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【7】

 真路への想いを巡る旅。旅といいながらもそう遠出することはなく、ほとんどが近間の映画館や馴染みの飲食店、ゲームセンターなどのアミューズメント施設だった。最初は戸惑いを見せしかめっ面で歩いていた英慈だったが、時を重ねるにつれその顔にも笑顔が浮かぶようになっていた。他人に対して心の内を見せることがなかった英慈。ミチが無害であると認識したと同時に、その姿に真路を重ねているのは明白だった。  彼と一緒にいる時間が増えるたびに、ミチの心も彼色に染まっていく。どんなに足掻いても、ダメだと拒絶してもその温もりは知らないうちにミチの中に入り込み、満たしていく。それが心地よくて、時々任務を忘れて英慈に甘えたくなる。でも、真路の顔がちらつくたびに、ミチはその想いを深い水底へと沈めていく。そう、あの夢の中の出来事のように……。  その一方で、ミチはある男のことを調べていた。英慈が関わるなと言ったその男――元内(もとうち)徹平(てっぺい)は、知る者がその名を口にするのも憚られるほどの異端児だった。彼の父親は不動産会社を経営する傍ら政界にも精通し、多くの支援者に担ぎ上げられ代議士にまで上りつめた。表向きは地元を愛し、国民ファーストを公約に掲げ、育児や教育・高齢者介護への支援を惜しまないと声高々に謳っているが、彼を快く思っていない者も多い。少々強引な方法での土地の買収や、地元業者との癒着、反社会勢力との黒い関係も噂されている。とにかく叩けば叩いただけ埃が出る男の息子である徹平もまた、幼い頃からトラブルを起こしていた。手をつけられないほど荒れた時期もあったようだが、それはみな父親の名と金で『穏便に』片付けてきた経緯がある。窃盗・傷害は日常茶飯事で、一部の人たちからは殺人まで犯しているのでは……と実しやかに囁かれる始末。今は父親のあとを継いで不動産会社の若き社長となっているが、更生したという話は誰からも聞くことが出来なかった。そんな彼と一見接点がないように思われた真路だったが、徹平の大学時代を知る友人からやっと聞き出すことが出来た。彼のことを知る者たちに共通して言えるのは、彼の名を出した瞬間に怯えたように周囲を見回し、足早に立ち去ろうとする。それほど彼からの報復が怖いのかと問うても言葉を濁して「何も知らない」と口を閉ざす。彼の父親の息がかかった地区は特に、元内家のことに触れることはご法度とされている節がある。しかしミチは、何度も食い下がった。嫌がり逃げる彼の知人を見つけては、徹平と真路の関係を追及した。 「――真路は、徹平のオンナだったんだよ」  ミチの執拗な追及に根負けした彼は、重々しい口調でそう言った。その先を期待したが「それ以上のことは言えない」と、そそくさと逃げるようにミチの前から姿を消した。明日は我が身……この事を徹平に知られたら何をされるか分からないという彼の恐怖がヒシヒシと伝わってくる。それを知ったミチは、もう追いかけることをやめた。  この街にはその恐怖が渦巻いている。まるで、彼らに支配されているかのような人々の怯えた目がミチを恨めしげに見つめる。誰に見られているか分からない。仲の良い近所の人たちも時に監視者になり得るのだ。 「すごく嫌な感じがする……」  ミチの率直な感想だった。区を分かつ大きな川を渡っただけで、殺伐とした空気がミチの肌をピリピリさせる。高らかに響く笑い声、何気ない日常。行き交う人たちの表情は明るく屈託がない。それなのに、何かに怯えて口を閉ざす。この街から早く逃げ出したくて、ミチは足早に電車に乗った。この沿線に真路が通っていた大学がある。車窓に流れる長閑な風景を見ながら、耳の中に残ったままの言葉を払拭しようと小さく首を振った。真路は徹平とそういった関係があったということなのだろうか。しかし、英慈からは何も聞いていない。本当に知らないのか、知っていても口にしたくないのか定かではないが、いずれにしても英慈にしてみればショックな話だ。  英慈が語る真路は明るく自由奔放で、他人の世話になることが嫌いだった。そのことから誰かに依存していることは考えられない。ミチとそう変わらない体躯、幼さを残した愛らしい顔つき。どちらかといえば庇護欲をかきたてる彼の容姿は、女性だけでなく英慈のような性的指向がある者でも気になる存在になり得るかもしれない。  しかし、真路がその場の雰囲気で流されるような性格ではないことは、英慈の話からも窺えた。見た目によらず強い意思を持ち、頑固な一面も垣間見える真路が、黒い噂に塗れた徹平と関係を持つ理由が見つからない。もし、それが事実だとしたら、徹平の一方的な想いにより、真路の同意なく強引に肉体関係を結んだ……としか思えない。  停車するたびにドアが開閉し、車内に吹き込んだ風がミチの髪を揺らした。耳に入ってくるアナウンスは、ミチの意識の上を滑っていくだけで記憶に残らない。長い睫毛を瞬かせて、ミチはゆっくりと目を閉じた。ミチだけでなく、もしかしたら英慈さえも知らない真路の秘密に触れてしまったような気がして、ざわついた心が落ち着かない。ホームに響く発車ベルが、それをもっと顕著なものにさせる。  自らの魂を傷つけるほど、真路に一途な想いを向ける英慈。この事実を知った時、彼はどうなってしまうのだろう。それを知っていたから、真路も英慈には言わなかったのでは……。彼と会うたびに口に出すことのできない罪悪感を抱きながら屈託のない笑顔を見せる真路。幼馴染である英慈に心配をかけまいと誤魔化し続けた彼の罪。その罪を抱いたままの魂は今……どこに?  ミチは、銀色の手摺を掴んでいた手が汗ばんでいることに気づいた。 (いやな汗……)  慌てて手を離すと、自身の手を見つめた。幾度となく英慈と繋がった手が微かに震えている。でも、それが自分のものではないような気がして、何度も瞬きを繰り返した。夢の中でも、この手に触れようとする者がいる。ミチ自身もその手を掴もうと必死にもがき続ける。 「俺は……誰、なんだ?」  今まで考えたことなどなかった。天使になった自分が、何者だったのか――なんて。でも、それがより顕著になるのは決まって英慈と会っている時だ。真路を想い、ミチに彼の姿を投影する英慈。でも、ミチは真路にはなれない。それに気づいた時、英慈は少しだけ寂しそうな顔をする。これ以上、彼を悲しませたくない……。ミチは、真路と徹平の関係を自身の中に封じ込めることを決めた。英慈の魂が天界に迎えられるまで――いや、永遠に口に出すまいと誓い、細く息を吐き出した。  徹平の活動エリアから離れたせいか、体に纏わりついていた嫌な空気が消えていく。肩の力を抜いたミチが顔を上げた時、空気の圧縮音と同時に自動扉が閉まった。ガラスに映った自身の顔に瞠目したミチは、暫く動くことが出来なかった。ステッカーが貼られた窓ガラスの中にいたのは、悲しげな目でこちらを見つめる真路の姿だった。 『――俺を、見つけて』  薄い唇が儚げにそう告げて、彼の姿は消えた。ゴーストの類でないことは、この場の空気からも分かる。それならばミチが見たものは何だったのか。真路のことを考えていた故に見た幻影? はたまた白昼の悪夢? 答えが見つからないまま、動き出した電車の揺れに体が傾く。咄嗟に掴んだ手摺の冷たさに小さく息を呑んだミチは、眉間に深く皺を寄せたままの自身が映る窓ガラスをじっと見つめることしか出来なかった。  ***** 「――チ。ミチ、聞いてるのか?」  突然耳に入り込んできた英慈の声に、ハッと我に返る。ぼやけていた視界がパッと明るくなり、徐々に焦点が合ってくると、すぐそばにあった英慈の顔に驚いた。彼は心配そうにミチの顔を覗き込んでいる。 「え? あ……ごめん。ボーッとしてた」  手にしていたフォークを落としそうになって、自身が食事中であったことを思い出した。 「食べながら寝るなよ。お前が食べたいってパンケーキを頼んだんだろ?」 「あ、うん……」  戸惑いながらテーブルの上を見ると、英慈の前にはサンドウィッチとアイスコーヒーが置かれていた。同じものをオーダーするかと思った彼だったが「小腹が空いた」と軽食を頼んだことを思い出す。ここのところ、彼との外出で気づいたことがあった。彼は甘い物を好んで食べない。一緒に食べようと誘っても、一口……多くても三口ほどで「お腹がいっぱいだ」という理由をつけてミチに託してしまう。甘い物に目がないミチとしては嬉しかったが、以前行った洋菓子店『repos』で彼がシフォンケーキを食べていたことを思い出し、一概に甘い物すべてが苦手というわけではないと知る。  個人の好みに口出しすることはないが、ミチと同様に甘い物好きだった真路はこの事を知っていたのだろうか。もし知っていれば、あの洋菓子店に英慈を誘うことはしなかったはずだ。一口大に切ったパンケーキを口に運びながら、ミチは目の前に座る英慈を盗み見た。アイスコーヒーを飲み、ガラス越しに人の流れをみつめている。以前に増して瞳に湛えた光は強くなっている。それは精神的に上向いていることを表していた。そして、無数にあった魂の傷も、今は数えるほどになっていた。 「平日なのに、こんなに人がいるんだな……。ジェットコースターに乗るのに、まさかあんなに待つハメになるとは」  海に突き出したように作られたマリンパークは、平日でもかなりの人でにぎわっていた。人ごみが苦手だという英慈を何とか説き伏せたミチは、真路と来る約束をしていたというマリンパークを訪れていた。快晴に恵まれたこの日、白いタイルが敷き詰められた地面を照らす太陽と海からの照り返しでかなり温度が上がっていた。額に汗を浮かべながら、何度も長い行列を経験した英慈の横顔に幾分疲れが見える。 「疲れました?」 「まあね。こういう場所、アイツ大好きだったからご機嫌ではしゃぎまわっていたんじゃないかな。俺のこと放置して……」 「追いかけないんですか?」 「放っておいても、俺のところに帰ってくるし。アイツの行動力にはホント、驚かされる……」  ハーフパンツにTシャツというラフな格好の青年が笑いながら歩いていく。その姿を目で追いながら、英慈は苦笑いを浮かべた。まるで、嬉しそうに歩く真路の姿が見えているかのように目を細める。しかし、真路が彼のもとに帰ってくることはないという現実に気づき、ふっと表情を曇らせる。ミチに気を遣ってか、口元に笑みを貼りつけて話を切り替える。その笑みも自然に見え、ミチも彼の憂いに気づきづらくなっているのは確かだ。 「――ってか、お前も人のこと言えないぞ。子供みたいに走って……楽しそうだった」 「楽しいです!――というか。仕事ってこと忘れてました。こういう場所、天界にはないから新鮮で……。あの……。日が暮れたら水族館に行きませんか?」 「いいけど。俺、ベンチで寝てるかもしれないぞ?」 「勿体ない! テレビや雑誌でも取り上げられている天井まである大水槽、見たいんです。せっかく来たんだから、一緒に見ましょうよ」  身を乗り出すように英慈を覗きこんだミチの圧に負けたのか、彼は小さくため息をつきながら頷いた。普段、バイト以外にあまり外出していなかった英慈にしてみれば、真夏に――しかも、海の真ん中にある場所に来ること自体が苦痛に思えるだろう。人ごみも暑さも、眩いほどに注がれる太陽の光も……。そして、隣に愛する人がいない寂しさに向き合うことも。真路の代わりはいない。ミチでは埋められない想いがある。でも、それを承知で、彼をこの場所に連れてきた。互いに想いを通わせる恋人たちの何気ない会話。子供の暴走に手を焼きながらも笑顔が絶えない家族。仲のよい友達とソフトクリームを食べ比べながら歩く学生。そのどれにも属さない関係がここにある。  汗をかいたグラスの中で氷が小さな音を立てた。これ以上、英慈への想いを募らせることを咎めるような、優しい警告音にも聞こえる。ミチは黙ったままパンケーキを頬張った。ラズベリーソースの甘酸っぱさが口内に広がり、無意識に緊張した喉を通り過ぎていく。甘い――けど、味は良く分からなかった。  楽しい時間はあっという間に過ぎていく。太陽が沈み、パークのいたる所に明かりが灯り始めた頃、ミチと英慈は水族館へと足を向けた。今日、最終公演となるイルカショーを観覧し、水飛沫をこれでもかというくらい浴びたミチの姿を見て、思わず吹き出した英慈を軽く睨みつける。 「酷いよ。あれは絶対にターゲットにされた」  柔らかな髪がしっとりと濡れている。それをミニタオルで拭いながら毒づいたミチは、その髪をぐしゃりと乱す英慈の大きな手に動きを止めた。 「ミチは目立つからな。この髪も……外国人みたいな目も」 「そうですか? ちょっと、やめてください。ぐしゃぐしゃに……なっちゃうっ」  あまりにも執拗に撫でる英慈の手を掴んだ瞬間、ミチの耳元に彼の息遣いを感じて目を見開いた。 「――俺は、好きだけどな」  トクン、トクンッ! 心臓が大きく跳ねた。少しでも気を抜いたら、口から出てしまいそうなほど脈打っているのが分かる。時々、何の前触れなく思わせぶりな言葉を口にする英慈。その度にミチの心は大きく揺さぶられるのと同時に、酷い罪悪感に苛まれる。 「そういうの……やめてくださいって、言ったじゃないですか」 「俺は真路じゃない……だろ」 「分かっていて、そういうこと言うの……。誤解したらどうするんですか」 「誤解? どんな?」  答えられないのを分かっていて、あえてミチを試すようなことをする。英慈は真路を失ってから誰ともセックスしていない。三年も人肌に触れていなければ、男としての欲求も溜まってくるのは必然。理解出来ないわけではないが、天使であるミチがそれを満たすことは出来ない。 「たとえば――。俺があなたの事を、好きに……なる、とか」 「それって許されるのか? 天使が人間と……」 「そんなわけないじゃないですかっ。クライエントと関係を持つことは禁止されています」 「厳しい会社……」 「会社云々ではなく、天界の常識として……」  後退りながら英慈と距離をとろうとするミチ。それを意地悪げな笑みを浮かべながら追う英慈。暗いフロアに突如として現れるエスカレーター。天井はドーム状になっており、ブルーのライトに照らされた魚たちが優雅に泳いでいるのが見える。エスカレーターに乗ったミチは天井を見上げて小さく息を呑んだ。置いていかれまいと後を追ってきた英慈が隣に並ぶ。 「綺麗ですね……」 「こんな間近でマジマジと見たの、俺……初めてかもしれない」 「いろんな魚が共存して、ケンカにならないんですかね?」  目を輝かせてドーム状の水槽を見つめるミチの肩が優しく抱き寄せられる。驚いたミチは、体を強張らせながら彼を仰ぎ見た。 「人間と一緒。ケンカもするだろうなぁ。共食いも……。でも、生きるってそういうことだろ」 「英慈さん?」 「死ぬ瞬間ってどんな感じなんだろうな……。真路を亡くしてから自暴自棄になって、何度も死のうかなって考えた時もあったけど、今はもう少し……生きていたいなって思う」  寿命が尽きることを知っている者が口にするセリフではない。生きたいと思うこと――それだけ魂が正常の状態に戻ってきている証拠だ。洗濯屋としては嬉しい限りではあるが、ミチとしては複雑な心境だった。魂の洗濯に時間がかかればかかるほど、英慈のそばにいられる時間は長くなる。だが、神が定めた寿命は確実に針を進め、その身体を蝕んでいく。どのような最期を迎えるか、それがいつであるかは分からない。でも、ミチは生きようと前向きになった人間ほど死期が近いことを知っていた。それは今までに何度も経験した悲しくてツラい別れ……。 「――俺には分からない、から」 「ミチを責めているわけじゃないよ。あ、ほら……お前が言ってた大水槽って、あれじゃないか?」  エスカレーターの降り口が近づく。英慈の言葉に視線を上げたミチは、その荘厳な光景に息を呑んだ。そこは開けた広い空間になっており、目の前にはミチが憧れていたあの大きな水槽があった。ひんやりとした空気が頬を撫でる。眩い青い光が二人の体を包み込み、海の中に突然移動したかのように錯覚する。暗いフロアに人はまばらで、水槽を見るためのソファも用意されていた。天井まである大きなガラス。緩くカーブした水槽に沿って数えきれないほどの魚たちが泳ぎ、ミチの視界を横切っていく。 「うわぁ……」  思わず感嘆の声が漏れる。足早に近づくと、厚いガラスに手をついて上を見上げた。サバの白い腹がミチのすぐそばを掠めていく。はるか上の方にはマイワシの大群が螺旋を描き、キラキラと光り輝く宝石のようにも見える。岩が置かれた足元には体の大きなエイが砂を散らしながらゆったりと浮上し、大海原を思わせる青い空間を自由に遊泳する魚たちの姿がそこにあった。  現実とも非現実ともつかない空間。そして、ゆったりと過ぎていく時間。いつしか人の姿は消えていた。ミチは青く光る水槽を見つめたまま動けなくなった。本来ならここに立っているのは真路で、この特別な時間を過ごすのも彼だった。遠くから聞こえる館内アナウンス。どこからか聞こえる水が巡回する音。それがいつしかミチの耳に届かなくなったとき、すぐそばに英慈の気配を感じてゆっくりと顔を向けた。頬に流れる涙は途切れることがなかった。それは、内に秘めていた彼への想いが溢れ出したモノだとすぐに分かった。もう、止められない……。でも……英慈の中には真路が、いる。 「ミチ……?」  頬から顎を伝い足元の絨毯に落ちる涙は、青い光を浴びて儚い宝石のように見えた。 「ミチ……。お前……なんで、泣いてる?」 「英慈……さん。どうしてだろ……涙が、止まらない」  彼の視線から逃れるように水槽を見上げる。ミチの魂がその淡い光に誘われるように力を湛えるのが分かった。背中がムズムズする。人間界では使うことが出来ないはずの翼が、ミチの思考とは関係なく大きく広がっていくのが分かった。 「ミチ……っ」  バサッ。白い翼が羽根を撒き散らしながら広がっていく。これ以上想いを零さないようにと、強く押さえた胸が痛い。嗚咽とは違う息苦しさに、ミチは声を震わせた。 「ごめん、なさ……い。俺、真路……さんに、なれなくて」 「何言ってんだよ。お前はミチだろ……」  ミチの体に不意に流れ込んできたのは、真路の切ない想い。たった一言――英慈に言えないままこの世を去った後悔と、罪を犯した自身がそれを口にしていいのかという自責の念。 「――英慈、ごめん。俺……俺……っ」  英慈と手を繋いで、この水槽の前に立つのが夢だった。眩いほどの青に包まれて、少しでも穢れた身体を清めたかった。そして、すべての罪を許して欲しかった。大水槽の前でキスを交わしたカップルは、永遠に離れることはないというジンクス。それを――信じてみたかった。  英慈の目がゆっくりと見開かれていく。ゆっくりと、確実に絨毯を踏みしめミチのもとに近づいた英慈は、純白の羽根に包まれた青い天使の唇に自身の唇を重ねた。冷たくて乾いた唇。ミチの感触を確かめるように何度も啄み、壊れ物に触れるかのようにゆっくりと深く重なっていく。 「真路……」  唇を触れ合わせたまま、英慈が掠れた声で囁いた。その名に、ミチの涙が頬を伝った。自分は真路の生まれ変わりではない。彼の魂がどこにあるのかも分からない。それなのに彼は、ミチに触れながら真路の名を呼んだ。英慈の体が輪郭を描くように淡い金色に包まれる。キラキラと輝きながら微粒子が絨毯に零れ落ちていく。ミチの指先がそれに触れると、淡雪のように解けて消えてしまった。  魂の輝き――。そして、英慈の寿命が近づいていることを意味していた。 「英慈……さん」  ミチの声に気づいた彼はゆっくりと顔をあげた。触れていた唇がまだ熱を持ち、足元がフワフワと浮いているようだ。 「ど……して。俺……違うっ」 「分かってる。でも……真路がいるんだ。純白の翼を広げた真路が……いる」 「なに、言って――っ」  英慈は相貌失認症を患っており、真路の顔は認識できない。それなのに、どうして彼だと言い切れるのだろう。ミチは、真剣な眼差しで見つめる英慈から目が離せなくなっていた。狼狽しながらも、その目に映っているものを逃したくないと必死に繋ぎとめようとする様子が窺える。 「俺にも分からない。でも、キス……したくて。もう、離したくないって……。頭で考える前に、体が……呼び合った気がした」  英慈がミチを抱きしめた瞬間、大きく広げられていた翼は光の中に溶け込むように跡形もなく消えた。耳が痛くなるほどの静寂の中で、二人の息遣いだけが聞こえていた。 「俺は……違う。真路さんじゃ、ない」 「これが夢であってもいい。ついに幻覚を見たかと笑われてもいい。でも――間違ってない。真路は……俺のそばにいる」  ミチを抱きしめる英慈の手に力がこもる。その熱さと痛みよりも、ミチは自身の胸の内にある罪の重さに息苦しさを感じていた。ミチ自身、罪など犯したことなどない。まして、それがどんな罪なのかも分からない。それなのに、英慈に触れているだけでその罪悪感に押し潰されそうになっていく。 「苦し……ぃ。胸が、痛い……」 「ミチ?」 「も……ダメ。誰かのために生きるのは……も、やめて。自分のためだけに……生きて」  ミチの顔を見下ろしながら首をわずかに傾けた英慈は、荒ぶる思いを押し留めるかのように声を震わせて言った。 「どうして? 真路のことを忘れろってことなのか? お前が魂を洗濯して、天界で真路と逢わせてくれるんじゃなかったのかっ」 「違う! 間違ってないけど……そうじゃない。命が……削られていくの。誰かのために……何かをしようとすると、あなたの命が……っ」 「誰かのために死ねるって……望んでも、簡単に出来ることじゃない。それこそ、本望ってやつじゃないのか。――出来ることなら、あの時。三年前のあの時……アイツの代わりに死ねたら良かった」  ミチの肩に顔を埋めた英慈が、必死に嗚咽を堪えていることを知る。触れた場所から流れ込んでくる英慈の魂の声が、真路への一途な想いを告げる。その度にミチの胸は締めつけられ、息が出来なくなる。どこまでも深く、純粋で曇りのない愛。それを目の当たりにしたミチは、自身の邪な想いでは真路に勝てないことを悟った。 「――そんなこと、言わないでください。あなたはまだ……生きてる。生きてるから、真路さんへの想いを……繋げられる」  ピンと張りつめた空気がミチの言葉とともにゆっくりと綻んでいくのが分かった。不意に流れ込んでくるアナウンスの声、エスカレーターをはしゃぎながら駆け上がってくる子供たちの足音と、それを追う両親の怒号がフロアに響き渡った。弾かれるように離れた二人の間に、白い羽根が一本舞い落ちた。それを拾い上げた英慈は、ミチの顔色を窺うように問うた。 「これ、俺にくれないかな」  一度抜け落ちた羽根は、翼に戻したところで再生することはない。ミチは小さく頷くと、濡れた頬を乱暴に手の甲で拭った。 「ほかの羽根のように、いつか消えてしまいますよ?」 「それでもいい……。お前を感じることが出来るなら……それでいい」 「誤解しないでください。あなたが何を見たのか知りませんが、俺は真路さんじゃない。でも、彼の魂に触れた気がした……」  尻すぼみになっていったミチの声は、走り回る子供たちの歓声にかき消されて英慈に届くことはなかった。死者の魂が天使に乗り移るなんてことがあるのだろうか。それじゃあ、ミチの体から抜け出た真路の魂は、一体どこに消えたというのだろう……。  ミチはもう一度天井まである大水槽を見上げ、溢れてしまった英慈への想いを青い光の中に封じ込めた。神々しい光を放つガラスに触れ、天界にいながら逢ったことも見たこともない神に謝罪する。 『人間に恋をした、天使の憐れな魂を……お救い下さい』  もう十分すぎるほど救っている。――そう言われてしまえば文句は言えないが、天使の戯言など神に届くはずがない。まして洗濯屋の望みなど……。 「ミチ、行くぞ」  不意に手を掴まれ、強めに引っ張られる。英慈の背中にしたたかに鼻先をぶつけて、ミチは眉間に深い皺を刻んだ。 「痛い……です」  神の光が降り注ぐこの場所で、彼と手を繋いで口づけをかわす。それは絶対に違えることのない永遠の誓い。たとえこの身が朽ちようと魂は互いを呼び合い、幾多の困難を乗り越え再び寄り添う――。  恋人たちに言い伝えられているジンクス。都合のいい噂話だとかたづけるには、あまりにもリアルで……。ミチはぶつけた鼻先を撫でながら、振り返って笑う英慈を睨みながら思った。  あなたを嫌いになれる勇気が欲しい――と。

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