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【13】
「おはようございます!」
木製の扉を力任せに開いたミチは、背後で蝶番が外れる音を耳にした瞬間、体を竦ませて立ち止まった。しかし、ガタついた扉はそれ以上傾くことはない。今はそれを支える力強い腕があるからだ。
「――おはよう。これで5503回目だ」
窓際のデスクに座り、タブレットをスクロールしながら眼鏡越しに視線を向けたシファが、大仰なため息をついて見せる。毎朝くり返される二人のやり取りを、笑いを堪えながら見つめるマナ。そして――。
「社長。ミチの記録をカウントする暇があったら、修理したらいかがですか?」
ミチの背後に立つ長身の青年――英慈から発せられた言葉に、シファはもう一度ため息をついた。
「そういうところにはお金をかけないのが、俺のポリシー。修理するくらいなら、新作スイーツを食べたほうがいいからね」
柔らかな栗色の髪についた寝ぐせを気にすることなく、シファは一筋だけ落とした前髪越しにその青年を睨んだ。丸みのあるシルバーフレームの眼鏡の奥にある薄いブルーの瞳。普段は穏やかであるそれが鋭いものへと変わる。しかし、それは一瞬のことで近くにいたマナも気づいてはいない。大鎌を担ぎ、生と死を司る天使アズラエルの姿は今はない。オレ様口調も、息を呑むほどの容姿もなりを潜めている。身分も、サリエルの伴侶であることも隠し、ゆるキャラ社長に徹するシファに最初のうちは戸惑いを隠せなかったミチだったが、あれから半年が経った今、やっと見慣れた光景になりつつあった。
「この前の報告書、天界庁の方にあげておいたから。――そこで、また二人に依頼が来てるんだよ。統括管理室直々に、君たちを指名してきた」
ミチは露骨に嫌な顔をして、聞かなかったフリをする。自身のデスクに座ると何事もなかったかのように書類に目を通し始めた。
「お~い。ミチ、聞いてる? ねぇ、ちょっと……エイジ、相棒の機嫌がよくないみたいなんだけど?」
「疲れてるんじゃないですかね?」
「誰のせい? ねぇ、誰のせいなのぉ~?」
間延びした声で意味深に問いかけるシファに、マナが呆れた顔で助け舟を出した。
「社長……。ここのところ、ミチさんたちが指名されることが多いですが、何かあったんですか? エイジさんだって、入社当日から休みなしですよ? 今にブラック企業だって噂が立ちますよ」
「うちはホワイトだよ。マナの知らないところで、ちゃんと休暇を出してるから大丈夫」
クスッと肩をすくめて笑うゆるキャラ社長に、秘書であるマナも脱力する。英慈はミチの隣のデスクに座ると、自身のタブレットを見つめた。そこにはサリエルからのメールが入っており、開封するかどうか悩んでいた。それを横目で見たミチが抑揚のない声で言った。
「――エイジ、それ無視していいよ」
「え? だってこれ……」
「あっちに関してのことだから。今の俺たちは洗濯屋だからね」
二人がエデンに戻ってから、四〇〇年間停滞していた魂を転生し終えたのは、つい三日前のこと。さすがのミチも疲労が蓄積していた。英慈とセックスすることは嫌じゃないし、出来る事ならずっとしていたい。でも、エデン内ではそのたびに転生への力を使うため、休息する時間がほぼない。それに加え、ダズルランドリーサービスの仕事もこなさなければならない。二人が護り人であることは極秘事項だ。あくまでも一般天使として振る舞う。それを知っていながら、なんでも依頼を受けてくるシファに苛立ちを隠せなくなっていた。
「ミチ……ごめん」
「なんで英慈が謝るんだよ。悪いのは社長だしっ」
ミチが聞こえよがしに声を上げた時、シファが何かを思いついたようにパッと表情を変えた。そして、大股でミチたちのデスクに歩み寄ると、二人の肩をポンと叩いた。
「よ~し、分かった! この案件が片付いたら一週間の休暇を出そう」
「一週間……ですか?」
「これ以上は譲れないよ? 稼ぎ頭たちにそんなに休まれたら、うちだって大損害」
シファの柔らかな声音の裏に何かあることは分かってはいたが、ミチは渋々頷いた。隣に座る英慈もまた、訝りながらも了承した。
「じゃあ、早速だけど。管理事務所に行ってデータの閲覧。その間に詳細を送っておくからねっ」
満面の笑みを浮かべ、自分のデスクに戻て行くシファの背中を見つめながら立ち上がったミチは、英慈と顔を合わせると深い溜息をついた。
「まったく……人使いが荒いんだから」
タブレットを片手にフロアを出ようとした二人に、シファの声が追いかけた。
「あぁ、そうそう! 数日前だったかな。3rdストリートに洋菓子屋がオープンしてね。そこのシフォンケーキがめちゃめちゃ美味しいらしいから、君たちも行ってみたら?」
「え?」
歩き出した足を止め、ミチが振り返る。デスクに両肘をついて小首を傾けたまま微笑むシファを見つめ、ゆっくりと目を見開いた。
「社長……。それって……」
「宇宙一美味いって口コミで広がってる。ちなみに、俺は食べたよ――半年以上前にね」
「repos……」
自然と口をついて出た店名に、ミチは心臓が高鳴るのを感じた。英慈もまた、驚いたようにミチを見つめている。真路への想いを巡る旅の終着点。自身の死を目前にしながらも、最愛の妻のことを想っていたマスターの顔が浮かぶ。命を削りながら、彼女亡きあと遺志を継いで苦手なケーキを作り続けた職人……。ミチは、涙が溢れそうになるのをグッと堪え、柔らかな笑みを湛えているシファに「ありがとう」と告げた。
「どういたしまして」
真路を想い、我慢することをやめたあの日……英慈は変わった。マスターもまた、素直に謝ることが出来たのだろうか。ミチは逸る気持ちを抑えながら英慈の手を掴んだ。
「行こうっ!」
外れたままのドアの隙間からすり抜けた二人は、廊下で顔を見合わせるとそのまま唇を重ねた。
「――管理事務所はあと回し、だな」
唇を触れ合わせたまま呟いた英慈に、ミチは申し訳なさそうに視線を下げた。天使になっても甘い物が苦手な英慈。マスターが作るシフォンケーキに目がないミチを気遣い同行するようだ。
「甘い物、苦手でしょ?」
顔色を窺うように上目づかいで見つめたミチに、英慈はふわりと笑みを浮かべた。
「お前が食べさせてくれるなら……」
「え?」
「もう我慢はしないって決めた。でも、お前が喜ぶ顔は見たい……。欲張りだろ?」
「英慈……」
「あの店で真路への想いを断ち切った。でも……こうやってまた、お前とリスタートすることが出来た。もう一度、あのケーキをお前と食べたい……」
英慈の優しさに触れ、ミチは彼の胸に顔を埋めたまま泣いた。出逢っているのに互いに気づかずにいた日々。意見が合わずに衝突した時もあった。でも――今はこうやって一緒にいる。
「ほら、泣いてたら行けないだろ? マスターに笑われるぞ」
大きな手で頭を撫でられ、鼻を啜りながら顔を上げたミチに彼の唇が再び重なった。ふわりと香るのはシフォンケーキよりも甘い蜜。その香りに高ぶった気持ちが次第に落ち着いていく。涙の雫が残るミチの目尻にキスをした英慈は、長身を屈めてミチを覗き込んだ。
「人の想いは廻る。それは絶対に消えることはない。俺たちはその魂を導く洗濯屋だ」
英慈の言葉に強く頷いたミチは手の甲で乱暴に涙を拭うと、背筋を伸ばして下腹に力を込めた。そして、つとめて明るい声で言った。
「今日も一日、頑張りましょう!」
*****
あなたは死を覚悟した時、何を真っ先に思い浮かべますか?
家族のこと、友達のこと。そして……愛する人のこと。
死は終着点ではありません。身を焦がすような恋をして、そのたびに苦しんで涙を流して……。でも、誰かを愛したことは魂に刻まれている。そう――生まれ変わっても、いつかめぐり逢える。その時を待ちながら今を生きてる……。
でも、もしも最愛の人を失い、その魂が深い悲しみに圧し潰されて傷つくようなことがあれば、必ずそこに現れます。手を差し伸べて、天界への切符を渡す人物が。そう――魂の洗濯屋が。
Fin
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