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 警察署で事情を聴かれたミチは、あの場所が徹平の不動産会社からそう離れていなかったことを知った。そして、彼の会社が所有・管理していた雑居ビルの地下だったことも……。大学時代から友人数名とともにあの場所に入り浸り、昼夜問わず乱交をくり返したようだ。当時は彼の父親の名義であったが、あそこで起きた不運な事件はすべて『なかったこと』として処理されていた。  ミチを聴取した警官も徹平の名を口にした瞬間、表情を曇らせた。おそらく、今回の件も『なかったこと』にされてしまうのだろう。三年間、誰も知ることのなかった真実も、ミチと真路の名誉を守るために血を流した英慈の存在すらも人知れず消されていく。死の理由を知らない残された者たちの悲しみはより深く、果てのない虚無感に苛まれながら生きていかなければならないことを思うと、ミチは胸を掻きむしるほどの痛みを覚えた。  英慈が搬送された病院では緊急手術が行われたが、医師の表情から察するにもう長くはないことは分かっていた。徹平に刺された傷は十数ヶ所に及び、臓器の損傷による出血が酷く、正直なところ手の施しようがない状態だった。それでも、英慈はまだ……生きている。ICUでいくつもの管に繋がれたまま眠っている。呼吸をしているのが奇跡だという状態で。医師はミチに対して「家族の方に連絡を」と伝えた。黙って頷いたミチは、血に汚れた英慈のスマートフォンから、彼の両親にこのことを伝えた。通話を終えた後、スマートフォンを持つ手が震え、立っていることもままならなかった。でも――ミチには最期に託された仕事が残っている。  薄暗い病院内の廊下を進み、夜間救急受付カウンターの前を通り過ぎる。暗闇の中で不気味に赤く光るランプがガラス戸に反射している。ミチは、今出せるありったけの力を込めて出入り口のガラス扉を押し開けた。眩い白い光が全身を包み込む。ミチがゆっくりと目を開けると、そこはもう住み慣れた場所――天界だった。  英慈の血で汚れていたはずの洋服にはその痕跡すら残っていない。ここは聖域。人間の穢れた血を持ち込むことは許されていない。ミチは自身の両手を見つめ、俯いたまましばらく動けなかった。つい先ほどまでミチの手を濡らしていた大量の血液。それにはまだ彼のぬくもりが残っていた。英慈の血は穢れてなんかいない……。それなのに、彼の命と同様に呆気なく消えてしまった血が悔しくてたまらない。 「英慈さん……」  ミチの頬に流れた涙を拭うかのように、柔らかな風が吹き抜けた。それに誘われるように、視線を上げる。  見慣れている景色、澄んだ空気、昼夜問わず白い光が照らす輝きの世界。それなのにミチは、自身が立っている場所に違和感を覚えた。シファに会うために、ダズルランドリーサービスのオフィスに移動したはずなのに、その場所は見たことのない建物の内部だった。ギリシャ時代の神殿を模した太い大理石の柱が囲むその壁面には無数の扉がある。例えるなら人間界の巨大ターミナルにあるコインロッカーのような扉。一つ一つは小さいが、その数は膨大で、見上げてもその果ては肉眼では確認できない。だが、そのいたるところに荒れ放題の蔦が絡まり、光を取り込む窓も曇ったままだ。足元の大理石には埃が積り、動くたびに舞い上がる。それが光に反射してキラキラと輝いていた。まるで歴史の波に埋もれた過去の遺物。生い茂っていたと思われる木々も枯れ、悪魔の指先のように垂れ下がり不気味な有り様だ。清らかな水を湛えていたであろう噴水も枯れ、長い年月に晒された池は黒い藻に覆われており原型を留めていない。ここにある物すべてが、天界にあるとは思えない様相を呈している。  違和感ばかりを覚えながら周囲をぐるりと見回していたミチの背後で、静寂を破るように硬い靴音が響いた。その音に驚いたミチは、ゆっくりと振り返った。 「――おかえり、ミチ」 「社長……」  そこには黒いスリーピーススーツに身を包んだシファが立っていた。手にはいつも持ち歩いているタブレット。そして小さな黒い箱……。しかし、何かが違っていた。彼のトレードマークともいえる柔らかな栗色の髪についた寝ぐせがない。それに、優し気な雰囲気を醸し出していたあの丸みのあるシルバーフレームの眼鏡も……。甘い物が大好きで、ゆるくマイペースないつもの彼とはまるで違う。そう――ミチの肌が粟立つほどの力を携えた天使の力を放つシファがそこにいた。彼の背中で揺れているのは大きい純白の翼。片側に二枚以上の翼を持つのは大天使以上の特徴だ。 「社長……。あなたは……」  シファは薄いブルーの瞳をすっと細めると、目を伏せたままミチに近づいた。そして、手にした黒い箱を差し出すと落ち着いた声音で言った。 「これを……。お前に返そうと思ってね」 「これは?」  それを受け取ったミチは意外な重さにわずかに目を見開いた。十五センチ四方の箱は、予想以上に重くずっしりとミチの手の中に納まっている。音も匂いもしない。その中身が気になったが、ミチは目の前に立つシファの表情に目を奪われていた。  憂いとも安堵ともとれる表情は、普段の彼からは想像できないほど儚く美しかった。眼鏡で隠されていた長い睫毛が数回震え、ゆっくりと視線を上げたシファはゆっくりと息を吐き出した。 「――その中には、お前の『記憶』が入っている。魂を回収した時にいくつか消えてしまったが、さいわい四〇〇年前と最近の記憶だけは残すことが出来た。そう――お前がここの護り人『イヴ』だった時の記憶。そして……寺坂真路という人間だった時の記憶」 「ちょっと待ってください! イヴって誰ですか? どうして真路さんの記憶がここに……」 「この場所……お前にとっては一番心が安らぐのではないか?」  ミチはこの場所に立ってから、不思議と英慈の死に対しての不安を抱いていなかったことに気づいた。病院を出る前まで恐怖と不安に押しつぶされ、英慈への想いに胸が張り裂けそうになっていた。かけがえのない人を失う恐怖と虚無。それがあの夢の中の出来事と重なり、シファに助けを求めに来た――はずだったのに。 「――ここは、お前の心を癒し……満たす場所。それはあの時から何も変わっていない」  ミチにとっては何もかもが初めて見る景色だった。それなのに、あのシフォンケーキを食べた時のような懐かしさが蘇ってくる。優しくて、温かい場所。そして隣には――あの人がいた。英慈の背中にその姿を重ね、何度も息を呑んだ。でも、それが誰なのか、自身にとってどんな存在であった者なのか分からずにいた。誰もいない静寂に包まれたこの空間に、その人のぬくもりが残っている。どこからともなく吹き込んだ風がミチの髪をかすかに揺らした。その風が運んだ匂いに、ミチの頬に一筋の涙が伝った。 「ここは、ヘブンズタワー最上階。天界庁総括管理部があるこの場所は、死者の魂の審判・管理を担うサリエル管理官が任命した者のみが足を踏み入れることを許される天界庁の中で最も神聖な場所。神の玉座に侍ることを許された七人の大天使の中で生と死を司る彼は、同時に魂を穢れから守り、それを癒すことを担う。そして、新たな命として人間界に転生させる。この魂の保管庫――『エデン』にある魂は四〇〇年前から眠ったままだ。それはなぜか……ここにいた護り人が不在になってしまったから。さすがのサリエルでも『エデン』から魂を持ち出すことはできない。転生準備のためにそれが出来るのは護り人だけ……」 「護り人……」 「この世に生まれた初めての人間であるアダムとイヴ。護り人もそう呼ばれていた。――四〇〇年前、記憶を持った魂が二人をそそのかし、この聖なるエデンを荒らした。人間界に興味を持った彼らは、その魂の誘惑に負け自ら禁断の扉を開けた。護り人という名を捨て、混沌の地に身を堕とした。同時に、エデンは荒廃し輝きも、その機能も失った。あらゆる手を使って彼らの魂を探したが、その手掛かりは何もなくサリエルでさえも見つけることは出来なかった。人間になった彼らの魂は死んでもこの天界に戻ってこない。なぜなら、自身で自主転生をくり返していたからだ。この長い間、世界中のあらゆる場所で何度も転生を繰り返していたが、ある時気づいてしまった――いつもそばに寄り添っていた最愛の者が隣にいないことを。あやふやな記憶を頼り、互いに血眼になって探すが、出逢うことは叶わなかった……。容姿も言語も違う。まして、一度誓いを立てた天使の魂が離れると、再び呼び合うことはないと言われているからだ。このエデンを護る者は、あの二人以外存在しない。荒廃は進む一方で、あの光と緑に包まれていた永遠の楽園は見る影もない。いずれ魂も朽ち果てることになるのかと皆が諦めていた……」  天界庁が記憶を持った魂を厳重に管理していた理由――四〇〇年前に起きた悲劇が原因だったことを知る。穢れのない世界に持ち込まれた人間界での記憶。それは負の要素を多く含み、転生を待ちわびる純粋な魂を悪に染め、罪にいざなう。それを防ぐためにサリエルはいる。だが、大天使である彼でも予想だにしないことは防ぎようがないのだ。 「――あの日、職業紹介所でお前を見つけた。寺坂真路という人間の生を終えたお前の記憶を見た時、俺は全身が震えた。天界に戻るはずのないイヴの魂がそこにあったからだ。そして……人間界でアダムと再会していたことを知った。その男は……生死をくり返すたびに大切な人を守れなかったことを悔いていた。四〇〇年前のあの日、離れることはない……と繋いでいたお前の手を離したのは彼だ。それでも届かない手を何度も伸ばし、人間界に堕ちていくお前を泣きながら見送った……。そして、お前は……大切な人を庇い死を迎えた。何度も、何度も……生まれ変わるたびに同じ過ちを犯し、自ら死を選んだ。お前も……大切なものを守りたかったんだろう」 「英慈……さ、ん」  それまで黙ったままシファの話を聞いていたミチが、声を震わせてその名を口にした。初めて出逢った時に感じた胸の痛み。他のクライエントに抱くことがなかった強い想い。そして……時に懐かしく、いくら抑え込んでも溢れてしまう愛しさ。真路の生まれ変わりというのはまんざら嘘ではなかった。でも、記憶がないミチにとってはその想いは邪で洗濯屋が抱いてはいけないものであり、それを誤魔化し封じ込めるだけで精一杯だった。 「お前にしか頼めない……。お前にしか出来ない仕事だった。お前と離れ、四〇〇年もの間に疲弊し傷ついた彼の魂を洗濯できるのは……伴侶であったお前しかいなかった。黙っていて悪かったな……」  シファの言葉一つ一つが、絡まりあったミチの心の糸を解き、正しい方へと導いていく。今までが間違っていたとは思わない。でも、一度狂った歯車を戻すにはリセットが必要となる。ただ、その時期が来ただけなのだ。 「――まもなく彼の命が消える。その記憶を自らの体に戻し、彼を迎えにいけ。これは護り人の伴侶であるお前にしかできない……。ミチ、最愛の魂を抱いて、ここに戻れ。そして、エデンを……再び光溢れる永遠の楽園にしてくれ。ここに眠る魂たちは、お前たちの帰りを待ちわびている……」 「社長……」  シファは薄い唇を片方だけ上げて笑うと、長い前髪をかき上げながら言った。 「そう呼ぶのは会社内だけにしてくれ。俺は誕生と死を司る大天使アズラエルだ。サリエルみたいな気難しい上司を持つと気苦労が絶えない……。死を間近に迎える者、旅立つ魂に寄り添う。そして、あとに残された者の悲しみや寂しさ、喪失感を癒す……それが俺の仕事だ。さっさとその箱を開けて記憶を戻せ。時間がないぞ……」  彼は、手にしたタブレットの画面に視線を落とすと、ミチに背を向けて足早に歩き出した。英慈の命の灯が消えようとしている。アズラエルが持つ書物には死を迎える者たちの名が記されていると聞いたことがある。まさか昼行燈の上司であるシファが、サリエルの右腕と称されるアズラエルであると誰が想像出来るだろう。あの寝ぐせも、眼鏡も、ゆるふわキャラも……全部、人の目を欺くためのイミテーションだったということになる。それよりも、自身がこの『エデン』の護り人だったという事実に驚きを隠せなかった。まだ信じられない。それに、英慈が――アダムであるという確証もまだない。  ミチは緊張した面持ちで黒い箱に手をかけた。夢の中で見た狭い闇に閉じ込められた自分。彼のことを思うたびに息苦しさにもがいていた。それはきっと……この中に閉じ込められた自身の記憶。ミチはコクリと唾を飲み込むと、思い切って箱を開けた。その瞬間、ミチの体が金色の光に包まれた。瞠目したままの彼の頭の中に、激流のごとく流れ込んでくる記憶。その勢いに意識を失いかけるが、真路の記憶がそれを留めてくれる。英慈との出会いから、別れるまで……。そして、彼に抱いていた口に出せなかった想いが溢れる。幼馴染という枷は壊せば楽になれるが、壊し損なうとそれまで築いてきた関係をなかったことにする諸刃の剣。その関係を壊したくなかった真路は、英慈に抱いていた想いをずっと抑え込んできた。それでも彼を守るために自身を犠牲にし、徹平に抱かれた。死を選んだのは、英慈に対する後ろめたさ。そして贖罪……。  四〇〇年前にイヴが抱いたのも同じものだった。記憶を持った魂に一番最初に興味を示したのはイヴだったからだ。アダムの警告を無視し、イヴは人間界への扉を開けた……。自分を救うために延ばされた彼の手。涙を流しながら自身の名を呼ぶ――。でも、その手は二度と繋がることはなかった。 「――ごめん。俺……のせいだ」  ミチは胸に拳を押し当てて涙を流した。あの日、この場所で……。封印されていた扉の鍵を開けた。それは彼との永遠の別れを意味し、同時に贖罪の日々の始まりだった。知らない男に何度も犯された。それは自分を愛していると言ってくれた男を守るためだった。その愛は薄っぺらで、死んでから金のためについた嘘だと知った。それでも大切な人を守らずにはいられなかった。そのたびに命を失い、新たな出会いを求めて生まれる。でも――心から求めていた人とは出会うことが出来なかった。虚無感ばかりが募り、疑心暗鬼に襲われる人生。そんななかで野崎英慈に出逢った。はじめて……心が震えた。そばにいるだけで満たされるような気がした。それなのに、二人の間には『幼馴染』という超えられない壁があった。英慈の想いは薄々感じていた。それなのに、はぐらかし続けていた真路はその壁を超えることなく死を迎えた。 「英慈……。俺……まだ、言えてない。お前に……言えてないよっ」  声を震わせてミチがそう呟いたとき、エデンの豪奢な扉の前でシファ――アズラエルが叫んだ。 「ミチ! 英慈の灯が消えたっ。急げっ」 「え……。英慈が……し、死んだ?」 「彼の魂を悪魔が狙っている。――ったく、感傷に浸るのは全部片づいてからにしろっ!」  アズラエルの手が空を切る。瞬間、その手には大鎌が握られていた。黒く光る大鎌は、サリエルが魂を肉体から切り離す時に使う物と酷似していた。彼の声に弾かれるように顔を上げたミチは、乱暴に涙を拭うと扉に向かって走り出していた。 「社長っ」 「だからぁ、アズラエルだって言ってんだろうが。あぁ、もういい。急ぐぞ!」  ミチとアズラエルの手が扉に触れる。眩い光を放ちながら開いていくその隙間をすり抜け、ミチは今まで以上に大きくなった純白の翼を広げて飛び立った。目指すは人間界。英慈の魂を必ず……この手に抱いて戻る! 「英慈……。約束は必ず守る。もう……離れない。俺たちは……離れちゃいけないっ」  地上からミチの靴先が離れるのと、大鎌を肩に担いだアズラエルが飛び立つのはほぼ同時だった。肩を並べて飛ぶ白い世界。信頼できる上司とアイコンタクトを交わしたミチは、速度を落とすことなく人間界へと向かった。  *****  病院内。誰もいない暗いロビーに面したエレベーターホールの扉が開く。白い光が廊下に広がり、その中からミチとアズラエルが姿を現した。天界と人間界は至る場所で繋がっている。行きたい場所を願えば、天使は世界中どこでも移動できるのだ。 「急ぐぞっ」  アズラエルの声に、英慈が眠っていたICUがある別棟へと急ぐ。深夜の病院で派手に足音を立てれば、すぐにスタッフに見つかってしまう。下手をすれば不審者とみなされて通報される。だが、今のミチたちは人間には見えていなかった。もう人間のフリをする必要はない。クライエントである英慈が亡くなったことで、ミチの任務は最終段階へと移行した。英慈――いや、アダムの魂を無事に天界に届けること。息を切らしながら、入り組んだ病院内の迷路のような廊下をいくつも曲がり、階段を一気に駆け上がる。明るい照明が灯る重篤者治療棟は救急救命室、夜間救急受付のすぐ上階にある。  ミチたちがたどり着いたとき、機器を取り外された英慈がストレッチャーに乗せられてほかの部屋に運ばれるところだった。 「まだ、魂は体に残っている。間に合ったな……」  アズラエルがそう安堵した時だった、ICUの廊下に面した鏡面ガラスに映った影にミチは戦慄した。 「徹平……」  ミチの視線を辿るようにアズラエルがそちらを見ると、漆黒の霧を纏った徹平がエレベーターホールの壁に隠れるようにして立っていた。その隣には徹平とそっくりな相貌を持つ悪魔が立っていた。赤茶色の髪の間から生えた捩じれた角、血のように赤い瞳。そして、英慈の姿を見ながら浅ましくも舌なめずりをしている姿は、人間の姿をしていることからも下級の悪魔ではないと窺える。 「――あの男。悪魔になりかけなんかじゃない……」 「え?」 「人間に憑依するレベルじゃない。アイツ、何人の魂を食った? もう完全な悪魔だ……」  アズラエルの声が緊張で硬質なものになる。ミチも自身の体に起きている異変に気づいていた。先ほどから寒気が止まらない。英慈を刺す徹平の狂気じみた顔が脳裏をかすめ、膝が震え始める。 「確か、天使の魂も食べたって言ってましたけど……」 「それだ……。さっさとケリをつけないと俺たちが危なくなる。ミチ、俺が彼の魂を肉体から切り離したら、すぐにそれを抱いて天界へ向かえ」 「社長はっ?」 「あいつを食い止める。むしろ、相手が完全な悪魔の方が狩りやすい。中途半端な奴が一番面倒だ」  アズラエルが大鎌を肩に担いだままエレベーターホールの方へ向かう。その後ろを追うようにミチが足早に英慈に近づいた。顔に掛けられた白い布。その隙間から見えた生気のない顔に、涙が溢れそうになる。それをグッとこらえ、看護師の脇に寄り添うように歩幅を合わせる。 「英慈……。迎えに来たよ」  ミチの言葉に英慈の指先がピクリと動いたような気がした。でもそれは一瞬で、ストレッチャーがエレベーターホールへ差し掛かった時、徹平がその行く手を阻んだ。 「――いい匂いだ。久々の上物……逃すものか」  看護師たちに徹平の姿は見えていないようだ。だが、勘のいい看護師が足を止め顔を引き攣らせている。 「あの……あっちのエレベーターを使いましょうか?」 「どうして?」 「え……っと。故障……そう、故障気味だってメンテナンスの方が言っていたのでっ」 「故障? 困るわねぇ。こんな夜に止まったら最悪だわ」  先輩らしき看護師はため息をつきながらストレッチャーを方向転換させる。その瞬間、徹平が英慈の体の上に飛び乗った。 「英慈っ」  ミチの声に気づいたのか、徹平はニヤリと牙を見せながら笑うと英慈の額に鋭い爪を食いこませた。死後間もないせいか硬直は始まっていない。英慈の額からうっすらと血が滲み、それを見たミチは思わず目を逸らした。英慈が、彼に何度も刺されるのを目の当たりにした直後だ。その時の光景が蘇り手足が震える。しかし、そんなミチを正気に戻したのはアズラエルの声だった。 「ミチ、切り離すぞ! 捕まえたら、絶対に離すなよっ」 「は、はいっ!」  アズラエルの大鎌が風切り音をたてて空を切る。黒い刃が蛍光灯の光を反射し鈍く閃いた。英慈の体から金色の粒子が立ち上っていく。それが彼の頭上で綺麗な球体に変わったとき、彼の大鎌が一気に振り下ろされた。  パンッ!  風船が弾けるような音が響き、その球体が英慈の体から離れていく。ミチは体の上に乗っていた徹平を渾身の力で突き飛ばすと、その金色に輝く球体を胸に抱きしめた。それは温度を失った体とは違い、温かく優しい光を放っていた。 「行けっ! 絶対に立ち止まるなっ」  怒声にも似たアズラエルの声がホールに響く。その声に看護師がビクッと肩を揺らした。ミチは強く頷くと、階段を一気にかけおりた。ロビーのエレベーターに乗り込めば、天界への道は自然と開ける。そこまで足を止めることは許されない。腕の中で英慈の鼓動が聞こえたような気がして耳を澄ます。自身の呼吸音と重なり、一つになっていくような気がして涙が出た。廊下を曲がり、ロビーへの案内表示を横目に少しだけ速度を緩めた時だった。 「――忌々しいガキだな。邪魔をするなといったはずだ……」  背後から聞こえた徹平の声に足が止まった。ミチの細い肩が緊張でより上下する。 「俺のモノになる気になったか?」  恐る恐る振り返ると、ミチは唇を震わせて問うた。 「あの……しゃ、社長は」 「あぁ? あのクソ天使か。見かけによらず弱くて相手にもならない。一撃食らわせたら気を失いやがった」 「え……。そんなっ」  やはり昼行燈上司だったのかとミチに不安がよぎる。しかし、主天使階級である彼がそう簡単に悪魔にやられるはずがない。大天使クラスになれば、悪魔を相手にしてもそうそう退くことはない。きっと、何らかの策があってのことだろう。 「嘘ですっ。社長が負けるはずないじゃないですかっ」 「何を言ってもムダなんだよ。さぁ、英慈の魂をよこせ。そのあとであのクソ天使の魂を食らって、お前を抱き潰してやる」 「お断りします! これは……絶対に渡しませんっ」  ミチの淡褐色の瞳が金色に光る。それと連動するように腕の中にあった英慈の魂が輝き始めた。ミチの体を温かい光が包み込む。視線の端に純白の翼が見え、自身が無意識に翼を広げてしまった――そう思った。しかし、その翼はミチを包み込むように折り曲げられていく。温かさが全身を包み、まるで英慈の腕の中にいるような錯覚を起こす。こんな状況下でどこまで現実逃避を続ける気だ――と自身を奮い立たせるが、その翼は消えることはなかった。 「――チ。ミチ……」  耳元で低く掠れた声が聞こえる。その声にミチはゆっくりと目を見開いていった。 「英慈……。いや、アダム……なのかっ」 「記憶が戻ったんだね。俺も……全部、思い出した。やっと……逢えた。もう離さない」 「英慈……。俺も……俺も離さない。絶対に……離れちゃいけ、ない……からっ」  クスッと喉の奥で笑う英慈。その顔がすぐ目の前で浮かんだような気がして、ミチは溢れる涙を止めることが出来なかった。 「真路が……言えなかったこと。今、言っても……いい?」  ミチの髪にキスが降り注ぐ。その愛おしさに嗚咽を堪えながら声を震わせた。 「ずっと……ずっと、好きだった……。お前のことが好きで、好きで……堪らなかった」  それまで超えられなかった幼馴染という高い壁が、ミチの言葉と共に粉々に砕け散った。そして、ミチの肩に顎を乗せたまま何度も頷く英慈の気配を感じ、ほぅっと細く息を吐き出した。最愛の英慈に想いを告げられずに命を失った真路の魂がミチの中でふわりと温度を増した。 「俺も……。真路のこと……愛してた。ミチも……イヴも……。みんな……お前なんだから、愛しくないわけがないんだよ」 「英慈……」 「もう、その名前は消える。サリエルに新しい名前をもらわなきゃいけないな。ミチ……一緒に帰ろう。光と優しさの溢れる世界へ」  ミチはゆっくりと首を縦に振った。ふと視線を上げると徹平が今にも襲い掛からん形相で構えている。今のは夢――なのか? 瞬きの間の出来事……。ミチを包んでいた大きくて暖かい翼はもうない。暗い病院の廊下には徹平の荒い息遣いだけが響いていた。 「――俺に服従を誓え。そして、その体を捧げろ」  呪いのような言葉が廊下に響く。ミチは唇をきつく噛みしめたまま首を大きく横に振った。 「もう、罪は十分すぎるほど償った。俺は……俺の体は……っ」  言いかけたミチの呼吸が止まった。素早く動いた徹平がミチの首を締めあげたからだ。声が出せない。肺が痛い。心臓が壊れたみたいにバクバク大きな音を立てる。 (あぁ……。やっぱり俺の罪はまだ、赦されない――のか)  目の前が暗くなり視界が狭くなっていく。すぐ近くにあるのは下卑た笑いを浮かべる徹平の顔。赤い瞳がミチを捉えて離さない。でも――英慈の魂を抱きしめる手には今まで以上に力を込めた。 (痛いかも……。でも、我慢して――ね)  意識が遠のいていく。膝に力が入らない。ミチの体がぐらりと傾き膝から頽れた瞬間、首にかかっていた徹平の手が離れた。そして、足元に大きく目を見開いたままの彼の顔が転がった。薄れゆく意識の中でアズラエルの声を聞いた。 「――誰がクソ天使だ! 俺の策にまんまと引っ掛かるなんて、単細胞がっ」  アズラエルの大鎌の刃は、寸分の狂いなく徹平の首を切り落としていた。向かい合っていたミチに傷はない。魂と肉体を切り離す大鎌も、悪魔が相手となれば立派な武器へと変わる。 「サリエルの大鎌をナメるなよ。これを扱えるのは、天界広しといえども俺だけなんだから……」  徐々に体が崩れ落ち朽ち果てていく徹平に吐き捨てたアズラエルは、ミチの体を抱き上げるとエレベーターに乗り込んだ。壁に凭せかけるようにミチを座らせると、ドアを閉め▲のボタンを押す。大事そうに英慈の魂を抱いたまま意識を失っているミチを見つめ、安堵のため息とともに呟いた。 「――お前の幸せそうな顔。四〇〇年ぶりに見た気がする」  エレベーターが上昇を開始する。白い光が内部を包み込み、視界が曖昧になっていく。ミチが目覚めた時、その場所は緑の木々が生い茂り、豊かな水を湛えた光の楽園に戻る。そう――最愛の伴侶と共に『エデン』が蘇る。

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