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ところが熊さんは…

 呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていると、転倒の際に落としてしまったバッグやらストールやらを皆が拾って手渡してくれた。 「斎竹(いみたけ)専務、大丈夫でしたか?」 「かっこよかったですねー彼! 結構遠くにいたのにあっという間に駆け寄ってきて!」 「そうそう! それで専務をふわっとキャッチして、そのままお姫様抱っこしちゃったんですよ!」  きゃあきゃあ喜ぶ女子社員の声が遠く聞こえる。心なしか男性社員の目が生暖かい。  要は、エントランスに入った瞬間から助け起こされた現場が、全て衆目(しゅうもく)に晒されていたわけだ。  いい歳した男が涙ぐんだり赤面したり、頭をなでられてあやされた場面まで。 (うわあああああああ!!)  自覚した途端、叫び出したくなるような羞恥にかられた。冷静になろうとすればするほど、顔に熱が集まっていく。  よりによってあんな場面を人に見られるなんて、新年早々最悪だ。いっそのこと死んでいた方がマシだったかもしれない。  誰かに笑われているのではないかという妄想につきまとわれ、その日の業務は全く手につかなかった。  正月ボケかと大目に見てもらえるのはせいぜい今日までだ。明日からは何事もなかったかのように、いつもの有能な専務でいなければいけない。だというのに……俺の頭には今朝の死ぬほど恥ずかしい光景が何度もフラッシュバックしていた。そのたび額をファイルで殴打したり、顔を覆ったりと奇行を繰り返してしまう。 (それもこれも……全部あいつのせいだ!)  もちろん完全な逆恨みだ。  けれど、この記憶を払拭するためには、相手にも同じ思いをしてもらわねば気がすまない!  定時で仕事を終えると、俺はビル管理部に足を運んだ。 「邪魔するよ」  定時を過ぎたというのにビル管理部の面々は、和気あいあいと菓子をつまんでいた。俺が一声かけると途端に緊張が走り、皆が席を立つ。 「い、斎竹(いみたけ)専務! お疲れさまです」 「ここに若い男性スタッフがいると思うんだが……」 「え? ああ、唐牛(かろうじ)!」  そう呼ばれて振り返ったのは、奥の席に座った男だった。忘れもしないあの熊! 再びフラッシュバックに苦しんだが、同時に俺は、彼を見つけたことにこの上ない高揚を覚えていた。  男は、俺を見てすぐにピンときたらしい。 「ああ、あんた今朝の」 「あんたじゃない、斎竹専務だ! ちゃんと挨拶しろ、(いづる)」  中年の職員があわててとりなすが、そんなことは気にも留めず、俺は唐牛の下の名前をしっかりと認識した。  いづる、というのか。 「いや、挨拶をしに来たのはこちらの方なんだ。今日は『(いづる)くん』に助けてもらったものだから」 「は、そうでしたか! (いづる)、特に何も報告は聞いていないが何かあったのか?」  さっそく下の名前で呼ぶと、ビル管理部の者たちは瞬時にこちらの意図を察したようだ。恐縮しながらも唐牛を会話に巻き込もうと水を向けてくれた。 「別に、何てことないですよ。それより、斎竹……専務? 俺に何か用ですか」  何か用どころではない。俺の心の平穏のために、お前には今から俺と同じ羞恥を味わってもらう! 「実は今日のお礼をしたくて……よかったら、食事にでも」  あらゆる表情筋を総動員して俺は完璧な笑顔を作ってみせた。この微笑みで勝ち取った商談は数知れず。元々恵まれたルックスに甘やかな表情を添えてやれば、どんな相手も大抵いい返事をくれる。  それが俺の策略だ。  軽めのイタリアンかと思わせておいて青山の一等地にあるリストランテに連れて行けば、彼は泡を食ったように慌てるに違いない。  大人しくなったところを華麗にフォローして極上の微笑みを投げかけてやる。  台詞はそうだな、「口に合わなかったかな? そう、君が喜んでくれたなら何よりだ」と、こんなところだ。これならいかな熊であろうと羞恥に肩を縮めることだろう。 「悪いけど、今日は当直だから無理だ」 「はっ?」  想定外の反応に俺は耳を疑った。  無理だと? 当直?  俺としたことが、ビルメンは他部署と違って当直があることを失念していた。ものの数秒で頓挫した計画を悟られぬようにしたいところだが、声が震えて顔が引きつる。  それじゃ、どうやってこの熊に恥をかかせればいいのだ。 「(いづる)っ! 専務の言うことを優先しろ。誰かに当直代われないか当たってみるから」  おお! 話のわかる人間がいた。上司から言われればさしもの熊も従わないわけにはいくまい。 「いや、そういうわけにはいかないよ。高畑さんは腰痛めてるだろ? 西村さんとこはお子さんもまだ小さいし。瀬尾さんは今日、奥さんとデートだろ」  当直の勤務変更は、日勤とは訳が違う。どうやら唐牛は、誰が何と言おうと勤務を代わるつもりはないらしい。

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