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【6】
「真路さんと一緒に行った場所、行きたいと思っていた場所に行ってみませんか?」
そう提案したのはミチの方からだった。最初は難色を示した英慈だったが、出会ってから一ヶ月以上が過ぎ、ミチとの関係は確実に変化していた。
「バイトが忙しい……」
「そうですか。残念です……」
素っ気ない態度でそう応えたミチが英慈に背を向ける。そのまま歩き出そうとする彼の手を掴んだのは英慈だった。
「待てよっ。行かないとは言って……ない」
少し照れたように言う英慈は顔を背けたまま唇を尖らせた。繋いだ手から入ってくるのは、いつも以上に温かい英慈が発する心の『声』だった。それは目に見えるものではない。でもミチは、彼の魂が少しずつではあるが穏やかになりつつあるのを感じて、ホッと胸を撫で下ろした。
「もっと素直になってください。そうしないと、真路さんに再会した時に言いたいことが言えませんよ」
「それとこれとは……。それに、逢えるって決まったわけじゃないし」
英慈の手から力が抜け、するりとミチの手から滑り落ちた。
「そうやって捻くれるの、いい加減やめません?」
ミチは眉間に皺を刻むと、頭一つ分上にある英慈の顔を見上げて睨みつけた。もう何度も同じやり取りを繰り返している。この世界には存在しない真路の魂。そして……天界の名簿にもその名前はなかった。もしかしたら闇に堕ちた者の中に彼の名があるのではとシファからの連絡を待っていたミチだったが、その答えに安堵する反面、待ち望んでいたものが得られなかったショックは隠せなかった。
『闇堕ちした者の中に寺坂真路に該当する者はいなかった。やっぱり、データの入力漏れなんじゃないのか? 天界でも地獄でもない。それ以外にどこに行くっていうんだよ……』
今までに前例がないと困ったように声をあげたシファだったが、ミチはどこか違和感を感じていた。死者の名簿に記載がないなんてことはあり得ない。まして、天界庁幹部管轄下の部門で……だ。もしも、そんなミスが公になれば騒ぎになってもおかしくない。それがないということは、気づいていない、もしくは何かを隠しているかのどちらかだ。
天界に真路の魂があると信じてやまない英慈。そんな彼に「行方知れずになっている」なんて、今更言えない。後ろめたい気持ちを抱きながらも、ミチは英慈と接さなければならない。もし、このことが英慈に知られれば、また心を閉ざしてしまうだろう。
夕暮れが近づいている。すれ違う人々もどこか忙しない。連日の猛暑日が続き、陽が傾いてもそう温度が下がることがなかった。熱せられたアスファルトは太陽の熱を抱え込んだままで、人の流れに逆らうように立ち止まったミチの靴底からも、その熱を感じ取ることが出来た。
「俺はあなたに、真路さんを逢わせたい……。ただ、それだけなんです」
トクン……。なぜだか心臓が跳ねた。それを悟られまいと、ミチは慌てて笑顔を顔に張りつけると、英慈を覗きこんで笑った。
「――じゃあ、バイトがない日に行きましょう。俺は何も分からないので、野崎さんのリードでお願いしますっ」
「俺……か?」
「他に誰が? そこでまた、いろいろ聞かせてください」
英慈と真路の出逢いから一緒に通った小・中学校のこと。高校になって初めて離れたことに寂しさを覚えたこと。そして……英慈が大学を卒業し、また距離が離れてしまったこと。誰かに自分のことを話すことが苦手だと言っていた英慈だったが、少しでも時間が出来ると多忙なバイトの合間を縫ってミチにそれを教えてくれた。お世辞でも説明が上手いとはいえない彼の語り口調だったが、それでも真路を想う気持ちは十分すぎるほど伝わった。淡々と話す中で、時折感情が溢れてしまう場面もあった。でも――英慈の心の傷が少しずつ塞がっていくのを、ミチは感じていた。心に負った傷に塗る特効薬はない。英慈が発する言葉に耳を傾け、すべてを肯定し、彼の中にある真路への想いを知るだけでも傷は自然と癒えていく。誰にも言えない想いは、膨れて大きくなるごとに自身を傷つけ、ネガティブな方向へと向かわせる。まして、二人は男同士だ。ここ十数年の間に、ジェンダーやセクシャルマイノリティに関して社会的理解が広がりを見せている。しかし、まだ一部の人々の中では否定的な者も少なくない。天界では男性・女性という見た目に囚われず、自由に愛し合うことが許されている。もちろん、地獄でも同様だ。つまらない拘りに囚われているのはむしろ生きている人間だけ。それがなければ、英慈ももっと楽に生きられただろうと思う。彼が男性にしか興味を抱かなくなったのは、小学生の時に真路の裸を見て以来だという。何人かの男女とつき合い、セックスもした。しかし、いつの時も真路の姿がちらついていた。知らない男女と肌を重ねることを咎めるような彼の悲しげな顔は英慈の妄想でしかなかったが、いつしかそれが現実味を帯びてきたというのだ。
「男同士でも正々堂々、公の場で手を繋いでデートしてもいいと思うんですよね。人間って、ホントつまらないことに拘ってるっていうか……って、元人間だった俺が言うのも変ですけど。好きな人と好きなことをして咎められるって、おかしくないですか?」
チラリと周囲に視線を走らせた英慈はミチの手を掴むと、足早に人の流れを遮っていた歩道から外れた。そして脇道に入ると、正面にある大きな杉の木が茂る神社の境内に足を向けた。その背中を慌てて追いかけたミチは、自身が発した言葉に配慮が足りなかったと反省した。すれ違う人たちの中にはこういう話題を快く思わない者もいる。まして、人通りが多くなったこの時間帯、大きな声で話す内容ではない。
「すみません……」
ミチを責めるでもなく、ごく自然な形で人気のない場所に誘導してくれた英慈。足を止めた彼に、ミチは小さく頭を下げた。しかし彼は、何事もなかったかのようにミチの問いかけに応えた。
「――ゲイにとって、そういう理想的な時代はまだ遠いな。俺はもうすぐいなくなっちゃうんだけど」
人や車の往来がある大通りから一本脇にそれた神社の境内は、昼間でも木々に日差しを遮られているせいか格段に涼しい。ビルが立ち並ぶ街の中に突如として現れたオアシスのような神社は昔からこの場所にあり、鎮守として稲荷が祭られている。赤い鳥居をくぐると、靴底に感じる温度もひんやりとして心地いい。
「天界では誰も咎める者はいませんよ。むしろ、積極的に愛し合うことを推奨していますから」
英慈はそれまで掴んでいたミチの手を急に離すと、くるりと背中を向けてわずかに俯いた。そして、耳を澄まさないと聞き取れないぐらいの小声でミチに問うた。
「――前は。お前は……いるのか?」
「え?」
「あっちの世界に……恋人とか、いるのか?」
初めてだった。英慈の方からミチにこういった質問を投げかけてくることなど今までなかった。むしろ敬遠され、煙たがられることが多かったミチ。それでも食い下がり、彼との距離を縮めようと努力した。もう、仕事では割り切れない、ミチの感情という領域にまで英慈が入ってきていることの証だった。
「いませんよ。まだ新参者の俺に、そんな余裕があると思いますか?」
「新参者?」
「ええ。俺も、もとは人間でしたから……。気がついたら天使になっていて、今の上司にスカウトされて……って、自分でも驚いています」
「人間だった時の記憶――って、あるのか?」
今日の英慈はやけに饒舌だ。それに、ミチに対していろんな疑問を投げかけてくる。天使であるミチが人間である英慈に答えられることは限られているが、出来る限り分かりやすい言葉で伝えるように心がけていた。一方的に相手ばかりを問い詰めるのはフェアじゃない。それに、こうすることで彼の心に確実に近づくことが出来ることをミチは知っている。
「残念ながら……。なかには記憶を持ったまま天界に召される方もいますが、それはほんの少数。ごくごく稀な例です」
「――じゃあ。もし真路と再会したとしても、俺のことなんか覚えてないよな」
英慈の言葉に返答に困ったミチは、彼から視線をそらすと「えーと……」と必死に次の言葉を探した。英慈の誘導に引っ掛かってしまったような気もしないでもない。そういった特殊な者は天界上層部預かりになることを伏せたとしても彼に嘘は言いたくない。
あれこれ思案し、そのたびにぶつぶつと小声で「これじゃダメだ」だの「なに言ってんだ、俺」だのと呟いていたミチを見かねたのか、英慈がクッと肩を揺らして笑った。
「ってか――。俺も真路のこと覚えてないから、お互いさまかっ」
彼の大きな手がミチの柔らかな髪をくしゃりと撫でた。驚いたミチは、大きな目をさらに大きく見開いて彼を見つめた。今まで自嘲することは何度もあったが、目を細めて楽しそうに笑う英慈の顔を初めて見たような気がしたからだ。
「無理しなくていいから。お前、俺に気ぃ遣いすぎ……。死ぬって分かってるから、余計にそうされてるみたいで……」
「ち、違いますからっ。俺は、そういうんじゃなくてっ」
「分かってる。これがお前の仕事なんだもんな……」
「野崎さんっ」
「英慈でいいよ……。お前と真路のことを辿ったら……天国で本当に会えそうな気がしてるから。顔は思い出せないけど……生きている間だけでもアイツのこと、忘れたくない――ううん、忘れちゃいけないって思った」
ミチの髪を滑り落ちる彼の手から温かい光が零れ落ちた。それは魂自身が持つ治癒能力が動き出した証拠だった。それとともに、彼の命が少しずつ削られていくことを意味していた。離れそうになった彼の手を咄嗟に握りしめたミチは、今度は目をそらすことなく英慈を見据えて言った。
「約束しましたからっ。俺は……絶対にあなたと真路さんをっ」
英慈はわずかに目を伏せて唇を綻ばせた。その優しい唇の形に、ミチは小さく息を呑んだ。
「お前、洗濯屋だけじゃなくて恋のキューピッドの仕事までやるのか? 天使って意外と忙しいんだな」
「今回は特別です。あ、でも……これは俺が勝手にやっていることなので、他言無用で……っ」
慌てるミチの細い指を英慈の手が握り返した。そして、小さく喉の奥で笑った彼は、まっすぐな瞳でミチを見返した。
「――映画」
「え?」
「とりあえず、映画……行こうか。アイツが見たいって言ってた映画、最近になってやっと公開されたんだよ。それから……買い物して、食事して。あぁ、アイツが行きたがってたマリンパークにも行きたいな。俺の都合で一緒に行けないままだったから……」
「え? あ……はいっ!」
未だに離れない英慈の手が、ミチの指の感触を確かめるように何度も握り返される。そのたびに、頬が熱くなっていくのを感じ、彼に気づかれないように俯いてそれを隠した。
心臓がドキドキしている。天使になってから経験したことのない感情が、ミチの体にジワリと広がっていく。自分が人間であったとき、こういった感情を日常的に経験していたのだろうか。それとも、失くした記憶の片鱗が思い出させているだけなのか。これは仕事の一環であり、あくまでも英慈とは洗濯屋とクライエントという関係だ。それ以上の感情などありえない――そう思っていた。しかし、英慈が見せる表情や言動に一喜一憂している自分がいることは否めない。ほんの些細な変化も見逃したくないという熱心さが、今では別のものに変わってきているような気がしてならないのだ。
「――あぁ、ごめんっ」
顔を赤くして俯いているミチに気づいた英慈が、慌てて手を離した。それまであった熱がふわっと周囲に拡散し、ミチの指先を冷やしていく。それはあっという間の出来事で、再び彼の熱を感じることはできなかった。その手をどうしようかと迷っていると、英慈は苦笑いを浮かべながら言った。
「細い指……。真路に似てるなって思ったら、離せなくなった。ごめん……」
幼い頃から幾度となく繋がれたであろう幼馴染の手。その感触をまだ覚えていた英慈にホッとしつつも、ミチは心の中で真路への複雑な思いが湧き上がるのを感じた。
「いえ……。こういうこと、慣れてないっていうか……。初めてだったので、驚いたっていうか……」
これまでに、英慈に触れることはもとより互いの手を掴むことも何度かあった。英慈だけじゃない。今まで担当したクライエントーー男女問わず、こういうことは多々あった。人間は触れ合うことで安心感を覚える。相手の警戒を解くうえで必要不可欠な行為だと思っていた。それなのに、今は少し……何かが違った。いや、今に始まったことじゃない。もしかしたらミチが気づかなかっただけで、彼と出逢った時から意識していたかもしれない。
英慈という存在が、ミチにとって大切なものだった――かのように。
この世界にミチを知る者はいない。たとえ人間であったときの彼を知る者がすれ違っても気づくことはない。もしかしたら英慈とどこかで出逢っていたかもしれないと思う時がある。初めて訪れる街なのに、その随所で懐かしさを感じ、既視感を覚える。でも、彼はミチを知らない……。
「――俺、天使になる前はきっと奥手だったんだと思います。だから……」
「そっか……。前世の記憶は残ってないんだもんな。でも……守ってやりたいって奴がいたと思う。お前の手……そう思わせる」
真路を失ってから他人を寄せ付けず、頑なに自分の殻に籠っていた英慈。決して見せることのなかった心の内を垣間見たような気がして、ミチは唇を噛みしめたまま俯いた。英慈が抱く想い――それはミチに対してではない。今は亡き真路の姿を、側にいるミチに重ねただけなのだ。身長も体格も、当時の彼とそう変わらない。でも、根本的な違いは明白だった。
「――もし、そういう人がいたとしても、今は気づいてもらえない。街の中ですれ違ったり、人込みでぶつかったりしても、俺だって誰も気づかない。人間だった俺がどんな人を愛し、何を大切にしていたのか分からない。でも……人間だった時の俺を覚えていてくれる人は必ずいる。その人の魂に出逢うまで――いや、出逢うためにこの仕事をしているんだと思う。それが、与えられた試練なのかな……って」
「出逢ったら辞めるのか?」
英慈の問いに、ミチはゆっくりと首を横に振った。そして、英慈の熱を失った手をギュッと握りしめ、乾いた唇をそっと舐めた。
「神様から与えられた仕事だから……。たとえ出逢えたとしても、傷ついた魂の洗濯屋に終わりはない。人との繋がりってそう簡単に切れるもんじゃないし、宿る肉体が朽ちても魂は生き続けてる。人間がこの世界に存在する限り、俺の仕事は終わらない」
ミチの言葉を黙って聞いていた英慈だったが、大きな杉の木を見上げてボソリと呟いた。
「試練か……。俺もきっと、神様に試されているんだろうな。好きだった人を守れなかった罪を背負い、なおかつ忘れることも許されない。この世にいない――触れることも、愛することも出来ない奴への想いを試されてる。確約のない再会の夢だけを見せられてる……」
「英慈……さん」
「最近、思うんだ。ミチが……アイツの生まれ変わりだったら良かったのに――って」
息が出来なかった。英慈の口からそんな言葉が出るなんて予想もしていなかったからだ。ミチは黙ったまま何も言うことが出来なかった。胸が痛い。でも、その理由が分かっているから余計につらい。
「都合のいいことばっかり言ってると、いつかバチが当たるな」
ヒグラシが鳴いている。その声は耳を塞ぎたくなるくらい大きくて、ミチの揺れる心をざわつかせた。太陽が傾き、ビルの影が長くなっていく。木々に囲まれた境内はすでに薄暗く、神社特有のピリリとした空気が流れていた。
「――真路を忘れたいわけじゃない。でも、心に開いた穴を塞いでくれる人が近くにいたら、そう思いたくなるだろ? きっと、ほかの天使じゃダメだっただろうな……。お前じゃなきゃ、俺は自責の念に駆られて自らの命を絶っていたかもしれない。真路を、愛している。それは今も変わらない。でも――」
言いかけた言葉を飲み込んだ英慈は、何も言えずに立ち尽くしているミチを見つめた。野性的な瞳が薄闇の中で光を湛え始める。それに気づいたミチは大きく首を横に振った。
「俺は……ミチです。あなたの魂を洗濯するために来た……天使です。クライエントに、特別な感情を抱くことはありません……絶対に」
胸が痛い。息がうまく出来ない。そして、内に秘めた想いを否定するたびにこめかみがツキンと痛む。仕事だと割り切っているはずなのに、境界が曖昧になっていく。英慈の想いを聞いたせいか、それが今まで以上に頼りなくなっている。いっそのこと、境界なんて消し去ってしまえばいいと思う。でも、それは洗濯屋として絶対に侵してはいけない領域に足を踏み入れることになる。
「真路さんへの想いがブレれば、彼の魂を引き寄せる力は弱くなる。そして、あなたの魂が輝きを取り戻すことは……なくなる」
ミチは自身の両手を見つめた。いつかここに、英慈の光輝く魂が抱かれることだろう。それを天界に持ち帰り、上層部に手渡すことがミチに与えられた任務なのだ。輝きを失った魂など、価値がない石ころと同じだ。それと同様に、それを磨くことができない洗濯屋も天界では存続することはできない。シファにもほかのスタッフにも迷惑をかけることになる。それを回避するにはミチの精神力にかかっている。邪心を振り払い、フラットな気持ちでクライエントである英慈と接する――それしか方法はない。
陽が長いとはいえ、境内にはすでに外灯が灯り始めていた。ぼんやりとしたオレンジ色の光に照らされた二人の影が、揺れる木々にかき乱されていく。
「――映画、行きましょう。ショッピングも、食事も、マリンパークにも! 真路さんの想いを追いかけて繋げましょう」
重々しい空気を払拭するかのようにつとめて明るい声で言ったミチを、英慈は黙ったまま憂いを含んだ目で見つめた。彼の瞳には何が映っているのだろう。もしかしたら、在りし日の真路の姿がそこにあったのかもしれない。だが、幻影は一瞬で、突きつけられた現実は悲しく、儚いものだと知る。英慈の心がわずかに翳るのが分かった。ミチの髪に触れた時の温もりは感じられない。そして、キラキラと輝きながら零れる光の粒もない。
「英慈さん……」
「そうだな……。ミチが真路であるわけがないよな。俺、どうかしてる……。ごめん」
悲しく冷たいオーラが彼の体から放たれる。何とかしたいと焦る頭とは裏腹に、ミチは動くことが出来なかった。すっと目をそらし、見たくないものから目を逸らす。自身ではどうにもできない状況から逃げるのとは違う。出来る事ならば真路に成り代わって、英慈の心の傷を癒してあげたい。だが、それで本当に英慈が安らぐかといえば、あくまでも代用に過ぎないのだ。真路が存在していたことは紛れもない事実であり、その存在を打ち消し上書きするような真似は出来ない。英慈の心の中にある彼も然り……だ。
「帰ろう……。ミチ」
英慈の声に黙って頷いたミチは、道路に伸びた二つの影が大きなビルの影によって消されていくのを見るともなしに見つめていた。行く手を阻むような黒い影。それにゾクリと背筋が冷たくなる。得体の知れない恐怖に足を止めたミチに気づいた英慈が振り返り、躊躇なく彼の手を掴んだ。
「大丈夫だから。もう、お前を不安にさせるようなことはしない」
英慈の心の内を知ってしまった今、もうなかったことにすることは不可能だった。ただ目を背け、彼の命が尽きるまで自身の想いを抑え込むだけだ。我慢は慣れている。でも――今回ばかりは自信がなかった。
指先を掴む英慈の手に力が込められる。それを振り払う勇気もないまま、ミチはその場に立ち尽くしていた。
*****
その夜、ミチはあの夢を見た。
必死に伸ばす指先には、確かにあの人の感触が記憶されている。目には見えている。それなのに触れることが出来ない。黒い水飛沫、体温を奪っていく冷たい闇。もがけばもがくほど深みに嵌り、彼の姿を見失っていく。
苦しい。息が出来ない……。そして、この胸の痛みは呼吸が出来ないせいじゃない。見えない棘が深く突き刺さったまま抜けない。酷い裏切りと罪悪感。身体を穢されるたびに、彼への想いに縋りたくなる。
温かな手、優しい微笑み、力強い抱擁。何もかも失いたくなくて、嘘を重ねてきた日々が蘇る。その罪は、今こうやって自身に降りかかっている。
「ごめん……。ごめん、なさ……い」
謝る声は、もう届かない。深い闇に沈んだミチは一筋の涙を流した。それが渦を巻く水流に巻き込まれ粉々になったとき、聞こえるはずのない彼の声を聞いたような気がした。
『ごめん……』
(どうして謝るの? 許しを乞うのは俺の方なのに……)
罪は見えないうちに増え、知らないところで最愛の者を苦しめる。それは肉体を失ってもなお科せられる、永遠に続く贖罪。
つらい……悲しい。どうして触れられない? どうして……一緒にいられない?
凍えるような冷気に包まれた四角い闇の中に閉じ込められ、嘆き続けることしかできないのか。
早く、ここから出して! 彼に……伝えたいことが、ある。
「いやぁ――っ」
ミチの叫び声が部屋に響き渡り、穏やかに流れていた時間と静寂がかき乱された。
シーツにしがみついたまま、仰向けで絶叫したミチの体は金縛りにあったように動けなかった。耳元で聞こえる荒い息遣いがまるで魔物のそれのように聞こえ、恐怖で首を横にすることすらできない。具現化された翼からは羽が舞い散り、ベッドの下を白く染めていた。
「今の――なに?」
途中まではいつもと同じ夢だった。しかし後半は、四角い箱のようなものに閉じ込められ、身動きが出来なかった。そこは冷たく、何も見えない闇に閉ざされた狭い空間。手足は自由だが、息苦しくて……胸が締め付けられるように痛い。それは決まって『彼』の事を思うたびに、長い苦しみを伴ってミチの体を苛み続けた。
白い天井を長い間見つめていた。すると、次第に呼吸が楽になり、強張ったままの手足が動くようになった。薄い胸を喘がせて、つとめてゆっくり大きく息を吸い込む。目の前にあるのは闇でも底のない水中でもない。見慣れた自身の部屋に安堵し、ミチは汗で濡れた寝間着を掴みながら体を起こした。
英慈の依頼を受ける前夜に見た夢は、日を追うごとにリアルに感じられるようになりミチを苦しめた。空中に放り出される浮遊感、冷たい水の中でもがきながら沈んでいく。必死に手を伸ばすが、届かずに虚しく空をきる自身の手。それは凍える冬の最中のように冷たく血の気を失っていた。
それとともに叫びたくなるほどの罪悪感がミチを圧し潰した。それが何なのか分からないが『彼』に対する後ろめたさを痛烈に感じていることは確かだった。いくつもの罪を犯し、罰として狭い空間に閉じ込められている――そんな夢だ。
しかし、ミチには何も思い当たることがない。夢は潜在意識が見せるものであり、活動時間内で影響を受けたものや人物が反映されることもある。ミチが接触しているのは英慈ただ一人。それなのに彼の姿はおろか、声すら聞こえない。
過去に接触のあったクライエントの事を思い出してみるが、ミチに恨みを抱くような人物もいなければ、こういう状況になった者もいない。
「何なんだよ……この夢は」
確かに、英慈に対して後ろめたい感情がないといえば嘘になる。だが、それが罪になるのかといえば否だ。その想いを知っているのはミチ本人だけなのだから……。いろいろ突き詰めてミチが出した結論は、生前の行いに問題があったのでは――というものだった。でも、それを調べることは不可能に近い。記憶もなければ、自身のデータを見返すことも出来ないのだから。
「一体、どうすればいいんだ……」
いくら考えても埒が明かない。自身でグダグダと思い悩むよりも、いっそシファに相談した方が良さそうだ。このままでは、体にかなりの負担がかかることは間違い。そうなると、仕事もままならなくなる。彼ならば何らかの解決策を見つけてくれるはずだ。
英慈とあんなことがあった後で、こんな悪夢を見るなんて……。ミチは、自身が抱く想いが『罪』であると再認識させられる。それを知っていながら黙って見過ごしている神様にも罪悪感を抱かずにはいられない。英慈の想いは、真路ただ一人に注がれている。いくら長い時間行動をともにしているからといって、ミチが抱く感情が『恋』であるとは限らない。今はそれを勘違いして、脳が錯覚を起こしているだけなのだ。
「このままじゃいけない。俺は……英慈さんの魂を……」
そう呟いたとき、ミチの頬に涙が一筋流れた。
「え?」
驚いて掌で乱暴に拭うと、その雫は数を増し幾筋も流れ落ちた。
「え……。えぇ……? ど……して、俺……泣いてる? 涙が、とま……ん、ない」
悪夢で情緒不安定になったのか。はたまた、自分の気持ちに『嘘』をついたからか……。
英慈への想いが止められない。このままじゃいけないと何度も言い聞かせるが、涙はシーツを濡らしていくばかりで止まることを知らなかった。いっそ、彼の名を声に出して泣いてしまおうか――。ミチは唇を震わせてその名を呟いた。
「――英慈、さ……ん」
ジワリと心が熱くなる。もう一度、彼の名を呟くと冷え切っていた手足に体温が戻り始めた。信じられない思いで、その名を何度も口にする。しばらくして、ミチは温かなシーツにくるまって寝息を立てていたことに気づいた。涙の痕はもう乾いている。汗で濡れた寝間着も、嘘のように柔らかで心地よく体を包み込んでいた。一番の悪夢は自分の気持ちを偽ること。想い人の名を口にしただけで、穏やかな気持ちで眠ることが出来る。でも、それを知ったところで現実は非情だ。
「俺は……誰を幸せにする? それは……特別な魂を持つ彼。英慈の魂を……天界で唯一無二のものに、すること……だろ」
呪文のように何度も自身に言い聞かせる。そのたびに、癒えていたはずの胸の痛みがジワジワと増していくのを感じた。そう――ミチの魂が無数の傷を負っているように思えた。
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