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【9】

「この公園にも、もう来ることはないな」  手にしていた花束を池に投げ込んだ英慈は、隣に立つミチを見下ろして小さく笑った。自分の死を目前に、真路との思い出を巡った旅は終わった。魂の洗濯もほぼ終わり、あとは悪魔に魂を横取りされないように守り切るだけだ。  ミチに向けられる優し気なまなざし。しかし、これがいつ消えてなくなってしまうのかと考えるだけで、仕事を忘れ神に縋りたくなる。もう少し、もう少しだけ――一緒にいたい。喫茶店『repos』で見た記憶の欠片。あれが確かなものであるとするならば、やはり自分は真路なのではないかと思えてくる。魂の所在も分からないい今、嘘をついても誰も疑うものはいない。そう――シファとサリエル以外は……。  真実を捻じ曲げることはいくらでもできる。だが、そうやって得た愛は本物に成り代わることが出来るのか。傷も修復され、綺麗に輝き始めた英慈の魂を曇らせてしまうかもしれない。それが洗濯屋であるミチの仕業だと知れたら……。  ミチは邪な想いを払拭するように小さく首を横に振った。余計なことは考えない……そう、心に決めたのに。 「――ミチ。今夜は何を食べに行こうか」 「英慈さんは何が食べたいですか?」 「――お前」 「え?」  いつものミチならば聞き流していたであろう英慈の呟き。その声は耳を澄まさないと聞こえないほど小さかったが、今日に限ってハッキリと聞こえてしまった。夏の終わり。少しひんやりとした風が池の上を吹きぬけた。水面に落ちた葉が風に煽られ、いくつもの波紋を広げていく。それはまさに、ミチの心の中を表しているかのようだった。 「――冗談。こういうこと言えるくらい余裕が出てきたってことだ」  慌てるでもなく、変に取り繕うでもなく、英慈は笑いながらそう言った。ミチは複雑な表情を浮かべたまま、流されていく落ち葉をぼんやりと見つめていた。その時、すぐ近くで硬い靴底が砂利を踏む音が聞こえ、ハッと我に返った。音のした方に顔を向けると、そこにはスーツを着た長身の男性が立っていた。 「いろいろと俺のことを嗅ぎまわってる奴がいるって聞いたが……英慈の知り合いだったとはな」  彼の薄い唇から発せられる低い声がひどく耳につく。その声に弾かれるように顔を上げた英慈は、咄嗟にミチを背中に庇うように足を踏み出していた。彼の魂がひどく怯えている。同時に、憎悪にも似た感情が湧き出し、輝きを徐々に失っていく。 「英慈さんっ。この人は……」  彼のシャツを掴んで問うたミチを、英慈は肩越しに睨みつけて一喝した。 「黙ってろ。何も、言うな……」  いつになく厳しい表情を浮かべる英慈に緊張感が走る。そんな彼を見たスーツの男は、鼻を鳴らして笑うと後ろにいるミチを覗き込むように身を屈めた。 「俺に用事があるみたいだったから、わざわざ出向いてやったのに……。こいつが邪魔で話も出来ないな。なぁ……今度、二人きりでゆっくり話さないか? お前の知りたいこと――そうだな、真路のことを教えてやろうか」  彼の黒く鋭い目がミチを捉える。英慈のそれとはまるで違う血に飢えた野獣のような目……。サラリーマンにしては不自然な赤茶色の髪、年齢はミチが見る限り英慈とそう変わらない。しかし、年齢の割にかなり稼いでいるのだろうか、近くで見るとかなり仕立てのいいスーツを着ている。ミチはゴクリと唾を飲み込んで、上目づかいで彼を見つめた。その瞬間、彼の体の輪郭を形作るように漆黒が渦巻いた。瞠目したまま一歩後ろに下がったミチに気づいた英慈が、彼を制するように強い口調で言った。 「お前に用はない。彼に近づくな……」 「へぇ……。幼馴染の真路を亡くして、失意のどん底にいるって噂を聞いていたが、もう代わりを見つけたのか。しかも……真路に雰囲気が似てる子を探すとは。どこまで未練タラタラなんだよ。アイツは事故で死んだ。俺を最後まで疑いやがって……胸糞悪いったらありゃしない。おかげで今の仕事にも少なからず影響が出てる。アイツの知り合いじゃなきゃ、名誉棄損で訴えてやったのに」  その言葉でミチは、彼が元内徹平であることを知った。英慈が『悪魔』と言った意味が今なら理解できる。なぜなら、彼は本物の悪魔――いや、そうなろうとしているのだから。幼少期に悪魔に魅入られた者は、成長するにつれ負の力を増していくという。そして、悪魔と血の契約を交わした人間は、人間でありながら悪魔と化し人間の魂を食らう。上質な魂を食らうほどに魔力が使えるようになるとシファから聞いたことを思い出した。彼はまだ成長途中の段階だ。悪魔として自ら魂を奪うことはできないが、それに限りなく近づいていることは確かだった。 「元内……徹平……」  ミチがその名を呟いたとき、彼は満足そうに微笑んだ。 「俺ってちょっとした有名人だから、すぐに名前が知られちゃうんだよな。なぁ、お前の名は?」 「そんなこと、どうでもいいだろっ」  怒りに任せて怒鳴った英慈に、徹平は挑むような目を向けると唇を片方だけ釣り上げて言った。 「お前には聞いてない」  徹平が纏った闇が、まるで生き物のように大きくなる。このままでは英慈が巻き込まれかねない。ミチはすうっと息を吸い込むと、恐怖で動かなくなった足を引きずるように一歩前に踏み出した。 「英慈さんは関係ありません。あなたを探していたのは俺ですっ」 「へぇ……。そういうところも真路にソックリ。その勝気な目……泣かせてみたくなる。仲良くしようぜ……」  握手を求め差し出された徹平の手。ミチはそれを見た瞬間、今までにない恐怖を感じ、喉から出そうになった悲鳴を必死に呑み込んだ。指先から滴る赤黒い血。スラックスのポケットに入れられたもう片方の手も真っ赤に染まっている。これは……彼が今までに手に掛けた者の血。何度洗ってもそれは染みついて消えることはない。人間である英慈には見えていないと分かっていても、さすがに彼の顔色を窺ってしまう。凝視することが出来ずにミチが目を逸らした時、周囲の空気を揺るがすような声が響いた。 「やめろっ! ミチには手を出すな……っ」  声を荒らげた英慈は、思わずミチの名を口走ったことに気づかずにいた。だが、それを聞き逃す徹平ではなかった。ニヤリと不気味な笑みを浮かべると、自身のポケットから名刺を一枚取り出して、ミチのジャケットのポケットに捻じ込んだ。そして、すっと目を細めて眩しそうにミチを見ると笑いながら背を向けた。 「話が聞きたかったらいつでも連絡をくれ。お前のためなら特別に時間を作ってやるよ……ミチくん」  おどけたように言いながら去っていく彼の背中には、うっすらと黒い翼が揺れていた。それはまだ具現化できない『仮』のもの。でも、悪魔としてのランクが上がるのはそう遠くない。あの男に近づくのは危険だ。しかし、真路の死の真相に近づけるかもしれないと思えば、恐怖に打ち勝つことが出来る。英慈の魂を完璧にするには、彼が抱えている罪をリセットする必要がある。そのためには、どうしても徹平との接触が必要不可欠だった。 「――関わるな。あの男に、関わるんじゃないぞ」  英慈の口調は強く、どこか怒気を孕んでいる。不機嫌な様相を見せる英慈を見上げ、ミチはため息まじりに言った。 「知りたいんです、真路さんのこと……。それは英慈さんも同じはずです。彼の事故にあの男が関わっているとすれば、英慈さんだって黙ってないでしょう」 「――今更、分かったところでどうしろっていうんだよ。俺はもうすぐ死ぬんだぞ」 「完璧に仕上げたいんです。わだかまっていることをクリーンにしてこそ、魂はより強く美しくなれる……から」 「そんなこと、どうでもいいんだよっ。お前に何かあったら……俺は……俺はっ。真路だけじゃなく、お前も助けられないなんて……そんなの、もう……いやなんだよっ」 「英慈さん……。俺は大丈夫――」 「絶対って言葉は、この世界にないんだよ! アイツも「大丈夫」って言ってた……。全然、大丈夫なんかじゃない……。あの男は……俺からすべてを奪っていく」  英慈は自身を抱きしめるように腕に爪を立てた。大切なものを奪われる恐怖と喪失感。それは経験した者でなければ分からない。でも、ミチには痛いほど理解できた。心にぽっかりと開いた穴は、どうやっても塞げない。時間が傷を癒すなんていうのも気休めに過ぎないことを知っている。それでも、人に寄り添い魂を洗濯するのがミチの仕事なのだ。他人の傷は今までの経験値で修復することが出来る。しかし、自分の傷は深くなっていくばかりで癒えることはない。 「何があっても、必ず英慈さんのところに戻ると約束します。俺、天使ですよ? 人間相手に負けると思います?」  凍てついたその場の空気を何とか緩めようと、ミチは英慈の腕にじゃれるようにしがみつきながら笑って見せた。本当は怖くて仕方がない。いつ悪魔に変化するか分からない状態の徹平と対峙することは、いくら天使であっても危険極まりない。出来る事なら逃げ出したい。このまま徹平と会うことなく、彼の手が絶対に届くことのない天界に英慈の魂と共に帰りたい。英慈に言っていることとは裏腹に、弱い自分が顔を覗かせる。それを必死に隠しながら、ミチは笑顔を向けた。 「何があっても……俺のところに……」 「はい! 這ってでも戻ってきます」  ミチに向けられたのは、いつものような優しく慈しみのある眼差しではなかった。英慈の野性味を帯びた焦げ茶色の瞳が心なしか潤んでいる。重々しく、どこまでも深い悲しみを湛えたその目から視線を逸らすことが出来なかった。彼を笑顔にさせるだけが洗濯じゃない。そして、絶対に悲しませることがあってはならない。ミチは自身の使命をもう一度反芻した。英慈のため――じゃない。洗濯屋としてのプライドを守るために、徹平と向き合うことを……。  *****  帰り道は二人とも終始無言で、しまいには雨まで降ってきた。夏の終わりの冷たい雨は、ミチの体の芯まで冷やしていった。自身のマンションに向かうはずが、すっかり言い出すタイミングを逃し、ミチは英慈のマンションの前まで来てしまっていた。 「――あのっ。俺、帰ります」  エントランスの入口で足を止めたミチは、思い切って口を開いた。視界を遮る濡れた前髪から雫が落ちる。その隙間から見えたのは、初めて会った時と同じように暗い目をした英慈の姿だった。ミチの声にゆっくりと振り返った彼は、黙ったまま距離を詰めると、ミチの手を掴んでエレベーターホールへと向かった。 「離して……。英慈さんっ」 「そのまま帰ったら風邪ひくだろっ」 「英慈さん……」 「天使だって……人間と変わらない。もう少しだけ……一緒にいてくれないか」  暗い部屋。スイッチに手を伸ばしかけたミチの手を、英慈の手がそっと制した。ぐっしょりと濡れた服は肌に張り付き気持ちが悪い。温度も下がったせいで、早くシャワーを浴びないと本当に風邪をひいてしまいそうだ。ミチは薄闇の中で彼に背を向けたまま、水気を含んで重くなったジャケットをから腕を抜きながら言った。 「英慈さん。先にシャワーを浴びてください」  背後で彼が身じろぐのが分かったが、返事は返ってこなかった。振り向きたい。でも、ミチの耳に届く彼の息遣いがそれを躊躇わせた。彼の大きな手がミチの細い腰を引き寄せた。驚いて目を見開いたミチだったが、喉が詰まったようになり声が出せない。互いの濡れた洋服が密着し、体温が少しずつ伝わってくる。でも、冷え切った肌はなかなか温まることはなかった。 「英慈……さん?」  探るように彼の名を呼ぶ。その答えは、濡れたシャツ越しに背中に押し当てられた唇だった。 「英慈さん、なにを……っ」  人間界にいる間、背中の翼は開くことがない。水族館での出来事はミチにとっても驚きだったが、根元にあたる肩甲骨のあたりに翼をかたどったモチーフのようなものが左右対称にあるだけだ。薄いブルーのタトゥ―のようにも見える。それを他人に見せることはないが、もし見られてもこれが翼であるということは気づかれない。しかしミチが着ていた薄いシャツが透け、英慈に気づかれてしまったようだ。大切なものに触れるかのように、遠慮がちにそのモチーフをなぞる。英慈がラインに沿って指を這わせるたびに、ミチはゾクゾクとしたものが背を這うのを感じていた。 「やめ……っ。英慈さん……やめてっ」  自然と息が上がってしまうのは、そこが天使にとっての性感帯だからだ。 「やだ……。やめて……英慈、さんっ」  腰を抱いた彼の腕は力強く、少々もがいたところで簡単に解けるものではなかった。ミチは焦りを感じながらも、背中に与えられる甘い疼きに小さく声を上げた。 「いやぁ……んっ」 「ミチ……。ミチ……」  嘆きにも似た苦し気な英慈の声が聞こえる。何度もミチの名を呼び、濡れた背中に唇を押し当てる。その熱がミチの心を激しく揺さぶった。英慈の思わせぶりな言動がミチの決意を揺るがし、理性さえも突き崩していく。いっそ、このまま禁を破って英慈に委ねてしまおうかとも思う。だが、そうさせまいとストッパーをかけるもう一人の自分がいる。 (真路の代わりでいいのか?)  小さく首を横に振る。 (それで、お前の心は満たされるのか?)  英慈の中にミチは存在していない。ミチの容姿が真路に似ていると、彼に言われたせいだ。顔も認識できない最愛の幼馴染とミチをただ……重ねているだけ。ミチは俯いたまま肩を震わせた。それに気づいた英慈は、背中に頬を押し当てたまま動きを止めた。 「――俺は、真路さんじゃ……ない。苦しいから……やめ、て……ください」 「どうして、苦しいんだ?」 「どうして……そうやって、意地悪なことばかり言うんですか。俺は……真路さんの身代わりじゃない。生まれ変わりでもない……それなのにっ」  胸が苦しい、息が出来ない。心臓が張り裂けそうなくらい鼓動が打ち続けている。きっと英慈にも聞こえているはずだ。それも今のミチには耐えられないほど苦痛だった。自身の想いが溢れ出して止まらない。恥ずかしくて、痛くて……この場から消えてなくなりたかった。ミチの目から大粒の涙がいくつも零れ落ちた。その雫が英慈の手に落ちた時、背中を振動させるような低い声が響いた。 「――もう、我慢するなって言ったの……お前だろ」 「なに……言って、るの?」 「好きとか嫌いとか……。言わないでいることの苦しさって、思った以上にツラくて……。甘い物が苦手ってだけじゃなくて……。俺、アイツに言えなかった。死んでから三年も経って……今更って思われるかもしれない。でも……もう我慢できない」 「英慈さん……?」 「――きだ。好きだ……」  英慈の告白は薄闇に溶け込んでしまいそうなほどか弱く、儚かった。今は亡き真路に向けた言葉だと分かっていても、ミチの心はもう制御できないところまで来ていた。ギリギリのところで思いとどまっている理性。これが崩れたら、英慈との関係も終わる……。 「長い間、言えずにいた……。俺は、真路のことが……好きだった。ううん……今も、愛してる」 「ど……して、俺に……言うの? 俺は真路さんじゃ――」  泣きながら声を上げたミチだったが、次の瞬間フローリングの床に敷かれたラグの上に押し倒された。驚きでうまく息が出来ない。上に重なる彼の体を押しのけようともがくが、呆気なく両手を縫い留められてしまう。 「ごめん……。お前の中にいる――いや、お前の魂に触れたい。もう一度……逢わせてくれ……これでもう、終りにするから」 「終わりにするって……。英慈さん、真路さんのこと……忘れるってこと、ですかっ」  ミチの濡れ髪がラグに散らかる。すぐ上にある英慈の真剣な眼差しに小さく息を呑んだミチは、それ以上言葉を紡ぐことをやめた。真路の想いを巡る旅は、英慈にとって真路との決別を意味していた。もう二度と会うことが叶わないと分かっていたのか、それとも……。 「やだ……。やだ……英慈、さ……ん、こんなの……やだっ」  肌に張り付いたシャツのボタンが外されていく。露わになったミチの白い肌にキスを落としながら、胸の突起を指先で転がす。ミチは泣きながら何度も首を横に振った。 (こんなの……レイプと変わらない!)  密かに想いを寄せていた男に犯される。しかも、ほかの男の面影を重ねられながら……。嫉妬と理性がせめぎあい、ミチの頭を混乱させる。真路という存在がなければ英慈に出逢うことも、惹かれることもなかった。でも……心から拒絶することができない。彼の乾いた唇がミチの唇に重なる。雨と涙に濡れた唇を吸うように何度も優しく啄む。それなのに、英慈の眉間に刻まれたままの深い皺は一向に消えることがなかった。苦しいから、我慢できないからというのは言い訳。真路さんを忘れることなんかできないくせに、無理やり裏切ろうとしているのが分かる。英慈の感情はすぐに顔に出る。ミチを抱くことで、忘れた気になれるなんて……勘違いも甚だしい。 「ミチ……」  わずかに開いた隙間から忍び込んだ彼の舌に翻弄される。歯列をなぞり、口蓋を愛撫するように何度も行き来する舌。逃げるミチを追いかけるように絡んでは、互いの唾液が混ざり合い小さな水音を立てる。腹立たしい反面、英慈から与えられるキスが心地よくて仕方がない。天使になってから誰かとキスをすること自体初めてだったが、英慈とのキスはなぜか、シフォンケーキを食べた時と同様に懐かしさがミチの体を包み込む。 (ずっと昔……毎日のようにキスを交わしていた。)  誰と――? 英慈の背格好とよく似た男……。思い出そうとしても、気持ちよさに朦朧とし始めた頭では限界がある。静かな部屋。遠くで車のクラクションが聞こえるが、今のミチはどうでもいいことだった。胸の突起を吸われ、吐息まじりの声が漏れる。その声に羞恥を覚えて顔をそむけると、英慈は意地悪気に笑みを浮かべて、もう片方の突起を指先で強く摘み上げた。 「ひゃぁ……あぁっ」  薄闇の中でミチの腰が跳ねた。甘い疼きが背筋を這い上がり、自然と腰が揺れてしまう。英慈の手がミチのパンツのファスナーに伸びた。器用にベルトを外し前を寛げると、体をずらして兆し始めているものに触れた。 「やだ……。やめてっ」  ミチの声に、一瞬だけ英慈の手が止まった。しかし、すぐにパンツのウェストに手をかけると、下着ごと膝まで一気に引き下ろされる。冷たい空気が露わになったミチの下半身を撫でた。小刻みに体が震える。寒いからという理由では決してない。これから起こってしまう過ちに恐怖しているからだ。 「英慈さん……やだ。それだけは……やめ、てっ」  ミチの意思とは関係なく、与えられた愛撫で顕著に反応しているペニスが恨めしい。天使も体の構造は人間と変わらない。性欲が高まれば自然とペニスは反応し、はしたなくも勃ち上がってくる。英慈の視線を一身に受けた茎がピクンと跳ね、先端から透明な蜜を滴らせる。その蜜が、ミチのつるりとした下腹に落ちて滑らかな肌を濡らした。 「天使でも感じるんだな……」 「う……る、さいっ。こんなこと……許されることじゃ、ないっ」  イラついた口調で返したミチだったが、蜜を塗り広げるように茎をやんわりと上下に扱かれた瞬間、その強気な態度は霧散した。背をしならせて、体にわだかまった熱を吐き出すが、英慈の愛撫はやむことがない。それを口に含まれた時には、あられもない声を上げていた。 「あぁ……っ。だめ……はぁ、はぁ……っ」  英慈の舌がミチの茎を上下に舐め上げる。小ぶりなつくりではあるが、充血したそれは男であることを誇示していた。蜜と彼の唾液に塗れた茎を口に含まれ、激しく頭を上下されるたびに意識が飛びそうになる。霞んでいた脳内が次第に真っ白になっていく。ミチが何も考えられなくなった時、英慈の低く甘い声が響いた。 「――もう、我慢するのはやめろ」  それまで開くことを頑なに拒んでいた理性の扉の鍵が粉々に砕けた。ミチの中にある砦に押し入った英慈という男によって、最後まで残されていたものが呆気なく壊されてしまった。 「いやぁ……出る。で……ちゃう、から! ダメ……あぁ……イ、イク――ッ!」  英慈の髪に指を埋め、激しく首を振る。それでも口を離さない英慈の体を包み込むように、光の粒子が零れ落ちた。自身の命を削りながらも、ミチを快楽へと導く彼の姿に涙が溢れる。  ミチの内腿がブルブルと震え、全身が硬直する。隘路を駆け上がった灼熱はもう誰にも止めることは出来なかった。小刻みに体を痙攣させ、英慈の口内に欲望の奔流を叩きつけた。それまで自慰らしい自慰もしたことがなかったミチの精は濃厚で量も多かったが、英慈はひるむことなくそれをすべて嚥下してしまった。潤んだ目で力なく彼の男らしい喉仏を見つめることしかできない。恥ずかしいというよりも、今は疲労感の方がはるかに上回っている。ぐったりと弛緩した体をラグに投げ出したまま、ミチは暗い天井を見つめた。フワリと白い羽が一枚ゆっくりと舞い降りてくる。それが英慈の光に触れて弾けるように消えた。徐々に弱くなっていく英慈の光が細い輪郭を残して消えた時、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。 「――ミチ」  名を呼ぶ彼に応える気力もない。ミチはただ黙ったまま、薄い胸を喘がせることしかできなかった。 「ごめん……」 「どうして謝るんですか。あなたは、自分が思うままに……しただけでしょう?」  感情も見い出せない、抑揚のないミチの声が静寂をかき乱していく。彼とこうなることを心のどこかで望んでいたはずなのに、虚しさしか訪れない。喜びに満ちた言葉も、幸福感をかみしめる涙も出てこない。ミチはミチであって真路ではない。英慈が抱いたのは、ミチの中に見た真路の幻影。この体も……真路の代わりでしかなかったのだ。どこまでお人好しなのだろうと思う。本来なら彼を思い切り殴り倒して、この部屋を飛び出してもいい状況だ。それなのにミチは動くことが出来なかった。 「もう逃げないよ……。俺は罪を背負って生きることしかできないんだ。ずっと前から……これから先も」 「なんの罪? 真路さんを……裏切ったこと? それとも、天使である俺を……犯したこと?」 「違う……。たった一人を愛することしかできない……罪。そのために苦しみ……彼を、何度も悲しませてきた。もう……沢山だ。もう……逢えないのも、触れられないのも耐えられない」  ミチはゆっくりと体を起こしながら、足元に蹲る英慈を見つめた。いつもの英慈――でも、なにかが違っていた。 「傲慢、強欲……嫉妬。大罪もいいところだね。でも……俺も英慈さんのことは責められないかも。今、めちゃくちゃ真路さんに嫉妬してるし、英慈さんを欲しいと思ってる。天界追放覚悟で言うよ……。俺は英慈さんのことが――」  言いかけて、不意に意識が途切れる。目の前がぐらりと大きく揺れ、体が傾いていく。ひやりとした床に頬がぶつかって痛みを感じても、ミチは身じろぐことすら出来なかった。 「ミチ? ミチ――っ」  遠くで英慈の声が聞こえたが、声を発することが出来ない。素直になったらダメなのか。我慢をし続けなければならないのか……。ミチの想いは英慈には届かない。その悲しみに打ちのめされ、冷たく暗い水の中に沈んでいくのを感じた。 (あぁ……これは失望の先にある闇なんだ)  真路とリンクしていたわけじゃない。じゃあ、この記憶は何なのだろう……。ミチを苦しめてきた悪夢が再び幕を開ける。手を伸ばしても届かない。でも、一縷の望みを託して、ぼんやりと輝く光へと必死に手を伸ばす。その先にあるものはきっと、ミチに幸福をもたらしてくれる。そう信じて、もがきながらも指先を伸ばし続けた。

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