45 / 45
アナウサギとヒョウ 第四話
アナウサギとヒョウ編
第四話「家族」
「じゃあ、さっきみたいな感じで、もう一回お願いしまーす!」
ディレクターの声が響き、メルツがはいと頷いた。絹のように美しい茶髪は、ハーフアップになっていて、赤いリボンで結ばれている。
「……『好きです……!』」
たった一言で、スタジオ全体が、メルツの持つ、甘い雰囲気に包まれる。
「『ずっと、ずっと好きでした……!』」
メルツはカメラに向かって、いじらしく頭を下げる。その愛らしさに、誰からともなく、感嘆の吐息が漏れた。
「はいカット! Marchいいねぇ」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ次ね。ちょっと待ってて」
メルツはにこりと笑い、小さくお辞儀をした。
この日は、バレンタインに向け、チョコレートのコマーシャルの撮影が行われていた。このコマーシャルは、前年に話題になった芸能人を起用し、毎年、同じシチュエーション、同じセリフで作られる。世間では、毎年、今年は誰がやるだろうかと、密かに話題になっている、認知度の高いコマーシャルだ。比較されやすい分、酷ければ貶され、良ければ人気に火をつける、重要な仕事である。
スタッフがセットや機材を整えている間、メルツはパイプ椅子に腰掛けた。すると、どこからともなくトキが現れ、真剣な顔でカメラとセットを見つめるメルツの頬を、そっとなでた。
「わっ」
「……緊張してるでしょ」
トキのいたずらっ子のような笑みに、自然と肩の力が抜ける。メルツは、は、と息を吐いて、はにかんだ。
「……ありがとう。ごめん、こわばってた?」
「ううん。ちゃんとかわいかったけど……いつものほうがかわいかったから」
「ごめん。ありがとう、マネージャー」
メルツは微笑む。どうやら、自分でも気付かずに緊張してしまっていたらしい。
「……まあ、緊張するなって言うのも難しい話だよね」
トキはそう言い、メルツのリボンを少し直した。
「けど、皆、Marchが最近で一番だって言ってたよ。良かったね」
「えー、俺、ホントはもっと可愛いのに」
メルツはそう言い、けらけら笑う。それから、すっと表情を変えた。
「ちょっと悔しいなぁ……」
「次パターンBの撮影行きまーす!」
「はいっ」
メルツが立ち位置につく。カメラが回り、スタッフたちの目線は全てメルツに集まった。メルツは、柔らかそうな耳と、サラサラの髪の毛をなでつけて、カメラに向かって内緒話をするように、微笑んで言った。
「『……君のために作ったんだよ』」
現場全体が息を呑んだ。物音はおろか、呼吸さえ聞こえない。
「『……なんてね』」
メルツが、からかうような笑みを浮かべる。口元を少しマフラーで隠して、赤い頬を綻ばせて、彼は笑う。
「…………カット! すごくいいよ、さっきよりももっといい!」
監督は、メルツのことを褒め称え、抱きつかん勢いでメルツの手を握って振り回した。メルツは、少し恥ずかしそうに、感謝の言葉を述べる。このとき、ここにいる誰も彼もが、皆、メルツの虜だった。トキは満足げに微笑み、スタッフたちに囲まれるメルツを、遠くから見つめていた。
「メルちゃんだ! 父ちゃん、メルちゃん出てる!」
「分かった、分かった。動くな、チトセ」
マキは、右手に持ったドライヤーで、ざかざかとチトセの黒い髪を乾かしながら、両足でがっちりと彼の身体を押さえつける。チトセは、マキの腕の中で、ジタバタと大暴れしながら、テレビを指さした。
「父ちゃん、メルちゃん出てるってば! 終わっちゃうよぉ」
「動くな! お前が泥だらけで帰ってくるからだろ……」
「ユキ、ズルい! 俺も見たい!」
チトセに名前を呼ばれて、テレビの前に座っていた、白髪の少年が振り返った。彼は、ユキ・タチバナ。珍妙な癖毛と、青く美しい瞳が特徴的な、ユキヒョウ族の子どもである。彼は、タチバナ家が、幼い頃に引き取り育ててきた養子で、マキやトキの義弟にあたる。歳は、チトセとほとんど変わらない六歳で、イーストシティの幼稚園に通っている。
「はい、できた」
「やったー」
マキが手を離した瞬間、チトセはユキのほうへすっ飛んでいった。ユキは、びくっと肩を跳ねさせ、二つ年下の甥が頬を擦り寄せてくるのを鬱陶しそうにする。
マキがため息をつきながらドライヤーを片付けていると、横からクスクスと笑い声がした。
「兄ちゃん、ちぃちゃん元気だねぇ」
「もうお手上げだ。どうにかしてくれ……」
マキはやれやれと首を振り、ドライヤーをソファーの上に投げ捨てる。トキはゆっくりと立ち上がり、二人の子どものそばに向かった。
「ユキ、チトセ、もうすぐメルちゃんが来るから、ここ片付けてくれる?」
「はーい!」
チトセは元気よく返事をして、勢い良く立ち上がった。その頭が、じゃれていたユキの顎にガツンとぶつかる。
「いた……っ!」
ユキが小さく声を上げる。刹那、ユキの下で、チトセが大声を上げた。
「うわぁあああん! 父ちゃん、ユキ兄がぁあ!」
「今のはお前のせいだろ!」
「あたまうったぁあ!」
チトセはマキに飛びつき、びしゃびしゃ泣きながら胸に顔を埋めた。マキはチトセを抱き上げたままソファーに座り、ため息をつく。
「もう……どんくさいな、ほんとに……」
マキはチトセの頭を撫でながら、反対の手でユキに手招きした。
「ユキ、痛かっただろ。兄ちゃんに見せてみな」
「いい……」
ユキは涙目で首を振った。どちらかと言えば、痛かったのはユキのほうだったろうが、彼は遠慮しているのか、お兄ちゃんぶっているのか、マキに近寄ろうとしない。
「……ほら、ちぃ、ごめんなさいしろ」
「いや!」
「なんで嫌なんだ。ユキ兄痛かったんだぞ」
「い! や!」
「あはは、ちぃちゃんだって痛かったもんね?」
トキがそう言い、ひょいとユキを抱き上げる。
「痛かったね、ユキ」
トキの言葉を聞いて、ユキが、ぎゅっとトキの首にしがみつく。背を撫でると、ユキはすんと鼻を鳴らした。
「こ、こんにちは……」
そのとき、リビングに、居心地悪そうな挨拶と共に、メルツが顔を出した。
「メルちゃん!」
メルツの顔が見えた瞬間、マキの腕のなかで今の今までしおらしくしていたチトセが、突然元気よく立ち上がった。
「おい、チトセ……!」
「えーっ、メルちゃんなんで今日お家にいるのー? ねえねえ、なんでー?」
「だって、今日は誕生日でしょ」
メルツはにこりと笑い、持っていたバッグの中から、青い袋を取り出した。
「はい。ユキくん、お誕生日おめでとう」
メルツは、そう言って、ユキにその袋を手渡した。ユキはキラキラと目を輝かせ、頬を紅潮させる。
「……ありがとう、メルちゃん……!」
「好きだといいんだけど……」
「ううん……、メルちゃんに貰ったものなら、おれ、なんでも好き……!」
ユキは袋を抱きしめ、尻尾をゆらりと振る。それを見たチトセが、メルツの服をひしと掴んだ。
「ずるい! ちぃもほしい! ちぃも!」
「チトセくんは、四月二十七日でしょ。もうすぐだから待っててね」
メルツはそう言い、チトセの頭を撫でた。しかし、現在絶賛ご機嫌ナナメのチトセは、地団駄を踏みながら、ほしいほしいと大声を上げ始める。
「チトセ!」
マキが怒鳴っても、チトセはちっとも言うことをきこうとしない。すると、トキに抱かれていたユキが、ひょいと床に下りてチトセのそばに近付き、彼の肩をとんとんと叩いた。
「ちぃ、はやく開けよう」
「……あける!」
チトセはそう言って、ユキの手を掴んだ。二人は絨毯の上に座り、袋を囲む。紐を解いていくうちに、チトセの機嫌はころっと直っていた。
「……兄ちゃんそっくり」
「おい、冗談だろ。絶対俺じゃない」
「じゃあ誰に似たの? ……兄ちゃんは、小さい頃こんなだったよ」
兄は首を傾げ、そうだったかなと呟く。トキはくすくす笑い、そうだよ、と言った。
「わーっ、手袋だーっ」
チトセが叫ぶ。チトセとユキは、手袋をめぐって、また床に転がりながら暴れだした。
「おい、チトセ! いい加減にしろ! ユキの誕生日だぞ!」
「……二つ買ってきたほうがよかったかな」
「おい、メルちゃん、甘やかさなくていいって。あいつホントわがままばっかで……」
マキが苦い顔でそう言うと、メルツは楽しそうに笑った。
「幸せだからわがままなんですよ、マキくん」
メルツの言葉に、マキは黙り込んだ。メルツはくすくすと笑いながら、マキを見上げた。
「……ねーねー、さっきね、テレビにメルちゃん出てた」
右手だけに手袋をつけたチトセが、突然メルツの足元にやってきて、そう言った。横には、左手に手袋をつけたユキが立っている。メルツは首を傾げた。
「ん? なんだろう。今日何かあったっけ、トキちゃん」
「『好きです』って言ってた」
「あっ、ああ! あれかぁ……。恥ずかしいなぁ」
メルツは照れ笑いを浮かべ、頭を掻いた。
「あのCM話題だよな。会社でもMarchのファンいたりしてヒヤッとするよ」
「兄ちゃんって嘘下手だもんね」
「ま、嘘吐くような場面来ないし、しばらくは大丈夫だな。誰も俺が関係者だとは、普通思わないし」
そんなことを言っていると、リビングの机の上にコンロと鍋がドンと置かれた。
「はい、ご飯できたよ。ほら、みんな座ってね」
トキの父が、鍋の蓋を開く。わっと子どもたちが駆け寄ってきて、椅子に座った。マキは箸や皿を出しながら、チトセに鍋に触るなと注意をする。
母や父が椅子に座り、子どもたちに鍋を取り分けたり、お茶を注いだりし始め、トキも席についた。
「メルちゃん、はやく座れよ」
マキがそう言い、トキの隣の椅子を引いた。そこには、当たり前のように自分の席があり、当たり前のように食器があった。メルツは、少し躊躇しながら、そこに座る。
「ちっちゃいハンバーグ!」
「肉だんごだよ」
「ちぃ、だんご好きー」
「メルちゃんって、お肉大丈夫だったよね?」
「はい、好きです」
トキの父は、ゆったりとした動きで鍋から具材を引っ張り出す。
「マキはどうする? お肉食べる?」
「……あー、俺の分いいや。ちぃにやって」
この家族の食事に、日常に、当たり前のように、自分がいる。存在すら認められていない自分に、居場所を作ってくれている。この異常さが、この家族には、きっと、伝わらない。
「……俺、この家大好きだなぁ」
メルツはそう言い、嬉しそうに笑った。
ともだちにシェアしよう!