これはまだクリストフとアレンが結婚して一年に満たない頃の話である。 　クリストフは結婚当初、どうにかアレンを解放してやろうと、あれこれ策を練っていた。そのうちの一つが、アレンとの間に世継ぎを設けないというものである。 　もしかすると最初はアレンが不能なのだと不名誉な噂が流れるかもしれないが、後々、再婚してアレンには子供が出来てもクリストフには子供が出来なければ、世論は畑が悪いという結論に至るだろう。 　いずれは国王になる身として、いつかは世継ぎを生まなくてはならないことも自覚している。それはクリストフの義務だ。しかし、アレンのような有能なアルファを自分の……この国の犠牲にして燻らせていてよいのかという迷いもあった。 　だからクリストフは結婚前から抑制剤を飲むようにし、発情を無理矢理抑え込んできた。そもそもクリストフに発情期が来ないという噂が流れれば、クリストフに疑いの目が向けられる可能性も高まるはずだ。 　そうやって発情期を三回ほどやり過ごして、もうじき次の発情期がやってこようというころ、そろそろ抑制剤を服用しておこうと鍵付きの棚を開いたのだが。 「……え？」 　抽斗の中に大事にしまっておいたはずの薬瓶が消えていた。奥の方に転がったのかとギリギリまで引っ張り出してみるが、見当たらない。下の段に落ちたのかもとすべての抽斗をひっくりかえしてみるが、それでも見つからなかった。 「まさか……、なぜ？」 　誰かに盗まれたのだろうか。いや、この引き出しには鍵がかかっていて、その鍵は常にクリストフが肌身離さず持っている。ゆいいつ手放すのは風呂に入るときくらいのものだが、その短い間に人目をかいくぐって薬を盗み、さらに今日まで怪しまれないように元通り鍵を戻しておくなんて出来るはずがない。 　オメガであるクリストフの入浴中など、たとえ番がいたとしても警備が厳重になるのに盗み出すのは不可能だ。……たった一人を除けばの話だが。 （……そうだ。そんなことが出来る者がいるとすれば、一人しかいない） 　頭が真っ白になったのは一瞬で、次の瞬間には冷静に犯人像を思い浮かべていた。ちょうどその容疑者が何食わぬ顔で二人の寝室に入ってくる。 「おや、こんな時間から模様替えでもはじめたのですか？　もう遅いし、明日にしませんか？」 　王配であり、クリストフの夫でもあるアレンが、眼鏡のブリッジを押し上げ、面白くもない冗談を吐く。しかし今のクリストフに彼の軽口に付き合う余裕はなかった。 　アレンの香りをいつもよりも濃厚に感じたせいだ。すでに発情期が目前に迫りつつある。はやく薬を取り返して飲まなくては、取り返しのつかないことになる。 「アレン、お前、何か俺に謝らなければならないことがあるんじゃないのか？」 　クリストフは腕を組み、夫を見上げた。 　出会ったころには大して変わらなかったくせに一人ですくすく成長して、これだからアルファという奴はと、心の中で負け惜しみのような悪態を吐いてしまう。 「謝らなくてはならない事ですか？　はて。思いつきませんね」 　わざとらしくしらばっくれる。このまま惚けたふりで乗り切ろうというのか。そうは行くかと、クリストフは毅然とした態度で抽斗の中身が散乱している棚の上をつついた。 「ここにあったはずの物が消えているんだが」 「まさか僕を疑っておいでですか？　僕がコソドロのような真似をすると？」 　大仰に驚いてみせる。そのわざとらしい態度に苛立つ一方、これほど感情に余裕がないのは発情期が始まっているからではないかと焦ってもいた。 「ちなみに、何が消えているのですか？」 「……軽めの睡眠薬だ」 　さすがに抑制剤だと馬鹿正直に告げることは出来ず、適当な嘘で誤魔化す。 「眠りが浅いのですか？　それは困りましたね」 「いや。そんなに強い薬じゃない。気休め程度だ」 　もっとしっかり診てもらえなどと言われたらとっさの嘘だとバレてしまうと、慌てて付け加える。 「ご自身で気休め程度と思っていらっしゃるなら、わざわざ飲む必要はないのでは？」 　痛いところを突かれて一瞬声を詰まらせる。なぜかうすら寒く感じるアレンの微笑に、誘導されたのだと気付いたが、あとの祭りだった。 「そ、それでも、薬があるというだけで精神的に落ち着くんだ。そういうものだろう」 　この嘘は良くなかったと気付いても、今更後戻りはできない。多少強引でも押し切るしかなかった。 「そうですか。てっきり眠っている間に僕に襲われるのではと警戒しているのかと心配になりました」 「そんなわけがないだろう」 　幼いころから婚約者として何度も顔を合わせてきたのだ。アレンがそんな乱暴者ではないことは分かっている。だから思わず即答したのだが、なぜだろう。アレンの纏う空気が急激に冷たくなった気がした。 「それは良かった。何しろ発情を抑える薬まで服用しているくらいですから、夫としては気になりまして」 「……っ、お前、やはり」 　声を荒らげようとするクリストフを遮るように、アレンが数歩で距離を詰めてくる。後退ろうとしたが、クリストフのすぐ後ろには棚がある。追い詰められたのは一瞬だった。 「ええ、僕が処分しておきました」 　そして悪びれもせずに白状する。 「す、捨てたのか？　勝手に？」 　驚きのあまり、声が上擦ってしまう。一度は反らした視線をアレンに戻すと、いつの間にか眼鏡を外していた彼に強引に唇を奪われた。同時に抱きすくめられ、完全に逃げ場を失う。 　機嫌が悪いからか、口づけは激しく情けも容赦も一切なかった。息継ぎの間もろくに与えてはもらえず、ようやく解放してもらえた時には、半ば酸欠のような状況になっていた。 「先ほど貴方は僕に謝罪を要求しましたが、頭を下げるべきは本来貴方なのではありませんか？」 　浅い呼吸を繰り返すクリストフを軽々抱き上げ、寝台に寝かされる。へそを曲げていても、その手つきは壊れ物を扱うように優しくて、クリストフの中にあるほんのわずかな罪の意識が増幅する。だからだろう、アレンの言葉にとっさに反論出来なかった。 「……だ、だって、それは」 　番であるアルファがいるにもかかわらず抑制剤を口にするなど、どれほど相手の自尊心を傷つける行為か、分かっていないわけではないのだ。都合がわるいから目を逸らしていただけで。この上、「お前のためだ」などと言い訳するのは見苦しいような気がして、言い淀んでしまう。 　しばしの静寂の後、しびれを切らしたアレンのため息が聞こえた。 「まあ、貴方の考えていることは大体想像がつきますがね」 　いつまで経っても呼吸が整わない。思考ももやがかかったままだ。これが単なる酸欠ではない事に気付き、クリストフは最後の力を振り絞ってアレンを押しのけようとする。 「……このまま、世継ぎが出来なければ……お前は自由になれるんだ」 　のぼせたようにぼんやりしていたせいで、口にするつもりのなかった言葉が口を衝いて出てしまう。クリストフの切なる願いを、アレンは無情にも一笑に付した。 「それは裏を返せば、世継ぎが出来れば貴方は永遠に僕のものという事ですね」 　自分勝手に解釈して、抵抗の弱まったクリストフの服を脱がしにかかる。 　もはやクリストフに抗う力は残っていなかった。身体が鉛のように重く、燃えるように熱い。抑えようのない欲求が身体を疼かせ、じきアレンを受け入れるだろう場所を潤ませていく。 「貴方はまるで、子が出来ることを咎のようにおっしゃるが」 　首筋を這うアレンの舌も吐息も、火傷しそうなほど熱くなっていた。熱っぽい視線がクリストフの肌に注がれている。 「夫が妻との間に子を望んで何が悪いというのか」 　静かだが、たしかな怒りを孕んだアレンの言葉が、クリストフの心の奥底に眠る本心を引きずり出したような気がした。 「お、俺だって……本当は、」 　お前の子が欲しい。 　そう思わず口にしてしまってから、後悔する。アレンを自分自身に縛り付けたくはないのに。 「あ……」 　それなのに、アレンが幸せそうに微笑むから、強い後悔がかすかに和らぐような気がした。 「では、合意ということでよろしいですね」 　思いの丈を愛撫に変えて、指先に至るまで余すことなく愛される。その情熱的で丁寧な愛情表現に翻弄されながらも、クリストフは確かに幸福を感じてしまっていた。 終わり