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第1話

 三波聖(みなみひじり)は、描き上がった目の前のキャンバスを暫し眺めると大きく一つ息を吐き、そっと目を瞑った。  瞬間、高校生活最後の一年間の出来事が走馬燈のように頭の中を駆け抜けていく。これを描き上げるのに、六年を要した。  高校生三年の春に描き始め、二十四歳になった今、ようやく描きあげた。  (やっと描き終わったよ、嵐太(あらた))  大きなキャンバスには、ダンクシュートを豪快に決める男性の姿。その背中には大きな翼が生えている。  達成感から一気に疲労感が襲う。そして西日が差し込む部屋の暖かさに、聖はうとうとと舟を漕ぎ始めた。  六年前ーー  聖が高校三年、嵐太が一年だった。   西嵐太(にしあらた)はバスケ部の期待のルーキーで、一年ながらに全国区であるバスケ部のレギュラーだった。男女問わずの人気者で、いつも人に囲まれているような生徒だった。二学年も違い、バスケ部と美術部となんの共通点もなく、地味でどちらかと言えば陰キャな聖ですら、学校のスーパースターのような彼の存在は知っていた。  その頃、聖は大きなコンクールで佳作を取った。聖はその絵で入選する自信があったが結果は「佳作」だった。  聖はこれ以上の物をどう描けばいいのか分からなくなった。もう、絵を描くのをやめようかとも思った。  校内ではそれでも随分と騒がれ、職員室前にその絵が飾られてしまい、その前を通る度に屈辱的な思いに晒された。  ある日、聖のその絵を規格外に上背のある男子生徒が食い入るように見入っていた。それが嵐太だった。  (やめろ……見ないでくれ!)  そう心の中で願っても、嵐太は絵を見るのをやめてはくれない。 「おまえ絵なんて分かるの?」  職員室から出てきた連れらしい男子生徒に、揶揄われるように言われている。 「いや、分かんねえけど。上手いなって。これ、校庭の桜並木だろ?」  嵐太は額の中の絵に触れると、 「写真みてえだなって」  そう言った。  嵐太の言葉に大きなショックを受けた。  (俺の絵は、そんなに無機質なのか)  その言葉で、自分は目の前のモチーフをただ描き写しているだけだったと気付かされたのだ。  それがきっかけで、聖はスランプに陥った。  その日も全く絵を描く事ができず、放課後が終わってしまった。いつものように、美術室の鍵を戻す為に職員室に行くと、 「体育館に行って、終わりにしろって声掛けてきてくれ」  そう言われ、聖は渋々体育館に向かった。  体育館の入口に立つと、キュッキュッ、と床とシューズの擦れる音とダムダムとボールをドリブルする音が扉越しからも聞こえてくる。聖はそっと扉を開けると、一人の生徒がバスケットボールを片手にドリブルをしていた。八の字を描くように器用に股にボール潜らせ、小刻みにステップをし、次の瞬間、勢い良くドリブルをしたかと思うと、リングに向かって高くジャンプした。空中で動きが止まっているかのようにも見え、聖の目にはまるで、彼の背中から大きな翼が生えているように見えた。聖の体に鳥肌が立ったのを感じた。  (なんて、綺麗なんだろう)  この躍動感ある動きを、キャンバスに描く事はできないか、ふとそんな考えが過った。  彼は片手でボールを掴み高く掲げると、そのままリングにボールを叩き込んだ。  ガゴン!っと大きな音が体育館に響いた。  彼は右手でリングを掴んだまま、暫くそのままリングにぶら下がっていた。シンとする中でギシギシとリングが軋む音だけが規則正しく聞こえる。  彼はリングから手を離すと地上に着地し、こちらを振り返った。嵐太だった。 「びっくりした……!」  本当に驚いたのだろう。目を大きく見開き、胸元に手を置いている。 「頼みがある。君をスケッチさせてくれないか?」  聖は頭で考えるより先に、そう言葉が出ていた。  相変わらず驚いたた表情は変えてはいなかったが、その答えは、 「いいよ」  そうあっさりと返事をしてきた。 「あ、ありがとう!」  聖の礼に嵐太はヘラリと笑った。 「俺は、三年の三波聖」 「先輩なんすね。俺は……」 「知ってる。西嵐太、バスケ部のスーパールーキー。早速だけど、君をスケッチさせてほしい。最終的には君の絵を描かせてほしいんだ」 「あ!もしかして、職員室前の絵って……先輩?」  こくりとその問いに答えると、 「男だったんだ。名前と絵の雰囲気で、勝手に女の子と思ってたわ」  そう言って嵐太はまたヘラリと笑うと、 「絵好きなだけ描いていいよ。その代わり描いた絵は必ず俺に見せる事」  そんな事でいいのなら、と聖は承諾した。 「これから宜しく」  聖が手を差し出すと、嵐太の大きな手が聖の手を握り返してきた。 「あ、先生が終わりにしろって」  元々の目的であった伝言を嵐太に告げ、その場を去ろうとしたが嵐太に腕を掴まれた。 「せっかくだから一緒に帰ろう」  その日から週に二度、決まった曜日に体育館に行き嵐太をスケッチし続けた。嵐太を見ていると、スケッチする手が止まらない。今までのスランプが嘘のようにスケッチブックには嵐太で埋め尽くされていった。  いつかこの躍動感溢れる嵐太の姿をキャンバスいっぱいに描いてみたいーー  いつものように、描いたスケッチブックを嵐太が真剣な眼差しで見つめている。この瞬間が、堪らなく恥ずかしい。 「こうやって見ると、俺ってカッコよく見えるよね」 「嵐太はカッコいいよ」  すんなり出てきたその言葉に、聖はハッとし顔が熱くなるのを感じた。 「先輩さ、髪切らないの?」  ふいに嵐太はそんな事を言い出し、聖の目を覆っている前髪に触れてきた。 「先輩の目、綺麗なのに」  いつも隠している目が露わになり、その目で嵐太を見上げた。  目が合ったと思うと、嵐太は見た事のない表情を浮かべた。いつもヘラヘラとしている顔はどこにもなく、バスケをしている眼差しと一緒だと思った。次の瞬間、嵐太の顔が近付いてきたと思うと、そのまま唇に柔らかい感触を感じた。それがキスなのだと分かるまで時間がかかった。されるがまま聖は体を硬らせながら、嵐太のキスを受け入れた。 「帰ろうか」  唇から暖かい感触がなくなると、何事もなかったように嵐太はそう言った。  それから、嵐太と学校でキスをするようになった。  聖の気持ちは嵐太へと真っ直ぐに向かっていった。最初こそ男同士である事に戸惑いを感じたが、すぐにそんな事はどうでも良くなった。できることなら嵐太とこの先もずっと一緒にいたいと願うようになっていた。  そして嵐太も自分と同じ気持ちだと思っていた。でなければ、好き好んで男の自分にキスなどしないだろうと。  放課後のスケッチの時間が終わると、二人は途中まで一緒に帰るのが日課になっていた。いつものように二人は並んで歩いていると、嵐太が不意に声をあげた。 「この家、出来上がったんだ」  嵐太が見上げた先にはコンクリートのモダンな作りのお洒落な一戸建ての家。 「お洒落だよね。俺も結婚したらこんな家、建てたいな」  嵐太のその言葉に、聖の目の前が真っ暗になった。胸は抉られたように痛み、膝から下に力が入らなくなる。 「先輩?」  立ち止まってしまった聖の顔を覗き込み、 「どうした?大丈夫?」  心配そうな表情を浮かべている。 「……大丈夫」  どうにか踏ん張り、無理矢理笑顔を貼り付けた。  その後、どうやって帰ったのか覚えていない。いつの間にか自分の部屋にいた。  (そうか……嵐太は俺と同じ気持ちじゃないんだ。俺を好きなわけじゃなかったんだ)  嵐太は自分との未来など考えていなかった。この先も一緒にいたいと思っていたのは自分だけだったのだ。  その事実に気付き、聖は声を出して泣いた。  自分は嵐太の足枷にしかならない。この先一緒にいれたとしても、きっと嵐太の人生の邪魔になるだけだ、そう思うと聖は嵐太と距離を取る事を決心した。そして放課後の嵐太のスケッチをやめる事にした。  最後のデッサンの日、スケッチはもうしないと告げた。 『そっか。また、スケッチしたい時はいつでも言って』  嵐太は一瞬面食らった様子はあったが、返事はそんなあっさりとしたものだった。  最初こそ自分を避ける聖に戸惑っている様子だったが、それ以上は聖に関わっては来なかった。  聖はそのまま嵐太と距離を置いたまま卒業した。  あれから六年が経った今も、聖の心にはずっと嵐太がいた。聖にとって嵐太は初恋だった。結局、自分が同性愛者なのかは嵐太以外に好きにならなかった為、分からず終いだった。  描きかけの嵐太の絵は結局処分できず、一度は自宅の倉庫に奥深く仕舞い込んだ。そしてふと思い出したように引っ張り出しては描いてみる、そしてまた仕舞うーーそれを六年間繰り返した。  一方、嵐太はBリーグのプロのバスケ選手になっていた。ネットを繋げばいくらでも嵐太の情報は溢れていた。試合はテレビ中継され、画面の中で動く嵐太を見て堪らず泣いた。まだ、こんなにも嵐太への想いは残っているのだと実感した。  そして先日、ラジオから流れてきたニュース。  嵐太の所属するチームがBリーグ優勝を果たした。嵐太はルーキーながらにMVPを獲得。更に、新人王にも選ばれた。そして母校に凱旋訪問をすると聞いた。それに触発されるように、再び絵を描き上げようと決心したのだ。

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