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あら熊さんありがとう

「そ、そうは言っても……」  中年の男がちらりと横目でこちらを窺う。俺はため息をついた。何も他部署をひっかき回してまで、こちらの我を通そうとは思っていない。 「そういうことなら無理強いはしない。また日を改めて伺うことにするよ」  なんだか、唐牛(かろうじ)にすっかり毒気を抜かれてしまった。  そもそも助けてもらったのに逆恨みなんて、不義理もいいところだ。普段は人を恨んだりなんてしないのに……。先ほどまでの勢いがすっかりしぼんで、俺は彼らに背を向け管理室を出た。 「専務さーん」  エントランスを出ようとしたところで、唐牛(かろうじ)の声が聞こえた。振り返ると、息も乱さず軽快に彼が駆け寄ってくるところだった。背丈がある分一歩が大きい。  この足で、俺を助けてくれたのか……またフラッシュバックが襲ってきたが、今度は嫌な気はしなかった。不思議と胸の奥が疼くような、むず(がゆ)い気分になる。 「これどうぞ」  差し出されたのは何かが入っている小さな紙袋だった。なんだろう? 折り畳まれた口を広げてみると、中にはでかいコロッケが入っていた。こんなに大きいのにきれいに揚がっている。昼食は適当なものしか食べなかったせいで、定時上がりの腹はカロリーを欲していた。香ばしいパン粉の匂いが耐えがたいほどに食欲をそそる。 「……どうしてこれを?」 「ほんのお詫びに。せっかく食事に誘ってくれたのに、行けなくて悪いね」 「いや、それは別に……君、このコロッケは夜勤中の食事じゃないのか?」  唐牛は事もなげにうなずいた。 「ああ、そうだけど」 「もらえないよ、夜勤は体力を使うだろう?」 「まあ……でも、専務さん、気を張っていたみたいだから」 「えっ」  確かに今日は妙なことがあったせいで、ずっと気が休まらなかった。さっきも彼を(おとしい)れようと躍起になって、神経を昂らせていたのは否めない。 「どうぞ。うまいよ」  初めて見た時は寡黙(かもく)で熊のようだと思った強面(こわもて)に、少年のあどけなさを残す微笑みが浮かぶ。そのギャップがとんでもなく可愛らしくて、落ち着いたと思った心臓がまた暴れ出した。  垂れ目が細められた柔らかな微笑みが、自分だけに向けられていると思えば、天にも昇るような心地がする。  どうしてそんなに優しいんだ。俺は君を陥れようとしたのに──  俺を助けたのも、周りの職員への気遣いも、自己犠牲のつもりなどは毛頭なかったのだろう。誰かに優しくするのは、唐牛にとってはごく自然なことなのだ。心にもない礼で食事に誘おうとした自分が恥ずかしい。 「あの、さっきは礼を言えなくてすまなかった。助けてくれてどうもありがとう」 「あはは! 専務さん、義理堅い人なんだな」  そんなことはない。人を疑うことを知らない唐牛(かろうじ)を見ていると、自分もこうありたいと素直に思えてくる。  俺は勇気を出して言葉を継いだ。 「食事の件、本当に考えておいてくれ」 「ああ、わかったよ。楽しみにしてる」  彼は歩き出してから一度こちらに顔を向け、手を振ってくれた。思わず力加減も忘れてぶんぶんと振り返す。  広い背中を見送り、次の一手を思案する。  作戦は一部変更、青山の一等地のリストランテは外せないが食事の目的に大幅な修正を要する。  唐牛出との親睦を深め、俺という人間を気に入ってもらうこと。理由は勿論、俺に惚れてもらうため。俺は彼に相応しい人間になるためにより一層努力し、近い将来彼の隣を独占する。  その業深い欲望の名前は、初恋だ。  そう自覚した途端、今日の出会いが俺に訪れた運命なのだと、強く確信した。  『初恋は叶わない』なんてジンクスは信じない。ライバルは多いだろうが関係ない。俺は絶対に彼を振り向かせてみせる。今までだって、俺が願って叶わない夢などなかったのだから。  オフィスを出て管理室の明かりを見つけ、彼の横顔を眺めながら、差し当たって明日以降もここに通う口実を考え始めた。

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