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 スマートフォンが振動している。虚ろな目で液晶画面を見つめたミチは、今日何度目かも分からないため息をついた。  あの夜から英慈に会っていない。毎日のように着信やメッセージが送られてきたが、返信する気にはなれなかった。薄闇の中で野性味を帯びた英慈の目を思い出すたびに、背中に押し当てられた唇の感触が生々しく思い出され、甘い疼きが走る。でも、それは自身に与えられたものではない。勘違いも甚だしいと思いながらも、英慈を想う気持ちは膨らんでいく一方だった。このままでは、彼の最期を見届けることが出来ない――分かっているのに、彼に会うことが憚られた。  そして、英慈と同じくらいの頻度でミチのスマートフォンに着信履歴を残す男がいた。徹平だ。どうやってミチの番号を知ったのか分からないが、彼ならばあらゆる手を使って知ることは容易だ。初めて会った時から薄々感じていた。真路に雰囲気が似ているミチを見る目……まるで蛇のようだった。彼が執着する理由……それは、真路のことを嗅ぎまわっているということばかりではない。ミチに特別な感情を抱いたことは間違いなかった。  英慈が真路を愛する理由。徹平と真路との関係……。英慈と一緒にいられる時間は限られている。早く真相を掴まなければ、彼の魂の洗濯は終わらない……。ミチは手にしたスマートフォンを眺めたまま薄い唇をギュッと噛みしめた。その時、着信を知らせる振動と共に、液晶画面に表示された名前に小さく息を呑んだ。そして、点滅する青いランプが赤に変わる。着信ボタンを押したミチの指先は微かに震えていた。 「――もしもし」  掠れた声で電話に出たミチを迎えたのは、いつになく上機嫌な彼の声だった。 『やっと出てくれた。そろそろ部下を使って探し出そうかと思っていたところだ。なぁ……ミチ、俺のことを知りたいんだろう? 真路との関係を……知りたいんだろ?』 「――知りたい、です」 『どうして死んだ人間にそこまで拘る? 英慈のためか? 今更知ったところで、真路は帰って来ない。それでも知りたいって言うからには、相当な理由があるんだろ?――何を企んでいる? 英慈に唆されて、俺を貶めるためか?』  笑いながら問う徹平だが、彼の言葉の端々には毒があり英慈の存在を快く思っていないことがありありと分かる。真路が亡くなった当時、英慈が真っ先に疑ったのは徹平だった。彼と真路の関係を知っていたのかは定かではないが、どうして徹平を疑ったのだろう。 『どうだ? ここは会って、ゆっくりと話をしないか? それとも……英慈に怒られるのが怖いか?』 「そんなことは……。英慈さんは……関係ありませんから」 『じゃあ、話は早い。これから迎えを行かせる。どこにいる?』 「C線沿線にあるR駅の近くにいます。――あの、一つ教えてください」  ミチは緊張で渇いた喉に何度も唾を流し込んだ。彼を刺激しないように言葉を選びながら、恐る恐る口を開いた。 「――あなたは、真路さんが亡くなった時……涙を流しましたか?」 『は? なんだよ、それ……。面白いことを聞くな? そんなの決まってんだろ。流したよ……悔し涙をな』 「え……」 『すぐに迎えを行かせる。逃げるなよ』 「――逃げません」 『いい心がけだ。待っていろ……』  耳元でブツリと無機質な音がして、一方的に電話を切られた。心臓が早鐘を打っている。徹平との電話で緊張したということもあるが、それよりもこれから対峙するであろう悪魔を前に無事でいられるかが何よりも不安だった。人間界で使える力はほとんどない。それでも、英慈の魂を持ち帰るだけの余力だけは残しておきたい。ゾクリと背筋に冷たいものが流れ落ちる。徹平と会うことを英慈が知ったら、きっと黙ってはいないだろう。彼と会った時、英慈の魂はひどく怯え、憎悪を滾らせ、そして……輝きを失くした。それほど、徹平のことを憎んでいるのは間違いなかった。  握りしめたスマートフォンに何度か英慈の名を表示させる。だが、発信ボタンを押す勇気はミチにはなかった。もしかしたら、もう英慈と会えなくなるかもしれない。それでも、英慈が一途に愛する真路のことを知りたかった。細い指先を画面上に滑らせ、短いメッセージを送る。目が潤み、視界が滲んでくる。それでも、ミチはスマートフォンを握りしめ、表示されたままの英慈の名前から目を逸らすことが出来なかった。 『必ず、あなたの魂を天界にお連れします。約束ですから』  約束は時に残酷で、相手を苦しませる。それ以上に自身が傷つき、それを果たせなかった時の罪悪感は永遠に付き纏う。きっと……水に沈んでいく真路を前にした英慈も、今のミチと同じ気持ちだったのだろう。絶対に守ると約束した。その約束が呆気なく破れ、後に残るのは苦悩と罪悪感。徹平と会うことを決めた今、英慈との約束が危ういものになっていることに気づく。でも、ミチはその現実から逃げ出すことをやめた。  魂の洗濯屋はいつでもリスクを抱えている。しかし、妥協は許されない。手を抜いたところで損もなければ得もない。そのかわり『罪』として永遠に自身を苦しめることになる。天界に迎えられなかった魂は闇を彷徨い続け、転生することも……まして消滅することも許されない。魂を貶めた罪を背負いながら、真摯に仕事に向き合えるかといえば、それは否だ。神から与えられた仕事を放棄すればどうなるか……。シファは何も言わないが、ミチは何となく感じていた。堕天などという生ぬるいものではない。その魂はおそらく……天に召されることなく、この人間界で永遠に苦しみ続けることを。救済のない世界。だれも、手を差し伸べてはくれない。それほど恐ろしく、虚しいことがあるだろうか。  ミチは覚悟を決めていた。そうなるくらいなら、洗濯屋としてやるべきことをやり尽くした後で最期を迎えたい――と。  液晶画面をスクロールし、発信ボタンを押す。その電波は国境を越え、この世を分かつ最も高い場所まで届いた。ミチの耳を擽る穏やかな声――。 『どうしたのぉ~。ミチ』  シファの声に堪えていた涙が一筋流れた。 「――社長、俺の願いを……聞いていただけますか」 『なぁに、改まって……。ミチらしくない。どうした?』  彼に気づかれないように嗚咽を堪え、ミチは大きく息を吐き出してから言った。 「野崎英慈の魂を……救って、ください」 『ミチ?――おい、どうしたっていうんだ。何があった?』  いつも飄々としているシファの声音が変わった。ミチは小さく鼻をすすりあげながら無理やり笑って見せた。 「俺……やれるだけ、やってみますから。もしものことがあったら……彼をお願いします」 『おい、ミチっ!』  震える指先で通話を終了させる。そして、スマートフォンの電源を切った。今までにシファがあんなに慌てた様子で声をあげたことがあっただろうか。部下思いでフォローも欠かさない理想的な上司。昼行燈と陰で呼んでいたことを素直に謝っておくべきだったと反省する。  徹平――今、まさに悪魔に堕ちようとしている彼に、天使であることが知られれば間違いなく狩られる。天使の魂は、上級悪魔への何よりの手土産になる。その報酬としてランクアップが保証されているからだ。今の徹平にしてみれば、喉から手が出るほど欲しいに決まっている。ミチは、俯き加減のまま前髪をかき上げると、自嘲気味に笑った。 「自殺行為ってヤツ……だな」  それほど真路に関する情報が大切なのか?――そう何度も自身に問う。きっと大した問題ではないはずだ。現に、英慈の魂も真路の死を越えて輝きを取り戻している。じゃあ、どうしてそこまで執着する必要があるのか……。英慈が一途に想い続けている相手への嫉妬なのか? それとも、真路の最期を知りたいという興味だけなのか? そのどれとも違う。ミチが見た悪夢――冷たい水底で必死に手を伸ばして叫んでいる自分。彼の声が聞こえない……。そして、自分はあの時……何を叫んでいた? それを知る鍵がここにありそうな気がしてならないのだ。確証はどこにもない。でも、黙って何もなかったことにはしたくない。  歩道に佇むミチの前に黒いワンボックス車が横付けされた。中から下りてきた黒いスーツの男たちに、ハンカチを口に押し当てられる。鼻につく刺激臭。その直後、ミチの意識は暗闇に放り出された。  *****    饐えた匂いが鼻腔を刺激し、不快で仕方ない。頭の中に鉛を詰め込まれたような重さが、ミチを俯き加減にさせていた。 「――そろそろ目を覚ましたらどうだ?」  低く掠れた声。でも、その響きは妖艶でミチの頭の中に直接響いてくる。ゆっくりと顔をあげ、虚ろな目でぼやけた景色を見つめる。焦点が合わず、目の前に立つ男の顔が二重にも三重にも見える。口内に残る粘つきと青い独特の匂い。ミチは疲労している自身の顎がだらしなく開いていることに気づき、同時に何人もの雄茎を咥えていたことを思い出す。ミチを眠らせた睡眠薬には媚薬が含まれていた。椅子に座ったまま手足を拘束され、無理やり口を開かされ、男たちのペニスをしゃぶった。頭がフワフワし、何も考えられない。ただ、体が熱くて堪らなかった。身じろぐたびに疼く体を鎮めてくれると言った男の命令に従ったまでだ。唇の端から粘度の高い白濁が糸を引きながら落ちた。 「なかなか上手いじゃないか。英慈に仕込まれたか?」  長身を屈めて問う男――徹平の言葉に、いくつもの下卑た笑いが響いた。彼の指がミチの顎を掴み、グイッと力任せにあげられる。痛みは感じたが、霞がかかったままの頭では抗うことが出来ない。 「お前が知りたがってたこと。俺は優しい男だから、お前次第で全部話してやる。どうする?」 「な……にを、すれば……」  力なく答えたミチを真上から見下ろした徹平は、ニヤリと意地悪げな笑みを浮かべて言った。 「真路と同じことをすればいい。俺に媚びて、その身体を差し出せ。たっぷり可愛がってやる」 「え……」 「この俺が愛でてやると言ってるんだ。――俺のオンナになれ。そうすれば、お前の望みを何でも叶えてやる」  徹平の声がうるさいほど頭の中で反響する。人間がこの悪魔の誘いを受ければ、断ることはおろか抗えば苦しみが増すと言われている。一度魅入られた人間は、逃れることが出来ない。悪魔の執着は人間の比ではない。ミチは首を横に振ると「イヤだ」と即答した。意外な反応に驚いたのか、徹平はわずかに目を見開いてミチを見つめたが、すっと視線を周囲に向け人払いをした。数人の黒スーツたちが部屋を出ていく。錆びて軋んだ音を立てる鉄扉。どす黒く汚れた冷たいコンクリートの床と灰色の壁。窓らしきものは一つも見当たらない。ミチが座っている椅子と、古びたベッドしかない殺風景な部屋。この部屋のいたる所から耳を塞ぎたくなるような悲痛の叫びが聞こえる。 「なぁ。俺がこの世で一番大嫌いなものを教えてやろうか? それはな……愛ってやつだ。そんなもののために人間は平気で命を捨て、誰かの身代わりになろうとする。バカげた話だ。薄っぺらい言葉、性欲を満たすだけのセックス、抱擁の最中でも相手は他のことを考えている。それを真に受けて「自分は愛されている」って豪語する奴ほど、滅茶苦茶にしてやりたくなる。何人もの男のペニスを咥えこんで離さない。腹が膨らむまで精液を注がれても「もっと」と強請る。気を失うほどの快楽を何度も与えてやった。それなのに……最後に望んだのは『死』だった」  彼がいう『死』を選んだ人物――それが真路だと気づいたミチは、驚きと憔悴で言葉を失った。  大学に入学したばかりの真路に目をつけたのは、当時怪しげなサークルを立ち上げたばかりの徹平だった。つるんでいた仲間数人と、強引に勧誘し入会した男女六名を歓迎コンパの席で犯した。強力な媚薬を呑ませ、自我を失った者たちは狂った野獣のように交わり、腰を振り続けた。徹平たちのサークルは密かにヤリサーと噂され、一度は活動停止を言い渡されたが、水面下で会員を増やしていった。毎月開催されるイベントでは、会員が『生贄』と称して新しいメンバーを連れてくるシステムになっていた。同じ学部の友人に誘われた真路は、何も知らずにそのイベントに参加し、徹平に犯された。泣きながら退会を懇願する真路の姿に性癖を揺さぶられた徹平は、父親の力を使って彼のことを調べ上げた。そこで浮上したのが、幼馴染の英慈だった。真路を繋ぎとめておくには英慈を利用するしかないと考えた徹平は、就職が内定していた英慈に弱みにつけこみ、悪質な嫌がらせを繰り返した。それを知った真路は、英慈を庇うべく徹平のオンナになることを決めた。  時間や場所を問わず、犯される日々。時には玩具を使われ、遠隔で操作されることもあった。それでも、英慈を守りたかった。 「――ただの幼馴染だと思っていたが、案の定……真路はアイツを愛していた。ムカつくだろ? 俺があんなに愛してやっていたのに。だから、お仕置きをした……。目隠しをしたアイツの前で、真路を滅茶苦茶にしてやったんだよ。楽しかったなぁ……真路の声聞いたらアイツ興奮してさ。勃起させて「やめろ!」って泣きながら怒鳴ってさ。あまりにもうるさいから、ボールギャグ咬ませてやったけど。最後にはちゃんと、英慈のチンコをしゃぶらせて抜いてやったんだぜ? 大好きだったくせに、自分の想いをひた隠しにして……。でも、英慈の精液呑んだあとで、真路が顔を歪ませて泣いてたの見たらゾクゾクした。英慈も、男のペニスを嬉々として咥えこむビッチに好かれて迷惑なだけだよなぁ」  ミチの頬を撫でながら唇を重ねてくる徹平に吐き気を催す。しかし、ガッシリと顎を掴まれ顔を背けることもできない。彼の舌がミチの口内を犯す。英慈のキスとはまるで違う。優しさも労わりもない乱暴な口づけ。嫌悪感だけが募り、兆すこともない。それでも徹平は、ミチに何度もキスをした。 「――それから真路は、狂ったように俺を求めてきた。そうしているうちに気づいたんだよ。アイツの魂が極上のものだって……」  徹平は舌なめずりをしながら、ミチのシャツに手をかけると力任せに引き裂いた。手錠がかけられ、後ろに回されたミチの手にボロ布と化したシャツが纏わりついた。白く滑らかなミチの肌に吸い寄せられるように、徹平は顔を寄せてうっとりとため息をついた。 「イイ匂いだ……。お前も真路と同じ匂いがする」  彼がミチの肌にすっと指を滑らせると、朱の線が引かれる。長く伸びた鋭い爪が、ミチの体を傷つけていく。 「気に入らない奴は容赦なく殺してきた。始末はテキトーにやって、あとは親父の力でもみ消してもらう。でも……簡単に殺すのは惜しいな。ミチ……俺のモノにならないか? 俺と契約して……悪魔となって永遠に、血と快楽に塗れて生きていけばいい。人間の断末魔の叫び……あれほどゾクゾクするものはない。死にざまが酷ければ酷いほど勃起する。それを、お前が口で慰めてくれればいい。――真路はそうしてくれた」  その言葉に、ミチは瞠目したまま動けなくなった。真路は、英慈を守るために彼のオンナになっただけじゃない。無残に殺されていく人間を目の当たりにし、返り血を浴びながら徹平にフェラチオを強要されていた。普通の人間ならばとうに気が触れていてもおかしくない。それなのに彼は……英慈の前では、いつもと変わらない無邪気な幼馴染を演じていた。何人もの人間が殺される瞬間を目撃し、その血で汚れた手で徹平を愛撫し、彼の精液を嬉々として貪る。でも、その手で英慈に触れることは叶わなかった……。 「飽きたら殺せばいい。それに、アイツの魂を献上すれば、俺は間違いなく上位悪魔と繋がりが持てるって思ったんだけどな。――ミチ、そろそろ白状したらどうだ? お前……天使なんだろ?」  徹平の鋭い目が血のような赤に変わる。長く伸びた爪、人間を惑わす赤い瞳、そして唇の端から見え隠れする牙。全身に纏た黒い霧は晴れることがない。それどころか縄のように形状が変化し、ミチの体に絡みついてくる。ミチは唇を噛んだまま、首を横に振った。しかし、徹平の手が背中に回され、封印されている翼に触れた瞬間、全身を小刻みに震わせた。 「ここ……性感帯なんだよな。どんな天使でも、ここを触ると腰砕けになった。幾人もの天使の魂を食ったが、みんな美味だった。だが、お前のはその比じゃない。真路と同じ匂い、気配……まさか、アイツの生まれ変わりか? だから英慈のそばにいた……そうだろ?」 「ち……ちがっ」 「ん?」 「違うって言ってんだろっ! 英慈さんは関係ないっ」 「じゃあ、どうして……。あぁ……もしかしてお前は……洗濯屋か? アイツの魂を奪いに来た」 「奪うなんて人聞きの悪いことを言うなっ! 俺は……一生懸命生きた人の魂を……天界に運ぶ……。それが……使命だ」  徹平は鼻で笑うと、すっと目を細めてミチを睨みつけた。 「そういうと聞こえがいいな。だがな、お前がやってることは死神と変わらない。人間の魂を神に捧げる……それをどうする? 俺たちみたいに食っているかもしれないだろ」 「そ、そんなことはない!」 「言い切れるのか? お前……天界の主の姿を見たことがあるのか?」  グッと息を呑み、言葉に詰まる。神の姿などおそらく誰も見たことはないだろう。天界庁上層部に属する幹部クラスならあるかもしれないが、下っ端であるミチたちが謁見することはまずない。何も言えなくなったミチに、徹平は「そらみたことか」と言いたげな顔でニヤリと笑った。 「人間は死ぬ直前、必ず神に祈る。この世界中、どこを探しても存在しない偶像を信じ、救いを求める。バカな奴らだ……。転生だの、生まれ変わりだの……そんなものを信じて一体何になる。くだらない人間などに転生するくらいなら、毎日やりたいことをやって楽しく生きられる悪魔の方がよっぽどいいと思わないのか」 「思うわけ……ない。そんなの……絶対にあり得ないっ」  傷を負い、輝きを失くしても生きようとする魂がある。それを拾い上げ、天界に運ぶ……。それが洗濯屋の仕事だ。天界庁上層部からの依頼が特別なんじゃない。この人間界で生きた者の魂はみんな、あの光輝く地で生まれ変わるのを待っている。また、人間として暮らし、誰かを好きになって……時に激しく、時に穏やかに心を燃やしていく。そこで培われた強さが、来世へと繋がっていく。一度きりで終わる人生じゃない。何度も何度も繰り返し、生きるという経験を積んでいく。それは決して悪いことじゃない。むしろ、何より尊く貴重なことだ。  ミチは手首を拘束している手錠をガチャガチャと鳴らした。頭の中の霞が一気に晴れ、正常な思考が戻ってくる。もう徹平の言葉に惑わされることはない。 「――あなたが殺したんですか? 真路さんを殺したのは……あなたなんですかっ」 「クスリとセックスでちょっとイカれ始めてた真路は「死にたい」って言い出した。でも、死ぬ前に英慈にどうしても会いたいって言うからさ。会わせてやる代わりに、三日間眠らず俺たちの相手をしろって言ったんだよ。死に際の果てのない絶頂。いつになく感じてたな……いい顔してた。たっぷりと精液ブチ込んで、英慈と待ち合わせの場所に向かわせた。でも、俺の気が変わった。もし目の前でアイツが死んだら、英慈はどうなるのかなって思ったらワクワクしてきた。だから、英慈が来る直前に真路をあの池に放り込んだ。アイツ、泳げないの知ってたから……。焦った顔で何か叫んでたけど、知ったことかって感じ。死んだら魂だけ手に入れれば良かったし」 「な……っ」 「それを見た英慈の顔、最高だった! 手ぇ伸ばしても届かないし、叫んでも返事はないし。真路の体が沈み始めた時の絶望的な顔……堪らなかったな。大切な幼馴染を助けられなかったって一生苦しむ姿が目に浮かんだよ。アイツが後追いしたら、その魂もついでに奪うつもりだったのに……」  徹平は小さく舌打ちして、ミチの鎖骨に歯を立てた。痛みのあとでじんわりと甘い痺れが広がっていく。まだ媚薬の効果は完全に消えてはいないようだ。真路を死に追いやった事実と証拠をすべてもみ消し、司法解剖でも事故死と判定させた徹平の父親の権力。そして、徹平も父親ものうのうと甘い汁を吸い続けて生きている。おそらく彼の父親もまた、悪魔に魂を売っているのだろう。人の死を何とも思わない。気に入らなければ虫けらのように排除する。平穏な日常を過ごしていた者がある日突然巻き込まれた時、その人生はまったく違った方向へとシフトしていく。彼らの罪を代わりに背負った者は魂をすり減らし、苦痛と最愛の者を亡くした悲しみに打ちひしがれ、虚無のなかで生涯を終えていくしかないのだ。英慈もそうなっていたかもしれない。ミチという天使に出逢わなければ……。 「真路の魂は寸でのところで消えちまうし、英慈もしぶとく死なないし。踏んだり蹴ったりだ。だが……お前だけは逃がさないぞ、ミチ。たっぷりと快楽を与えて、俺ナシじゃ生きられない体にしてから、ゆっくりと弄り殺してやる。その綺麗な魂を血で穢し、ボロボロに痛めつけてやる。精液に塗れた魂――さぞ、喜ばれるだろうな」  徹平の赤い瞳が妖しく輝く。その光の奥にはどす黒い闇が見え隠れし、ミチは戦慄した。 「そして、もう一度……英慈に絶望を与えてやるよ。今度こそ、死ぬまで追いつめて、アイツの魂を食らってやる。人をさんざん殺人犯扱いしやがって……。真路を助けられなくて見殺しにしたのはアイツなのにな」  必死に叫びながら手を伸ばす英慈。しかし指先を掠っただけで真路の体は黒い池の中に沈んでいく。声を限りにその名を叫ぶ。水に阻まれた真路が最期に伝えたかったこと――それは。 『――必ずまた、巡り会う。もう……二度と離れない』  ミチの記憶の片隅で蘇った声。その声は間違いなく自分自身の声だった。息を呑み、動きを止める。しかし、それ以上のことは何一つ思い出せない。 (今のは……俺の声?)  茫然とするミチの肌をなぞるように徹平の指が滑っていく。感触を楽しむように強弱をつけるそれに、ミチは小さく息があがった。このまま徹平のモノになんかなりたくない。真路の死の真相を知った今、英慈にすべてを伝えたい。そして……これ以上ないほどの力で二人の魂を抱きしめてあげたい。互いに想い、どれだけ傷ついても相手を庇い、黒に染まることなく純粋な愛を貫き通した彼らを……讃えたい。 「お前も、英慈の前で犯されたいか? お望みならすぐに連れてきてやる。天使が悪魔に犯される……。希望の光、救いの使者、愛のキューピッド。そいつが脚を開いて腰を振って強請る姿は、人間の目にどう映るだろうな。もう……何も信じられない。神の使者が闇に堕ちる瞬間、アイツも同じように命が尽きるかもしれないな」  肩を揺らして愉快そうに微笑んでいた徹平の声が徐々に大きくなり、牙をむき出して豪快に笑うと殺風景な部屋の鉄扉がビリビリと振動した。彼の体から放たれる黒い霧が広がり、ミチの足元を覆い隠していく。息が苦しい。それなのに、徹平に触れる場所が熱くて堪らない。イヤだと頭で拒んでも、体は彼の愛撫に反応してしまう。 「やだ……。俺は……約束した。絶対に……真路さんと、英慈さんを……っ」 「偽善者が。蜜が溢れてスラックスを濡らしているぞ? 素直になったらどうだ? 何もかも捨てて、俺のモノになれ。楽になれるぞ?」 「いや……だっ。絶対に……お前なんかに……堕ちるもんかっ。魂だって……絶対に……わ、たさ……ない」  ミチの淡褐色の瞳が金色に輝く。力は天界ほど自由には使えない。でも、徹平を押し退けて逃げるだけの力はあるはずだ。不自由な両手を激しく動かす。金属の音が響くたびに、手首が擦り切れ血の匂いが漂ってくる。その匂いにさらに興奮した徹平は、ミチの足元に片膝をつくと濡れたスラックスの生地をこれ見よがしに舐めて見せた。 「あぁ……甘い。イイ匂いだ。この白い腹を……俺の精液で孕ませてやる」  ミチの平らな下腹を徹平が乱暴に撫でた時だった。顎を上向けて吐息したミチは、温かく――そして、懐かしい光に触れたような気がした。黒い霧を押し退けるように、鉄扉の隙間から入り込んでくる光の粒子。それがミチの体に纏わりついていた帯状の霧を解いていく。ガチャガチャと鉄扉のノブが揺らされ、勢いよく扉が開かれる。そこに立っていたのは、体中に傷を負った英慈の姿だった。彼の体からは無数の光の粒子が零れ落ち、足元に堆積していった、 「英慈……さんっ」  彼は肩で荒い息を繰り返しながら、ゆらりと立ち上がった徹平を睨みつけた。握りしめたままの拳からは血が流れている。ここに来るまでに徹平の部下を何人も相手にしたのだろう。たとえがっしりとした体型であっても、ケンカ慣れしている相手と対等に戦うのは無理がある。それに、英慈は人に手を挙げたことがない。人を殴るという行為に罪悪感を抱きながら、必死にこの場所を探したのだろう。 「それ以上……ミチに触るな。触ったら……お前を、殺す」  獣が低い唸り声をあげるように、英慈は徹平と向き合った。そんな英慈を見ながら鼻で笑った彼は、スーツの衿を両手で正すと、カツンと革靴の踵を鳴らした。 「英慈さんっ」 「――殺す、だと? 真路も殺して、俺も殺す……。これで正真正銘の殺人犯の出来上がりだな。ヤるならいっそ原型を留めないくらい滅茶苦茶にやってくれ。ついでにミチもお前がやったことにして。猟奇殺人鬼として、いつでもこちらの世界に引き込んでやる」 「英慈さん、近づいちゃダメだ! そいつは悪魔だっ! 逃げて!」 「ミチ……」 「俺の心配はいいからっ! 早く、逃げてっ」  ミチが叫ぶのと、徹平が動いたのはほぼ同時だった。人間の動きとは思えない速さで移動した徹平は英慈のすぐ目の前に立ち、上着の胸ポケットからサバイバルナイフを取り出した。それを振り下ろすと英慈の着ていたシャツが切れ、肩から赤い血が噴き出した。何が起きたのか分からずに立ち尽くしていた英慈だったが、急激な痛みを感じたのか、苦痛の表情を浮かべたままその場に片膝をついた。 「英慈さん! ダメだっ! このままじゃ……命が……っ」  手錠を鳴らしながら暴れるミチにわずかに笑みを浮かべた英慈は、肩を押えながらゆっくりと立ち上がった。コンクリートの床に飛び散った血痕が赤黒く変色していく。その度に徹平の顔は嬉々としたものへと変わっていった。 「毎回俺の邪魔ばかりしやがって……。指を一本ずつ切り落として、痛みに叫ぶお前を見ながらミチを犯して、弄り殺してやりたい。それくらいムカつくんだよ……お前の顔。なんでこんなヤツを守るんだ? 何のとり得もない木偶の坊を……。どうして真路は……」 「何よりも大切な存在だったからだよっ! お前になんか分かるもんか……。金と権力で手に入れたものは脅威でしかない。お前が相手に求めたのは愛じゃない。絶対服従の支配だっ!」  怒りにまかせてミチが叫んだ瞬間、徹平が手にしていたナイフが英慈の脇腹を突き刺していた。瞠目した彼の唇から血が溢れ出す。そのナイフを抜き、再び腹に何度も突き立てる。 「やめろーっ! やめろっ! いや――っ!」  ミチの声が悲痛なものへと変わる。赤い瞳に闇を宿した徹平は大量の返り血を浴びながらも、英慈を何度も刺した。膝が頽れ、その場に倒れ込んだ英慈の顔を踏みつけた徹平は牙を剥き出して高らかに笑った。 「苦しめ、苦しめっ! 死へのカウントダウンが始まったぞっ。ミチの前で息絶えろ。――そして、ミチ。英慈が目の前で死んでいくのをそこで見ていろ。そして、自分を恨むがいい。助けられなかった自分を憎むがいい。はははっ、愉快だっ。人間なんてくだらない生き物だということを思い知ればいい」  徹平は頬に飛んだ血を手で乱暴に拭いながら、横たわっている英慈の体を思い切り蹴り上げた。大量の血液が飛び散り、出血の酷さが窺える。オーダーと思しき徹平のスーツは、英慈の血で真っ赤に染まっていた。だが、それを憂う様子はまったくない。それがまるで何かの勲章であるかのように、彼は鼻歌を歌いながら歩き出した。 「頃合いを見計らって魂を回収に来る。その時までに、俺のモノになるか決めておけ、ミチ……」  硬い靴音が黒い霧とともに遠ざかっていく。足元に横たわる英慈の呼吸は弱々しく、光の粒子も数が減ってきている。ミチは泣きながら叫んでいた。何度も、何度も英慈の名を呼び続けた。血で汚れた睫毛が微かに震え、英慈が薄く目を開けた。そして、シャツのポケットに手を入れ細い金属の棒を取り出すと、腕を使ってミチのそばまで近づき、震える指先で手錠の鍵穴に差し込んだ。カチッと小さな音がして手錠が外れる。その鍵を受取り、自身の手で足枷を外したミチは英慈のポケットを探り、スマートフォンを取り出した。救急に連絡しようとするが、指が震えて上手くタップ出来ない。そんなミチの傍らで英慈が微かに笑った。 「も……いい、から。お前は、逃げろ」 「良くない! このままだと英慈さん、死んじゃうんだよっ。まだ……ダメ。死んじゃ、ダメなんだよっ」 「俺の魂……アイツに獲られないように……持っていってくれ」 「やだっ! こんな別れ方、絶対にイヤだっ! 救急車呼ぶからっ。頑張ってよ……」  泣きじゃくるミチに苦笑いを浮かべた英慈は、腕を伸ばして彼の頬に触れた。 「俺……泣かせてばかりだ。ミチも……真路も……」 「泣いてないよっ! 俺、泣いてなんか……ないっ」  血で滑ったのか、英慈の手がするりと落ちた。それを握りしめたミチの手首を見た英慈は、声を震わせて言った。 「ケガ、してる。また、守れなかった……な。俺、大切な人を……守れな、かった」 「俺、天使だよっ。アイツに何をされても平気だった。どうして……英慈さんがこんな目に合わなきゃならない? 俺がアイツを煽るようなことを言ったからっ」 「違う……よ。これが、俺の……運命、だったんだよ」 「そんな運命認めないっ! 神様を恨んでやるっ! 英慈さんは悪くない……悪くないよぉ。英慈さんは俺を守ってくれた……」  漸くつながった救急に、ミチは自分が何を言っているか分からなかった。幸いスマートフォンのGPS機能のお陰で現在地の確認はとれたようだ。間もなく救急車が到着する。熱を失っていく英慈の手を握りしめ、ミチは必死に祈った。 「神様……。俺はどうなってもいい……。二度と天界に戻れなくてもいい。この翼を失ってもいい。だから……英慈さんを助けて。もう少しだけ……一緒にいさせてください。お願い……お願い……」  ミチはもう自身の使命など、もうどうでもいいと思っていた。たとえ魂になってしまっても、彼と一緒にいられるなら天界に戻ることなく、二人だけで旅に出ようと思っていた。誰も知らない場所、誰にも邪魔されない場所で英慈の魂に寄り添って生きていこうと……。 「英慈さん……」 「やっと……守れた。大切な人……を」  ミチの呼びかけに、ストレッチャーに乗せられた英慈が笑ったような気がした。同乗することを拒んだミチは、彼を見送ったあと声をあげて泣いた。病院に行くのが怖い。そこで待っているのが英慈ではなく、彼の魂だったとしたら……。 「英慈さん……。英慈さん……。俺……あなたのこと……好き、でした」  今まで言えなかった言葉。胸につかえていたものがスッとなくなるように、ミチの心がふわりと軽く、そして温かくなった。でも、失ってから気づくこともある。それは、ミチにとってかけがえのない人だったということ。一緒に泣いた日、笑った時間、手を繋ぎキスをして……切なさを抱えたまま別れたあの日に戻りたい。時間は止められない。遡ることもできない。ミチは胸に握った拳を押し当てたまま言った。いや、正確には声は発せられなかった。あまりの苦しさと悲しさに打ちのめされて……。 「――必ずまた、巡り会う。もう……二度と離れない、から」

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