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ある日オフィスで熊さんに出会った

 見知らぬ熊の腕に抱かれながら、俺は走馬灯を見ていた。 「明けましておめでとうございます、斎竹(いみたけ)専務!」 「今年もよろしくお願いします、専務。雪なのに、今日も素敵なセットアップですね! 流石ですぅ」 「明けましておめでとう、みんないい年越しだったみたいだね」  きりっと爽やかな一月の空気に、社員たちの活気あふれる声が白く溶ける。  前日に降った雪はうっすらと道路を覆う程度だったし、わざわざ雪用の靴を引っ張り出すのも面倒だった。そこに見栄えを優先したい気持ちが上乗せされて、愛用のアルマーニを選択したのだ。それが間違いだった。  正面玄関へたどり着くまでの道すがら、靴底には確実に雪が溜まっていった。それも大したことはないだろうとエントランスホールに一歩踏み出した途端、悲劇は起きた。  磨き上げられた床に、雪が解けたあとの水。そこに足を乗せてしまい、俺の体は勢いよく滑った。  体が宙に浮いて、世界が反転する。  ああ。これは腰か、首をやって死ぬパターンだ。  落下する前の一瞬、皆の視線が俺に集まっているのがわかった。  能力もルックスも、時には実家の太さすら恥ずかしげもなく武器にして、二十八歳にして社長補佐にまで上り詰め、上司の覚えめでたく優秀で抜け目のないこの俺が新年早々、無様に滑って転倒し、あげく、命まで落とすとは。  こんなことならゴアテックスを履いてくるんだった──。  世を儚んでいる時間は、思ったより柔らかな感触で終わりを告げた。 「大丈夫か?」  ぎゅっとつむっていた目を恐る恐る開けると、後光の差した熊が俺の顔を覗きこんでいた。正確には、熊っぽい見た目の人物が。  濃い眉に二重の垂れ目、しっかりした鼻筋に厚めの唇。何かスポーツでもやっていそうな雰囲気だ。天の使いは精悍な若い男だった。  背中や太ももの裏にみっしりと密着するような筋肉の幅からして、体格も相当いいのだろう。このムキムキの体で俺をお姫様抱っこして、天国へ連れてきたのか。  ああ、とまた泣きそうになる。  熊の天使は「怖かったな、よしよし」などと言って俺の頭を撫でた。  キスでもされようかというほどに近い距離と、男の優しさに、思わず顔が熱くなる。止まったはずの心臓もドキドキと速いテンポで脈を打っているみたいだ。  死んだというのにこんなことで赤面するなんて、死にたての人間はこれだから、などと思いながら辺りをキョロキョロ見回す。天国はうちのオフィスビルのエントランスにそっくりな形をしていた。 「斎竹専務︎〜〜っ!!」 「ご無事でよかったです!!」  わっと声を上げて駆け寄ってきた社員達を見ても、俺は事態を把握しきれずにいた。 「俺は転んで天に召されたはずじゃ……?」 「安心しろ、死んじゃいねえよ」  熊の天使──もとい熊っぽい男は、俺をひょいと抱え上げて足から地面に着地させてくれた。彼が動くのと同時に、腰につけられた布製の鞄から、がちゃがちゃと金属のこすれ合う音がする。  改めて立った姿勢の熊男と向き合うと、それなりに長身の俺でも目線が上がってしまう。他の社員と比べても頭ひとつ抜けているようだ。  目についたのは作業着に工具入れ。そのいでたちに、俺はようやく合点がいった。  彼は熊でも天使でもない、ビルメンテナンス業務に携わる部署の人間だ。普段はお互いほとんど関わることのない場所にいるので、どうりで顔を知らないわけだ。 「あ、あの」 「っと、遅刻しちまう。それじゃ俺はこれで」  礼を言う間もなく、ビルメンの熊男はさっさと走り去ってしまった。

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