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【8】

「社長、ちょっとお時間いいですか?」  自身のデスクで物憂げな表情を浮かべていたミチは、思い切ったように窓際に座るシファに声をかけた。タブレットの画面を忙しなく指でスクロールしていたシファは、その声にゆっくりと視線を上げると、眼鏡越しにミチを眩しそうに見つめた。 「どうしたの? さっきから難しい顔して……。何かトラブルでもあった?」 「トラブル……。そうとも言えるし、そうでないとも言えます」 「なに、それ……。我が社の稼ぎ頭、ミチくんの悩みだ。何でも相談に乗るよ?」  ギシッと椅子を鳴らして立ち上がったシファは、彼の動きに反応して視線を上げたマナに「ちょっと席をはずすね」とだけ告げた。出口に向かい歩き出したシファ。ミチとすれ違う瞬間、彼の指先が腕を掠めていく。一緒に来い――という合図だ。急いで立ち上がると、彼の背中を追いかけるようにフロアをあとにした。  ダズルランドリーサービスは、規模的には小さいながらも自社ビルを所有している。ほかの企業と比べれば低層でフロア面積もそう大きくはない建物だが、居心地はどの企業よりもいい。各部屋のドアはすべて木製で統一され、共用スペースは目に優しいペールブルーを基調としている。優しい雰囲気でありながら拘りのあるインテリア。ゆるキャラであるシファ自身がプロデュースしたと聞けば誰しも納得がいく。 「――ここなら、ゆっくり話が出来る」  木製のテーブル、それと同じデザインの椅子が置かれたこじんまりとしたスペースは、スタッフが用途に応じて自由に使える場所となっていた。打ち合わせや商談、資料の閲覧や休憩室代わりに使う者もいる――といってもシファと五名のスタッフしかいないのだから、そう頻繁に使われることはない。  先に椅子に腰かけたシファは、入口で茫然と立ち尽くしていたミチに優雅な手つきで着座を促した。シファにスカウトされたことは感謝しているし、信頼もよせている。困った時は何でも相談に乗ってくれる上司の理想形ともいえる存在ではあるが、ミチはこの時初めて何から話せばいいのか言い淀んでいた。テーブルを挟んで遠慮がちにシファの向かいに腰かけたミチは、暫くのあいだ黙ったままだった。 「どうしちゃったの? らしくなっていうか……。ねぇ――今の仕事、ツラい?」  一向に目を合わせようとしないミチに焦れたのか、シファは身を乗り出して彼を覗きこんだ。いつも眼鏡にかかっている緩くウェーブした一筋の長い前髪がレンズの上を滑る。柔らかな栗色の猫毛。ピョンと跳ねた寝癖は健在ではあるが、眼鏡の奥にある薄いブルーの瞳にはいつになく強い光が宿っている。恐る恐る視線をあげたミチは、乾いた唇を湿らせるように、一度だけキュッと噛みしめてから切り出した。 「前にもお話したことがあったんですが……。クライエントと同調するというか……一緒にいるだけで苦しくなったり、涙が出てきたり……自分の体がおかしくなってしまったのかなって。社長は以前、俺はそういう魂に影響されやすい体質だって言ってましたけど、何かが違うような気がして。こんなこと、今までになかった……。それに、何度も同じ夢を見るんです。それも、日を追うごとにリアルに感じられるようになって……。息苦しさとか、自身を包み込む水の感触……闇の底に沈んでいく時の絶望と虚無。まるで……俺自身が、三年前に亡くなったクライエントの幼馴染と同じ経験をしているようで。生まれ変わりではないことは確かなんですよね。俺の魂、ここにありますから……。それなのに……」 「テラサカ……マサミチ?」  ポツリとその名を呟いたシファの声に素早く反応したミチは、勢いよく顔をあげた。彼は少し考え深げに小首を傾げると、顎に手を押し当てて低く呻いた。 「どこにいったんだろうね……彼の魂は」 「まだ、見つからないんですか?」 「魂の看守・審判を行うサリエル管理官に謁見し、データの見落としがないか聞いてみたんだ。開口一番「誰にものを言っている」ってメチャクチャ怒られちゃったんだけどね。でも、ないものはないって食い下がったら渋い顔してたけど。ただでさえコワモテなのに、あれじゃあ誰も寄りつかないよ」 「え……。サリエル管理官って……あの、天界庁統括管理部のトップですよね。会ったことないけど……怖い人だって噂は……」 「怖いのは顔だけ。でも、人間によって魂が穢されるのを何より嫌う人。彼の魔眼の前では誰も嘘はつけない。死を司る天使――彼がいなければ、この世界の平穏は保てない」  天界に迎えられる魂の審判・管理だけでなく、悪魔の手によって罪に誘われる魂を救うこともしているエリート中のエリート。そんなサリエルが、真路の魂を見落とすはずがない。シファは小さくため息をつきながら、机に両肘をついた。 「魂がないなんてことはあり得ない。そうじゃないとすれば、何らかの理由があって隠しているとしか思えない」  何気なく言ったシファの言葉に、ミチはハッと息を呑んだ。あの日、水族館の大水槽の前で英慈が見たという真路の姿。ミチに投影していたとはいえ、間違いなく彼だと言い切った。そして「体が呼び合った」とも言っていた。真路の体はこの世には存在していない。じゃあ、英慈が言った『体』とは……。 「魂……。真路の魂が……ここに、あるのか」 「え? ミチ……今、なんて?」  すっと目を細めたシファが興味深げに身を乗り出した。しかし、なぜだろう。彼の瞳はどこか冷めている。まるで「これ以上深入りするな」とでも言いたげに、ミチを牽制しているようにも見える。 「――なんでも、ないです。俺の勝手な妄想……」 「魂はね、器がないと生きられない。その器も魂自身が選ぶことは出来ない。生まれ変わる時は誰しもゼロからスタートする。リセットされた記憶は戻らない。でも、それを持ってこの世界に来た者は、生涯『人間であった時の罪』を背負って生きていかなきゃいけないんだ。その罪がどんなものかは俺も分からないけどね」  シファの薄い唇がわずかに笑みの形になる。薄いブルーの瞳が幾分濃くなっているようにも感じる。シファは謎多き人物だ。一般企業ではあり得ない天界庁の特殊案件を請負っているというのもあるが、何より彼のパーソナルデータがどこにも存在していない。彼を知ることが出来るのは、こうやって会話をし情報を聞き出すことだけ。それに、神に最も近い存在である十二人の天使の一人サリエルに謁見出来ることも不思議でならない。上層部の――しかも幹部クラスになると、一般天使との謁見はもちろんのこと、その姿を知る者もいない。安易に姿を見せることがない彼らの顔を知る者は、この広い天界でも一握りだろう。 「――ミチ。彼の寿命が近づいていることは分かっているよね? 上層部は彼の魂を欲している。稀有な魂は繊細で傷つきやすい。お前はその魂を守り、綺麗に磨き上げなきゃいけない。俺はね――ミチにしか出来ないと思ったんだ。彼の魂と同調できるお前しか……」 「同調……。それって……」  シファはミチの言葉を遮るように勢いよく立ち上がると、両手を上に伸ばして伸びをした。ふわりと甘酸っぱい香りが広がる。おそらく、先程まで口にしていたキャンディーのせいだろう。 「もうちょっと頑張って。この案件が終われば、夢も見なくなるだろうし、彼と同調することもなくなる。そうすれば今までと変わらないミチに戻れるよ」  キャンディーの香りと同じくらい優しく甘い微笑み。シファの手がミチの髪に触れた。柔らかな髪を指で弄びながら、彼は静かに言った。 「――人間、誰でも罪は犯す。たとえ他人を殺めなくても、知らないうちに罪を犯す生きものなんだよ。ミチ、お前だって何らかの罪を犯していたかもしれない。本心を隠すために身を穢し、誰かを悲しませていたかもしれない」 「社長……」 「でも――。それを悪とするか善とするかの判断はサリエル管理官でも難しい。自分で悪だと思うのなら……その罪に寄り添い、生涯をかけて償うしか出来ないんだよ」 「たとえば……どうやって?」  シファの長い指から髪が解けていく。それを名残惜しそうに見つめていた彼は、ふっと長い睫毛を震わせて視線を上げた。眼鏡の奥でブルーの瞳がわずかに揺れている。 「――それは本人にしか分からない」  小さく首を横に振ったシファはゆっくりと背を向けると、それ以上何も言うことなくその場をあとにした。硬い靴音が響く廊下。その音が遠ざかっていくのを聞くともなしに聞いていたミチだったが、心の靄は晴れるどころかさらに濃度を増した。シファの言葉は『答え』だったのか。それとも……ミチを導くための『ヒント』なのか。結局、何ひとつ解決していない。それよりも、もっと深い場所を覗き見てしまったような気がして背筋がひやりと冷たくなるのを感じた。 「誰かを愛することは罪……。その人のために身を犠牲にすることも罪……。それは悪にも善にもなる……。その罰はいつ……下される?」  じつはもう、下されているのかもしれない。大事なことを忘れ、大切な人を失っていく恐怖。それだけでも十分罰になる。さらに、そのことに気づかずに誰かを傷つけ、さらに苦しめていく。罰は一度だけじゃない。罪はまた、自覚することなく繰り返される。終わることのない連鎖は、転生してもなお続く。それは、神が人間に与えた試練……。ミチは唇を噛みしめたまま、暫く動くことが出来なかった。 「俺たちが犯した罪……」  静寂がミチを包み込んだ。窓から差し込む白い光の中に佇み、ただ茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。  *****  バイトを辞めた――そう、英慈から連絡があったのは三日前のことだ。そして、彼と連絡がつかなくなった。焦ったミチは英慈の住むマンションに向かったが、集合ポストに詰め込まれたダイレクトメールがそのままになっているところをみると帰宅した様子はない。電話もメールも応答がない。こうなると悪いことばかりが脳裏を横切ってしまい、じっとしていられない。落ち着かない夜を過ごし、ミチは寝不足のまま朝を迎えた。  シーツの上でスマートフォンが振動している。浅い眠りから一気に引き上げられたミチは、勢いよく上体を起こすとスマートフォンを握りしめた。液晶画面には『英慈』の名が表示されている。 「もしもしっ! 英慈さん? どこにいるんですかっ」  通話ボタンを押すと同時に、ミチは声を荒らげた。耳を澄ますと、スピーカーからは街の雑踏が聞こえる。比較的交通量の多い場所。そして遠くの方で発車を告げる駅のアナウンスも聞こえる。 「英慈さんっ」  もう一度問いかけると、電話の向こう側で彼がクスッと笑ったのが分かった。 『おはよう。何を焦ってんだよ、ミチ……。もしかして、俺が自殺でもするんじゃないかって思った?』 「ほかに何を考えるんだよ!」と怒鳴りたい気持ちをグッと抑え、ミチは自身を落ち着けるように深く息を吸い込んだ。 「突然音信不通になれば、心配にもなりますよ……」 『ごめん。身辺整理してた……いつ死んでもいいように』 「英慈さん。まさか、自分が死ぬってことを――」 『言うわけないだろ。理由も分からない、ましてその時期も分からないのに迂闊に口にできるかよ。でも、それとなく……な。勘がイイ奴は気づくかもしれないな』  自嘲気味に笑う彼の顔が浮かぶ。ミチは、見るともなく見つめていた壁からすっと目を逸らすと、大仰にため息をついてみせた。 「――どこにいるんですか?」 『バイト先の近く。なあ、ミチ……。これから会えないか?』 「これから……ですか? ちょっとお時間を頂きますが、それは可能ですよ」 『じゃあさ。俺がいつも使ってた駅、分かるよな? そこで待ってる。真路との思い出を巡る旅……これで、終わりにしようかと思って』 「英慈さん?」 『気をつけて来いよ。待ってるから……』  どこまでも優しげな声。初めて会った時には想像もしていなかった彼。会うたびに笑顔が増え、触れるたびに魂が発する温かさに涙が溢れそうになる。死を目前にした人とは思えないほど、彼の表情は今までになく生き生きとしていた。  英慈との通話を終え、ミチの動きは寝不足とは思えないほど早かった。ベッドから飛び降りるとシャワーを浴び、シャツと細身のパンツというシンプルだが清潔感のある服装に着替える。まだ湿り気を帯びた髪を手櫛で整えながら、玄関の壁に掛けられた鏡を覗きこんだ。そこには、英慈が生きていたという安心感とともに、気を抜いたら彼への想いが溢れそうになる不安を抱えた、何とも複雑な表情を浮かべている自分がいた。無理やり笑顔を作ってみるが、頬が引き攣り自然には見えない。営業用の笑顔なら……と試してみるが、それも上手くいかなかった。思わず漏れてしまったため息を逃がすように玄関ドアを開けると、朝の清々しさを残す風が残りわずかな夏を惜しむように吹き抜けた。  暑い暑いと騒いでいた夏も、もうすぐ終わる。だが、日中の気温はなかなか下がることがなく、秋の訪れを告げる気象庁も困惑しているようだ。  マンションの階段を駆け下り、最寄の駅へと足早に向かう。ミチが人間界に滞在するようになって三ヶ月以上が経っていた。仮の住まいとなっているこのマンションの周辺にも詳しくなり、英慈のバイト先であるドラッグストアに向かうための乗り換え案内図を見なくても済むまでになっていた。何度も通い慣れた道。英慈がバイトを辞めた今、もうあの駅に降り立つことはないだろう。  ミチがマンションを出てから三十分後、駅前のロータリーにあるパン屋の前で、スマートフォンを見ながら人待ち顔で佇む英慈を見つけた。嬉しさに駆け寄ろうとして、一瞬とどまる。すっと息を吸い込んで気持ちを落ち着けたミチは、つとめてゆったりとした足取りで彼の前に立った。 「お待たせしました」 「早かったな。かなり急いだろ?」 「いいえ。ここに来るのもずいぶん慣れましたし……」 「そうだよな。じゃ、行こうかっ」  手にしていたスマートフォンをデニムのポケットに捻じ込んだ英慈は、迷うことなくミチの手を掴んで歩き出した。 「ちょ、ちょっと……英慈さんっ」  慌てるミチを振り返ることなく信号を渡り、足を緩めることなく歩道を歩いていく。彼の歩幅に遅れまいと必死に足を動かしていたミチだったが、ふと彼が足を止めた。そして、肩越しに振り返ると息を切らしているミチを見下ろして、バツが悪そうに苦笑いを浮かべた。 「ごめん……。俺、焦ってるみたいだな」 「いえ……。大丈夫です。ちょっと驚いただけで……」 「この先にある喫茶店。そこが旅の最終目的地」  英慈の言葉に視線を上げたミチの目に映ったのは、あの洋菓子店『repos』の古びた看板だった。小さく息を呑んだことを気づかれまいと、ミチは軽く咳払いをして見せた。 「大丈夫か?」 「平気です。あのお店……ですか?」 「そう。真路のお気に入りの店。毎回、同じものをオーダーして……。美味しいからって、俺にすすめるその時の顔が忘れられなくて。今でも彼の月命日には必ず来るようにしていた」  英慈は、彼のあとを追いかけたミチが密かにあの店を訪れていたことを知らない。そして、二人がオーダーしていたというシフォンケーキを食べたことも……。普段から多くの客が出入りする店とは違う。スタッフの女性がミチの顔を覚えていたら、ちょっと厄介なことになる。 「そうなんだ……。真路さんとの思い出の味……なんだね」 「ミチもきっと気に入ると思う。行こうっ」  躊躇しながらも、英慈の嬉しそうな表情に抗うことが出来ず店へと向かった。重厚な木製の扉を開けるとカウベルが心地よい音を鳴らす。ぐるっと薄暗い店内に視線を走らせたミチは、レジカウンターの脇にある古い置時計を見つめ、その振り子が動いていないことに気づいた。以前来た時は、危うげではあったが確かに動いていた。 「いらっしゃいませ」  カウンターの奥から顔を覗かせたのは、あの時と同じ女性スタッフだった。相変わらず店内には客はいない。「お好きな席へどうぞ」と声を掛けながらも、英慈の顔を見た彼女は、彼がいつも座るテーブルの方にチラッと視線を向けた。顔を見られまいと少し俯き加減のまま英慈のあとに続いたミチは、テーブルを挟んで彼の向かい側に座った。 「ご注文はお決まりですか?」  柔らかな声音で問う彼女に、英慈は「いつものセットを二つください」と言った。その時初めてミチの顔を見た彼女が小さく息を呑んだのが分かった。ミチは英慈に気づかれないようにウィンクすると、彼女は納得したように足早に戻っていった。 「いい雰囲気の店ですね。古い物がいっぱいあるなぁ……」  物珍しそうに見回すミチを黙って見つめていた英慈は、椅子に凭れるようにして言った。 「もともとは洋菓子店だったらしいんだ。このあたりじゃ老舗って呼ばれるくらいの。でも、ある時から喫茶店をやり始めたんだ」 「そうなんですか?」 「――マスターの奥さんが亡くなって、数も種類も作れなくなったからだって。真路って不思議なところがあってさ、初対面の人に警戒されないっていうか……なんでも話せちゃうみたいな感じだった。それだけ、心の器が大きくて……優しかったんだと思う。道を尋ねられただけなのに、その人の話を真剣に聞きすぎて学校遅刻したり、知らない女性の相談に乗ってたり。どこか、ミチに似てるなって……。怖いもの知らずっていうか、警戒心なさすぎっていうか……」 「警戒心ぐらいありますよっ。それに俺は、真路さんみたいに気が長い方じゃない」 「そうか? 根気強く俺のあとを追いかけ回してただろ」 「それとこれとは別です。仕事ですから……」  ミチの言葉に英慈の目がわずかに揺れる。ミチが言う「仕事ですから」という言葉が好きではないようだ。何でも『仕事』で片づけるミチに苛立ちを覚える英慈の気持ちは痛いほど分かる。でも、それを振り切るにはこう言うしかないのだ。それでも心を鬼にして『仕事のフリ』を演じなければならないミチの方が、彼の何倍も傷ついている。 「――おまたせしました」  テーブルに運ばれてきたシンプルなシフォンケーキとオリジナルのブレンドコーヒーを黙ったまま見つめていたミチは、何かを思い立ったように女性スタッフに問うた。 「あのっ。このケーキってテイクアウト出来ますか?」 「え? ちょっと、マスターに聞いてみないと……」  シフォンケーキはショーケースには並べていない。前回も今日もそうだった。シファに食べさせてあげたいと思ったのは嘘ではないが、何よりその理由が知りたかったのだ。今までにそんな申し出などなかったのか、戸惑いを見せる彼女に助け船を出したのは意外な人物だった。 「――大量には出せないよ。それは一日ワンホールしか焼かない」  古びたカウンターの奥から顔を出したのは初老の男性だった。髪はすっかり白くなっていたが、眉間に刻んだ深い皺がただならぬ拘りを見せている。ミチとスタッフのやりとりをコーヒーを啜りながら見ていた英慈だったが、マスターの声を初めて耳にしたのか、わずかに片方の眉をあげた。  ミチは肩越しに振り返ると、小さく頭を下げた。そして、眉間に皺を刻んだままシフォンケーキを口にしている英慈を見つめ、自身もそれを口に運んだ。ふわりと優しい甘さが口の中に広がる。このケーキを食べるのは二度目だったが、やはり懐かしさを覚える味だった。 「――真路さんは、これが好きだったんですか?」 「あぁ。この店ではこのセットしか頼まなかった。相当気に入っていたんだろう」 「それ、何となくわかります。俺も……多分、これを頼むと思うから」  少し驚いたように顔を上げた英慈がミチを見つめる。二人の視線がぶつかったとき、英慈がぼそりと呟いた。 「そっか……。気に入ってもらえてよかった」  口に入れたケーキをコーヒーと共に飲み込む。どちらかといえば甘党寄りであるミチからしてみれば、もっと味わえばいいのにと思う。真路との思い出の味。そして、毎月の命日には必ずここを訪れている英慈。  ミチは、最後の一口を大切そうに口に放り込むと、満面の笑みを浮かべて英慈に言った。 「――もう、我慢しなくてもいいと思いますよ」 「え……?」  ハッと息を呑んで顔を上げた英慈の指がかすかに震え、ソーサーに戻したコーヒーカップがカチャンと小さく鳴った。それまで隠していたことが露呈されたかのような動揺が、彼のいたるところに見られた。根が素直な英慈に、そもそも隠し事など出来るはずがないのだ。おそらく……真路も気づいていたはずだ。 「甘いもの、苦手でしょ? 真路さんが好きだったから我慢して食べていた……違いますか?」 「……」  ミチの視線から逃れるように俯いた英慈は、黙ったまま小さく頷いた。いつになく素直な彼の様子に、真路の想いを巡る旅が本当に最後であることを知る。 「――言えなかった」  懺悔にも似た英慈の重々しい掠れ声に、ミチは小さく吐息した。 「多分、気づいていたと思いますよ。英慈さんって顔にすぐ出るので」 「え?」 「気づいていないのは自分だけ。真路さんも分かっていて咎めることはなかった。それに……二人の関係がギクシャクすることを恐れ、知らないフリをしてあなたを誘った。でも、真路さんのためだって苦しい思いをしても、彼は決して喜ばない。ここで終わりにするなら、最後に素直になったらどうですか?」  テーブルの上に乗せられていた英慈の手から力がみるみる抜けていく。それが彼の膝の上に落ちた時、彼の頬には幾筋もの涙が伝っていた。俯いたまま肩を震わせる。嗚咽を堪えながら呟いた彼の言葉に、ミチは心が激しく締めつけられた。 「言えなかった……。アイツの嬉しそうな顔見たくて……言えなかった。でも、もう……終わり。やっと……楽になれる」  安堵のせいか、それとも自身の死を改めて自覚したためか。英慈の肩がガクンと落ちた。ミチは咄嗟にテーブルの下で彼の手を強く握っていた。今、この手を離したら……彼はもっと自分を責めてしまう。 「お疲れ様。もう、我慢はしないでください……」  我慢は――したくない。ミチ自身、それが出来たらどれだけ楽になれるだろう。英慈の体から金色の光が溢れ出す。その粒子で薄暗い店内がぼんやりとオレンジ色の光で満たされていく。温かな英慈の魂に触れ、ミチは安堵した。彼が落ち着くまで、しばらく席を立つことはなかった。スタッフの女性も不安げに見つめていたが、すぐカウンター内へと姿を消した。 「――ミチ」  鼻を啜りながら呟いた英慈に小首を傾けたミチは、繋いでいた指がゆっくりと離れていくことに気づいた。彼の温もりが消え、エアコンで冷やされた空気だけが二人の間に流れた。 「もう、ここに来ることはないよ。全部……終わったから」  意を決するように顔を上げた彼は、天井を一度だけ仰いでから笑った。無理やり作ったことが分かる笑顔だったが、ミチは何も言うことなく微笑み返した。 「ここは俺が払います。英慈さん、外で待っていてください」  ミチの申し出に「ごめん」と応えた英慈は、ゆっくりとした足取りで店を出ていった。それを窓越しに見たミチもまた席を立った。そして、マスターがいるカウンターへと向かった。年季の入ったサイフォン式コーヒーメーカーがコポコポと音を立てている。フラスコ内で熱せられた湯が上にセットされたロート内へと上昇していく。そこから立ち上るのは、香ばしいコーヒーの香り。ミチはカウンターの奥でこちらに背を向けたまま俯いているマスターの、細く頼りなげな背中を見つめた。体の輪郭に沿って零れ落ちる光の粒子。それはまさに、彼に死が近づいていることを意味していた。 「――この前も来てくれた子だね。彼とは知り合いだったのかい?」 「ええ……。あの、ここのシフォンケーキ、先日初めて食べたのにどこか懐かしい味がして。優しくて……柔らかくて、宇宙一美味しいって思いました。それを伝えたくて……会えてよかった」  ミチの言葉にマスターはゆっくりと振り返った。信じられないというように目を見開き、ミチをじっと見つめている。不思議そうに首を傾けたミチに、彼は声のトーンを抑えて言った。 「前に……君と同じことを言ってくれた子がいた。あの彼といつも一緒に来てくれた子だ。三年間に亡くなったと聞いたが。君は、もしかして……あの子の生まれ変わりかい?」 「え……」 「どことなく似てるんだよ。俺の勘違いかもしれないが……」  生まれ変わり――そうだと言えたらどれだけ楽になれるだろう。ミチは唇を噛んだまま小さく首を横に振った。 「気に障ったら許して欲しい。ちょうど良かった……今月いっぱいで店を閉めることにしたんだ。毎月、あの子の月命日に来てた彼……甘い物が苦手なのは俺も気づいていた」 「マスター?」 「俺も、そうだったから……。連れ合いが死んで、やっと甘い物から解放されるって思ったけど……ダメだった。苦手な物を毎日作って……。でも、あの子の嬉しそうな顔を見たらまんざらでもないなって思えて。そうやって騙し騙しやって来たけど、体の方が悲鳴をあげだした」  ミチは照れくさそうに笑うマスターから目が離せなくなっていた。話している間もサイフォンから目を離さないマスターの職人気質な部分に、真路を一途に想う英慈を重ねる。頑固なくせに、大切な人のためには自身を犠牲にする。その人の笑顔を見ることだけが生き甲斐であるかのように……。 「俺はもう長くないんだ……。君にこんな話をするなんて……ヤキが回ったかな」 「そんなことないです。もし、俺じゃなくて……あの子だったとしても、そう話したでしょ?」 「あぁ……多分ね。連れ合いのことは今でも愛してる。でも最期に……「甘い物は苦手だった」って、告白してもいいかなって思えてな。「どうして今まで黙ってたの?」って怒ったあとで、きっと笑って許してくれる気がするんだ。その顔を見れたら……それだけでこの人生は幸せだったって思える」  亡くなった奥さんの事を思いながら語るマスターの体からキラキラと光が零れ落ちる。誰かのために残りの生を削り、その想いを捧げる。そうして、すべての光が零れ落ちた時、人生をまっとうし天に召される。最愛の人と、転生し再び出逢えることを願いながら……。 「きっと許してくれると思います。奥様、天界で……待ってますよ」 「え?」 「また奥様のためにシフォンケーキを焼いてください。きっと、きっと……その幸せは永遠のモノになる」  ミチは自身の翼の羽根を一本差し出すと、マスターに渡した。訝しげにそれを受け取ったマスターだったが、ミチの金色にも見える淡褐色の瞳を見つめ、ゆっくりと目を見開いた。 「天使……。もう、迎えが来たのか?」  ミチは首を横に振ると微笑みながら言った。 「振り子時計、もう少し動かしてみたらどうですか? 止めてしまうには、まだ早いですよ」  マスターの魂が温かな光を放つ。それは英慈とは比べ物にならないくらい弱々しいものだったが、間違いなく天界への切符を手にしている証拠だった。それを確信したミチは、つとめて明るい声で言った。 「残っているシフォンケーキ、全部いただけますかっ」  その声に弾かれるように、マスターの目尻の皺が深くなる。その顔を見たスタッフが驚いたように息を呑んだ。普段は無愛想で笑ったところを見たことがなかったからだ。  この店には傷ついた魂が二つあった――いや、もう傷は完全に修復され、あとはその時が来るのを待つだけとなっている。その魂を無事に天界に送り届けるのは天使の仕事だ。マスターの魂もきっと、有能な天使が迎えに来る。そう信じて、ミチはマスターの皺だらけの手を握った。その時、止まっていたはずの振り子時計が時を告げた。掠れた音ではあったが、それがマスターの最期の意思のように思え、ミチは溢れそうになる涙を必死に堪えた。 「ありがとう……。君に会えてよかった」  マスターの声が冷えた空気を穏やかなものへと変えていく。最愛の人と共に過ごしたこの店での思い出が、店内のいたるところから溢れ出す。古時計が奏でる音に、ミチの中で開くことのなかった鍵が外れた。それは遠い過去に失くした記憶。その断片が一瞬、脳裏を横切った。 「俺の、大切な人。心から愛して……た、ひと」  外で待つ英慈を振り返り、ミチは薄い唇を噛みしめた。その後ろ姿は、たった今脳裏をかすめた影に酷似していた。

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