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【5】

 魂に再び光を与えるためには、クライエントが負った心の傷を原因を探し出し、それを良い形で『受け入れる』ようにしなければならない。一度起きてしまった事象はもとに戻すことは出来ない。ならば、それを自身に言い聞かせて納得させるしかないのだ。ミチの立場上、今はそれをサポートすることしか出来ない。結局は英慈の努力に委ねるしかないのだが、協力は惜しまずにするのがミチのやり方だった。  彼の言う『運命の人』のことを、もっと知りたくなった。  この世界に生を受けた瞬間から発動する『運命』は、その人の気持ち次第でいくらでも変えられる。しかし、悪い方へと転がる可能性もないわけではない。もしも、生まれ変わる前から英慈と真路の魂が呼び合っていたとしたら、出会った時点でその運命は変化を始めていく。このまま何事もなく平穏な日常を過ごし、互いの想いを通わせハッピーエンドで終末を迎える――でも、それが絶対正しいとは言えない。楽しみや快楽を知ると同じように、苦痛や悲哀を経験することで、その魂はより輝き強くなっていく。次に生まれ変わる時、それが正義感や優しさ、誠実さへと変換され、また違った人生を送るようになる。  人は死んでもすべてを失うわけではない。『無』にならない以上、魂の成長は果てしなく続いていく。事実、真路を失ってもあとを追わなかった英慈は、それまでに培った魂の強さに救われたといっても過言ではない。だから、闇を宿す寸前まで傷ついても自我を失わずにいるのだろう。  ミチは天界庁があるヘブンズタワーを横目に、長い大理石の階段を上っていた。高低差のある場所に建てられた天界庁直轄の管理事務所。他の施設には標準的に設置されている昇降設備がここにはない。安易に人を近寄らせないためだとか、セキュリティを考慮したためとか諸説あるが、とにかくこの階段を上り切るまでにかなりの時間を要する。天使ゆえの翼はあるが、基本的に緊急時以外使う者はいない。分厚いガラス張りの豪奢な建物を見上げ、ミチは小さく息をついた。運動不足であることはないが、革靴で挑むには少しツラい。ふくらはぎに疲労を感じて、次回こそはスニーカーで来ようと決意する。それなのに、毎回スーツと革靴で来てしまう自分に呆れることしか出来なかった。  木製の大きな扉を押し開けると、正面に長いカウンターがある。そこに一定の距離を保ちながら座る女性スタッフに近づくと、ミチは胸ポケットから身分証明書を取り出した。それをスタッフの一人に差し出すと、笑顔で応えてくれる。 「ダズルランドリーサービスのミチです。資料の閲覧に来ました」 「ご利用方法はもうお分かりですね? 持ち出し、コピー、撮影も厳禁です。あと、エリア外での閲覧も禁止されています。手荷物はロッカーでお預かりします」  ミチは、今までに何度もこの場所に足を運んでいる。ここは天界に迎えられた者たちのデータが保管されている。魂自体はタワー内の特別な場所で厳重に保管されていると聞くが、その場所を知る者はいない。亡くなった年代ごとに仕分けされた名簿の数は膨大で、何のあてもなく探すとなるとこれまた膨大な時間を必要とする。しかし、閲覧時間は決められており、限られた時間内にしかデータを見ることは出来ない。幸い、ミチの案件はみな死亡時期が明確になっていることが多く、まだ途方に暮れたことはなかった。  管理事務所の隣に併用されている閲覧室は、天井まである大きなガラス窓から光が降り注ぎ、明るく開放的な空間だ。以前は紙で編纂されていた資料も、今はすべてデータ化されてタブレットで簡単に検索できるようになっている。かなり古い物に関しては、まだ紙のまま残されている物が多く、別室の保管庫で光を遮断し温度管理も徹底して行われているらしい。ミチはその部屋に足を踏み入れたことはなかったが、時折そこに出入りする天界庁の役人を見かける。おそらく、彼がそこの管理を任されているのだろう。いつもカードキーを片手に、眉間に深い皺を刻みながら首を傾げては難しい顔をしている。  カウンターで渡されたタブレットを手に、閲覧室に設けられた机に向かう。あらかじめ手荷物を預けてあるのでメモをとることは出来ないが、一人分ぐらいのデータならじゅうぶん頭に詰め込める。椅子に座りながらネクタイのノットを緩めたミチは、タブレットの電源を入れ真路が亡くなった日付を入力した。三年前のあの日、世界中で亡くなった人は十万人弱。その中で『日本』を選択し、指先でスクロールしていく。まだ、亡くなった者の氏名が分かるだけ有り難い。案件によっては、亡くなった時期も名前も分からない相手を探す場合も少なくない。つい先日も、同僚であるヨウが苦戦していたことを思い出す。彼はインテリでプライドが高そうに見えるが、じつは誰よりも努力を惜しまない。しかし、それを他人に知られることが許せない性格らしく、寝不足でフラフラになりながらもミチの前では気丈に振る舞っていた。クライエントの魂に触れ、その傷を癒すためにダズルランドリーサービスのスタッフは身を粉にして動く。それが天界上層部からの仕事。ほかの誰でもない、自身に任された任務は責任を持ってまっとうする。魂の洗濯が出来るのは選ばれた者だけ……。 「テラサカ……マサ……ミチ」  液晶画面に映し出された名簿をスクロールしながら目で追う。外国人名であればアルファベット順に表記されているが、日本人名に限っては『あいうえお』順になっている。見慣れている日本語で、探しやすいことこの上ないはずなのだが、なぜか寺坂真路の名前がどこにもない。同性同名は数名いるが、死亡日時や漢字表記が異なっている。 「あれ……。どうして、ないんだ?」  天界に迎えられた魂を管理者が見落とすということはまずあり得ない。なぜなら、天界庁のトップであるミカエルを含む七大天使の一人、サリエルが死者に関する管理を統括しているからだ。ラファエルの右腕と呼ばれるほどの有力者で、魂の看守を行っている彼が審判し名簿を編纂する。そんな彼に、データの入力ミスなんてことはあり得ない。もし一人でも欠ければ、その魂は行き場を失い天界のバランスが崩れていく。 「ない、ない、ない……っ」  目を皿のようにして画面を見つめるミチ。何度見返しても、真路の名前を見つけ出すことが出来ない。焦りが募り、目の前でチカチカと光が点滅する。勢いよく立ち上がったミチは、座っていた椅子が倒れたことにも気づかなかった。静かな閲覧室内にその音が響き、ミチと同じようにタブレットを見つめていた者たちが一斉に顔をあげた。 「名前がないなんて。おかしい、だろっ」  唸るように呟いて、タブレットを手にしたまま足早にカウンターへと向かった。先ほどのスタッフを見つけると、身を乗り出すように問うた。 「あのっ。この名簿のデータが破損してるってことはないですよね?」  ミチの勢いに驚いたのか、女性スタッフは瞠目したまましばらく黙り込んでいた。しかし、ミチの様子が少しおかしいことに気づくと、キーボートに指を滑らせ傍らに置かれたモニターに目を向けた。 「――今のところ、データの破損等は確認されていません。正常に運用されています」 「名前が……ないんです。探してる名前がっ」 「見間違いとかはありませんか?」 「何度も見ました。でも、ないんです……。あのっ。天界(ここ)に迎えられなかった人の名簿って、見ること出来ますか?」 「闇に堕ちた方の……ですか? 閲覧できないことはないですが、ちょっと手続きが必要になります。ダズルランドリーサービスの方でしたよね……。社長はシファさん――少々、お待ち下さい」  そう言って女性スタッフは席を立った。そして、スタッフルームに入ったきりなかなか出てこない。ミチとしても、そんな名簿は閲覧したことがない。あるとは聞いていたが、まさか自身が見ることになるとは思ってもみなかった。カウンターに座るスタッフ全員の視線がミチに注がれる。地獄に堕ちた者のリストを見たいなどという天使はそうそういない。たとえこれが仕事だったとしても――だ。  どのくらい経ったのだろう。カウンターにうつ伏せたまま、彼女が戻ってくるのを待っていたミチの背後で聞きなれた声が響いた。 「おー、いたいた。相変わらず、ここの階段はしんどいな……。」  その声に弾かれるように勢いよく顔をあげ振り返ったミチは、わずかに目を見開いた。 「社長……」  そこにはスーツ姿のシファの姿があった。右手には彼専用のタブレットが握られ、柔らかな栗色の髪は寝癖で跳ねている。丸みのあるシルバーフレームの奥で薄いブルーの瞳がすっと細められる。 「えーと、闇堕ちした人の名簿を見たいんだって? それって今回の案件絡み?」 「当たり前じゃないですかっ。――ってか、どうして社長が?」 「ここの女性スタッフから緊急の呼び出し。昼寝してたのに、驚いて目が覚めちゃったよ。これって、ちょっと特殊なことだから上司の許可を得たいんだってさ。ほら、誰に見せてもいいってもんじゃないし……」  柔らかな口調でそう言ったシファだったが、ミチのすぐ横に立つとスタッフルームから出てきた女性スタッフに自身の身分証明書を提示した。それを受け取った彼女は再びスタッフルームに入ると、少し緊張した面持ちでミチたちの前に戻ってきた。 「確認出来ました。今回は……業務上ということで、よろしいですか?」 「うん。仕方ないよね……。閲覧できる?」 「はい。ですが……」  長い睫毛を何度か瞬かせて、上目使いでシファとミチを交互に見つめた彼女は言葉を濁した。内容が内容だけに、簡単に開示できないのは分かっている。上司であるシファからの許可を貰ってもなお、出し渋ることがあるのだろうか。 「――あぁ、名前ね……。あちらの世界に堕ちた人ってのは、命を失った時点でそれまであった名前が消えちゃうんだよ。だから、正直なところデータに残しようがないってこと。でも、個体として存在していた裏付けはあるから、そこから検索しないとダメなんだよねぇ」 「社長、調べられるんですか?」 「出来るよ。でも、ここじゃ無理だね。上層部にかけあってみないと分からないけど」  飄々とした口調のシファだったが、目の前の女性スタッフは相変わらず緊張したままだ。ダズルランドリーサービスが天界庁上層部からの仕事を請負っていることはちょっと調べれば分かることであるが、シファを前にどうしてこれほど緊張しているのかが分からない。  考え深げに――といっても、ミチからはそう深く考えているようには見えないシファは、自身の顎に手を当てたまま小首を傾げた。 「ミチ、今日はもう帰ろう。その件は俺に任せてくれないかな……」 「分かりました」  そう言って閲覧室の入口の脇に設けられたロッカールームから手荷物を持ち出したミチは、持っていたタブレットをスタッフに渡すと小さく頭を下げた。 「お騒がせしてすみませんでした」 「いえ……。こちらこそ、お役に立てずに申し訳ありません」  深々と頭を下げる彼女に、傍らのシファがカウンターに両肘をついて言った。 「気にしなくていいよ。ま、こういうこともあるってこと。この先まったくないとは言い切れないから、いい経験になったんじゃない? ねっ?」  眼鏡の奥でウィンクしてみせる。それに驚いた彼女は息を呑んだままフリーズした。 「いい歳をしたオッサンがナンパですか? 社長……ゆるふわキャラだと思ってましたが、意外と攻めるんですね」 「綺麗な女性を見ると放っておけなくてね。――あぁ、いろいろありがとう。失礼するよ」  ミチの腰に手を添えたシファは、くるりと向きを変えると出口へと促した。大きな扉を開けると、微かに冷たい風を感じたような気がしてシファを仰いだ。ミチの視線に気づかないのか、彼は真っ直ぐ前を見たままだ。 「社長……?」 「――名前は?」 「え?」 「探してる死者の名前……」  不意にカツンと踵を鳴らして足を止めたシファが、ゆっくりとミチの方を見た。いつも見る優しげな眼差し。しかし、その瞳の青がどことなく濃くなっていることに気づいた。片時も離さないタブレットを手にしたまま、彼は薄い唇をわずかに引き結んだ。 「――真路。寺坂……真路」 「テラサカ……マサミチ。間違いない?」 「はい。クライエントの幼馴染で……三年前に亡くなっている方です」  一瞬、シファの瞳が揺れた。どこか悲しげで憂いを秘めた眼差しに気づいたミチは、普段スタッフに見せることのないシファの別の顔を見てしまったような気がして、スッと目を逸らした。 「――分かった。調べたら連絡するね」  彼の顔に、いつも通りの穏やかな笑顔が戻る。見間違いか、はたまた気のせいか。ミチは小さく頷くと、手にしていたバッグのハンドルをギュッと握った。片手をヒラヒラさせながら去っていくシファの背中を見送る。彼にもミチと同様、白い翼がある。しかし、それを広げた姿を見たことがない。彼がどんな経緯でこの仕事をしているか定かではなかったが、きっとミチが知らない大きなものを背負っているような気がして、咄嗟に声を上げていた。 「社長っ」  階段を下りかけたシファがゆっくりと振り返った。寝癖で跳ねた髪がピョンと揺れる。 「なぁに?」 「最高のスイーツを見つけたんで、今度お持ちしますねっ」  ミチの言葉に、たまらず顔が緩んだシファは声を弾ませて応えた。 「絶対だよっ! 期待してるからねっ」 「はいっ」  ほのかに甘くて、ふわふわしたもの……。ミチの頭に真っ先に浮かんだのは、あの古い洋菓子店『repos』のシフォンケーキだった。英慈と真路の想いを繋ぐもの。その何物にも代えがたい尊いケーキを、シファにも食べてもらいたかった。  軽い足どりで階段を下りていく彼を見つめ、ミチは自身の胸がざわつくのを感じていた。何でもない日常。これもミチにとっては果てることのない時間の中の一コマに過ぎない。天使になる前の自分がどんな人物だったのか――。今まで知りたいとも思わなかったことが、英慈に出会ってから興味へと変わった。しかし、人間界での名前を失った今、それを調べるすべはない。  ミチは管理事務所を振り返ると小さく吐息した。あの膨大な資料の中に、きっと自身の記録も埋もれているはずだ。しかし、天使となり魂の洗濯屋という職業に就いている今、それを調べることはご法度とされている。体や記憶も失っても、ここにいる事実は変わらない。ここ天界で、終わることのない命をただ生きていくだけだ。  ふと目を閉じると、英慈の顔が浮かんだ。そう遠くない未来、彼もまた名を失いこの世界で生きるようになる。その時は覚えていてくれるだろうか……。ミチという名の天使のことを――。

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