に人を殺めるなんて口に出してはいけませんよ」 「お前に何が分かる……。俺には……真路しか、いなかった。アイツが死んだとき、半身が削ぎ落とされたような気がした。そばにいることが当たり前で、それが与えられた生の一部――日常なんて簡単な言葉で片付けられないほど……」  苦しげに胸元を掴みながら声を震わせる英慈の姿に、ミチもまた息苦しさを感じていた。英慈の魂が悲しみに満ち、傷ついた場所がまた大きく広がっていく。今まで、これほどクライエントの魂と同調することはなかった。英慈の迷いや苦しみ、時に怒りや憎しみまで手に取るようにミチの体に入ってくる。その度に、あの夢が脳裏をかすめる。 「――運命の人、ですか」 「俺たちは離れちゃいけない。初めて会った時にどことなく懐かしさを感じたのは、前世もその前も……ずっとずっと一緒だったから。何度も生まれ変わって、この広い世界の中で互いを探して……巡り合って来たんだと思う。だから……また、アイツには逢える気がしてる。でも――」 「でも?」 「俺は……結局、アイツを守ることが出来なかった。こんなにも……しているのに」  英慈の苦しげな吐露はいつしか嗚咽に変わり、最後の方はそばにいるミチにもハッキリと聞き取ることが出来なかった。ラグマットを手繰り寄せるように握られた英慈の拳の上に、透明の滴がいくつも降り注いだ。広い背中を震わせて泣く英慈の肩にそっと手をのせたミチは、張り裂けそうなほど痛む自身の胸の内をひた隠しながら気丈な声で言った。 「今度生まれ変わったら、謝るのをやめたらどうですか?」  ミチの声に、睫毛を濡らした英慈が視線を上げた。 「もっと他に言うことがあるんじゃないですか? それを言わなかったから、あなたは毎回後悔してる……。真路さんが待っているのは謝罪なんかじゃない。本当にあなたの口から聞きたいのは……」  言いかけてふと言葉を切ったのは、その先の言葉がどうしても出てこなかったからだ。頭では分かっている。でも、それを安易に口にしていいのかと躊躇う。英慈の真路に対する想いは、ただの幼馴染という枠を超えている。それは、彼の言動から察するに一目瞭然だった。しかし、真路の方はどうだったのだろう。何も知らない者に対して、一方的に運命だの生まれ変わりだのと言ったところで現実味のない話だと鼻で笑われるだろう。逆に気味の悪いやつだと距離を置こうとするのが人間の常だ。この事に関しては英慈にとってセンシティブな部分であり、他人が迂闊に踏み込んではいけないような気がして、ミチは言葉を濁したままやり過ごした。 「――とにかく。俺は真路さんの魂の行方を捜してみます。天界に保管されていると分かれば、野崎さんだって安心できるでしょ? あと……真路さんと関係があったと思われるその男について、少し調べてみます。あぁ……安心して下さい。野崎さんが心配するほど、俺……ヤワじゃないんで。相手は人間ですよ? 天使に勝てると思いますか?」  自信ありげに薄い胸を張ってみせたミチだったが、先ほどから心を揺らす仄暗いモノの存在に気づいていた。これは警告なのだろうか。それとも……パンドラの入口なのか。知ってはいけないこと、踏み込んではいけない場所(エリア)……。いずれにしても、それを恐れていては英慈の魂は救えない。 「――無茶だけは、すんなよ」  英慈は再び俯き、掠れた声で言った。その声は今にも消えてしまいそうなほどか細く、弱々しいものだった。彼が本来持っていたであろう自信と勇気、そして誰かを思いやる気持ち。それを取り戻さなければ、彼の魂は二度と光り輝くことはない。いつか、魂の中に隠された真実を、力強い声で聞かせてほしい。たとえそれが、この世界に存在しない片想いの幼馴染にあてた言葉だったとしても……。

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