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アナウサギとヒョウ 第四話

アナウサギとヒョウ編 第四話「家族」  「じゃあ、さっきみたいな感じで、もう一回お願いしまーす!」  ディレクターの声が響き、メルツがはいと頷いた。絹のように美しい茶髪は、ハーフアップになっていて、赤いリボンで結ばれている。 「……『好きです……!』」  たった一言で、スタジオ全体が、メルツの持つ、甘い雰囲気に包まれる。 「『ずっと、ずっと好きでした……!』」  メルツはカメラに向かって、いじらしく頭を下げる。その愛らしさに、誰からともなく、感嘆の吐息が漏れた。 「はいカット! Marchいいねぇ」 「あ、ありがとうございます」 「じゃあ次ね。ちょっと待ってて」  メルツはにこりと笑い、小さくお辞儀をした。  この日は、バレンタインに向け、チョコレートのコマーシャルの撮影が行われていた。このコマーシャルは、前年に話題になった芸能人を起用し、毎年、同じシチュエーション、同じセリフで作られる。世間では、毎年、今年は誰がやるだろうかと、密かに話題になっている、認知度の高いコマーシャルだ。比較されやすい分、酷ければ貶され、良ければ人気に火をつける、重要な仕事である。  スタッフがセットや機材を整えている間、メルツはパイプ椅子に腰掛けた。すると、どこからともなくトキが現れ、真剣な顔でカメラとセットを見つめるメルツの頬を、そっとなでた。 「わっ」 「……緊張してるでしょ」  トキのいたずらっ子のような笑みに、自然と肩の力が抜ける。メルツは、は、と息を吐いて、はにかんだ。 「……ありがとう。ごめん、こわばってた?」 「ううん。ちゃんとかわいかったけど……いつものほうがかわいかったから」 「ごめん。ありがとう、マネージャー」  メルツは微笑む。どうやら、自分でも気付かずに緊張してしまっていたらしい。 「……まあ、緊張するなって言うのも難しい話だよね」  トキはそう言い、メルツのリボンを少し直した。 「けど、皆、Marchが最近で一番だって言ってたよ。良かったね」 「えー、俺、ホントはもっと可愛いのに」  メルツはそう言い、けらけら笑う。それから、すっと表情を変えた。 「ちょっと悔しいなぁ……」 「次パターンBの撮影行きまーす!」 「はいっ」  メルツが立ち位置につく。カメラが回り、スタッフたちの目線は全てメルツに集まった。メルツは、柔らかそうな耳と、サラサラの髪の毛をなでつけて、カメラに向かって内緒話をするように、微笑んで言った。 「『……君のために作ったんだよ』」  現場全体が息を呑んだ。物音はおろか、呼吸さえ聞こえない。 「『……なんてね』」  メルツが、からかうような笑みを浮かべる。口元を少しマフラーで隠して、赤い頬を綻ばせて、彼は笑う。 「…………カット! すごくいいよ、さっきよりももっといい!」  監督は、メルツのことを褒め称え、抱きつかん勢いでメルツの手を握って振り回した。メルツは、少し恥ずかしそうに、感謝の言葉を述べる。このとき、ここにいる誰も彼もが、皆、メルツの虜だった。トキは満足げに微笑み、スタッフたちに囲まれるメルツを、遠くから見つめていた。  「メルちゃんだ! 父ちゃん、メルちゃん出てる!」 「分かった、分かった。動くな、チトセ」  マキは、右手に持ったドライヤーで、ざかざかとチトセの黒い髪を乾かしながら、両足でがっちりと彼の身体を押さえつける。チトセは、マキの腕の中で、ジタバタと大暴れしながら、テレビを指さした。 「父ちゃん、メルちゃん出てるってば! 終わっちゃうよぉ」 「動くな! お前が泥だらけで帰ってくるからだろ……」 「ユキ、ズルい! 俺も見たい!」  チトセに名前を呼ばれて、テレビの前に座っていた、白髪の少年が振り返った。彼は、ユキ・タチバナ。珍妙な癖毛と、青く美しい瞳が特徴的な、ユキヒョウ族の子どもである。彼は、タチバナ家が、幼い頃に引き取り育ててきた養子で、マキやトキの義弟にあたる。歳は、チトセとほとんど変わらない六歳で、イーストシティの幼稚園に通っている。 「はい、できた」 「やったー」  マキが手を離した瞬間、チトセはユキのほうへすっ飛んでいった。ユキは、びくっと肩を跳ねさせ、二つ年下の甥が頬を擦り寄せてくるのを鬱陶しそうにする。  マキがため息をつきながらドライヤーを片付けていると、横からクスクスと笑い声がした。 「兄ちゃん、ちぃちゃん元気だねぇ」 「もうお手上げだ。どうにかしてくれ……」  マキはやれやれと首を振り、ドライヤーをソファーの上に投げ捨てる。トキはゆっくりと立ち上がり、二人の子どものそばに向かった。 「ユキ、チトセ、もうすぐメルちゃんが来るから、ここ片付けてくれる?」 「はーい!」  チトセは元気よく返事をして、勢い良く立ち上がった。その頭が、じゃれていたユキの顎にガツンとぶつかる。 「いた……っ!」  ユキが小さく声を上げる。刹那、ユキの下で、チトセが大声を上げた。 「うわぁあああん! 父ちゃん、ユキ兄がぁあ!」 「今のはお前のせいだろ!」 「あたまうったぁあ!」  チトセはマキに飛びつき、びしゃびしゃ泣きながら胸に顔を埋めた。マキはチトセを抱き上げたままソファーに座り、ため息をつく。 「もう……どんくさいな、ほんとに……」  マキはチトセの頭を撫でながら、反対の手でユキに手招きした。 「ユキ、痛かっただろ。兄ちゃんに見せてみな」 「いい……」  ユキは涙目で首を振った。どちらかと言えば、痛かったのはユキのほうだったろうが、彼は遠慮しているのか、お兄ちゃんぶっているのか、マキに近寄ろうとしない。 「……ほら、ちぃ、ごめんなさいしろ」 「いや!」 「なんで嫌なんだ。ユキ兄痛かったんだぞ」 「い! や!」 「あはは、ちぃちゃんだって痛かったもんね?」  トキがそう言い、ひょいとユキを抱き上げる。 「痛かったね、ユキ」  トキの言葉を聞いて、ユキが、ぎゅっとトキの首にしがみつく。背を撫でると、ユキはすんと鼻を鳴らした。 「こ、こんにちは……」  そのとき、リビングに、居心地悪そうな挨拶と共に、メルツが顔を出した。 「メルちゃん!」  メルツの顔が見えた瞬間、マキの腕のなかで今の今までしおらしくしていたチトセが、突然元気よく立ち上がった。 「おい、チトセ……!」 「えーっ、メルちゃんなんで今日お家にいるのー? ねえねえ、なんでー?」 「だって、今日は誕生日でしょ」  メルツはにこりと笑い、持っていたバッグの中から、青い袋を取り出した。 「はい。ユキくん、お誕生日おめでとう」  メルツは、そう言って、ユキにその袋を手渡した。ユキはキラキラと目を輝かせ、頬を紅潮させる。 「……ありがとう、メルちゃん……!」 「好きだといいんだけど……」 「ううん……、メルちゃんに貰ったものなら、おれ、なんでも好き……!」  ユキは袋を抱きしめ、尻尾をゆらりと振る。それを見たチトセが、メルツの服をひしと掴んだ。 「ずるい! ちぃもほしい! ちぃも!」 「チトセくんは、四月二十七日でしょ。もうすぐだから待っててね」  メルツはそう言い、チトセの頭を撫でた。しかし、現在絶賛ご機嫌ナナメのチトセは、地団駄を踏みながら、ほしいほしいと大声を上げ始める。 「チトセ!」  マキが怒鳴っても、チトセはちっとも言うことをきこうとしない。すると、トキに抱かれていたユキが、ひょいと床に下りてチトセのそばに近付き、彼の肩をとんとんと叩いた。 「ちぃ、はやく開けよう」 「……あける!」  チトセはそう言って、ユキの手を掴んだ。二人は絨毯の上に座り、袋を囲む。紐を解いていくうちに、チトセの機嫌はころっと直っていた。 「……兄ちゃんそっくり」 「おい、冗談だろ。絶対俺じゃない」 「じゃあ誰に似たの? ……兄ちゃんは、小さい頃こんなだったよ」  兄は首を傾げ、そうだったかなと呟く。トキはくすくす笑い、そうだよ、と言った。 「わーっ、手袋だーっ」  チトセが叫ぶ。チトセとユキは、手袋をめぐって、また床に転がりながら暴れだした。 「おい、チトセ! いい加減にしろ! ユキの誕生日だぞ!」 「……二つ買ってきたほうがよかったかな」 「おい、メルちゃん、甘やかさなくていいって。あいつホントわがままばっかで……」  マキが苦い顔でそう言うと、メルツは楽しそうに笑った。 「幸せだからわがままなんですよ、マキくん」  メルツの言葉に、マキは黙り込んだ。メルツはくすくすと笑いながら、マキを見上げた。 「……ねーねー、さっきね、テレビにメルちゃん出てた」  右手だけに手袋をつけたチトセが、突然メルツの足元にやってきて、そう言った。横には、左手に手袋をつけたユキが立っている。メルツは首を傾げた。 「ん? なんだろう。今日何かあったっけ、トキちゃん」 「『好きです』って言ってた」 「あっ、ああ! あれかぁ……。恥ずかしいなぁ」  メルツは照れ笑いを浮かべ、頭を掻いた。 「あのCM話題だよな。会社でもMarchのファンいたりしてヒヤッとするよ」 「兄ちゃんって嘘下手だもんね」 「ま、嘘吐くような場面来ないし、しばらくは大丈夫だな。誰も俺が関係者だとは、普通思わないし」  そんなことを言っていると、リビングの机の上にコンロと鍋がドンと置かれた。 「はい、ご飯できたよ。ほら、みんな座ってね」  トキの父が、鍋の蓋を開く。わっと子どもたちが駆け寄ってきて、椅子に座った。マキは箸や皿を出しながら、チトセに鍋に触るなと注意をする。  母や父が椅子に座り、子どもたちに鍋を取り分けたり、お茶を注いだりし始め、トキも席についた。 「メルちゃん、はやく座れよ」  マキがそう言い、トキの隣の椅子を引いた。そこには、当たり前のように自分の席があり、当たり前のように食器があった。メルツは、少し躊躇しながら、そこに座る。 「ちっちゃいハンバーグ!」 「肉だんごだよ」 「ちぃ、だんご好きー」 「メルちゃんって、お肉大丈夫だったよね?」 「はい、好きです」  トキの父は、ゆったりとした動きで鍋から具材を引っ張り出す。 「マキはどうする? お肉食べる?」 「……あー、俺の分いいや。ちぃにやって」  この家族の食事に、日常に、当たり前のように、自分がいる。存在すら認められていない自分に、居場所を作ってくれている。この異常さが、この家族には、きっと、伝わらない。 「……俺、この家大好きだなぁ」  メルツはそう言い、嬉しそうに笑った。

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