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第5話
「柴崎さん。…柴崎さん!」
間近で叫ばれて、ようやく亜弓は我に返った。
「あ、はい。何ですか」
「何ですかじゃないですよ。どうしたんですか、ぼんやりして。次の処方箋来てますよ」
振り向いた肩のところに白衣の女性の顔があり、そこが職場であることを思い出す。女性は看護師ではなく薬剤師なので、白衣とはいってもナース服ではない。亜弓が着ているのと同じ、すとんとした膝丈のものを着ている。
「…すいません、橋本 さん」
「お疲れですか? それなら休んでてくださいよ。調合誤ったりしたらたまりませんから……とと」
呆れたように亜弓を詰った橋本が急に居住まいを正して顔を赤らめた。その視線の先を振り向くと、総合病院1階の薬局のカウンターの前に、にこにことこちらを眺めている中村の姿があった。
「中村先生、お昼休憩ですか」
橋本は声音まで変わっている。ほとほと女に人気のある人だ、と亜弓は思った。
「うん、そう。柴崎くん、なんか疲れてるみたいだねぇ。こっちおいでよ」
「はあ」
おとなしく亜弓はカウンターに寄った。
「仕事中にまで上の空なんて、きみらしくないね」
中村にまで言われ、反省しながら自分より上背のある中村を見上げた。とたん、中村は亜弓のくちびるに指を押し付けてきた。驚いて少し身を引く。
「誘ってるの?」
囁いた後、今度は聞こえよがしに言う。
「ぽかんと口を半開きにしてるんじゃないの、みっともない。顎関節がおかしいなら診てあげようか? 口腔外科紹介する?」
そのやりとりを聞いていた薬局内の薬剤師たちが、くすくすと笑い出す。亜弓は決まり悪さと恥ずかしさに真っ赤になった。
「橋本さん、ちょっと柴崎くん借りていい? 一緒に休憩取りたいんだけど」
「はいどうぞ。なんだか仕事に身が入らないみたいですから、喝入れてきてくださいよ」
「あはは、OK。手厳しいね、橋本さんは」
そうして亜弓は、まんまと中村に連れ出されたのだった。
同じ白衣を着た、しかし職種の違う二人が、院内の食堂に向かって歩く。二人ともタイプは違えど人目を引く容姿をしているので、入院患者や見舞い客が振り返っては見とれていた。
「でもね亜弓、仕事中にボーっとしてるのはいただけないよ」
医者の顔をした中村に咎められ、亜弓は俯いた。
「医療に携わる人間の取るべき姿勢じゃないね」
「…すいません」
「何か心配事でもあるの」
次に振り仰いだ時には、中村はひどく優しい表情をしていた。こんなとき、いつも亜弓は戸惑ってしまう。
「別に…」
「そんなはずないでしょ。仕事に関しては至極真面目なきみに限って。…あ、それとも」
ふと思い出したように中村が亜弓の口元に口を寄せた。
「ゆうべしすぎた?」
昼間の明るい病院で場違いな話題を振られ、亜弓はカッと紅潮する。
「そ、そんなんじゃないです!」
「そう。じゃあ何」
「う~ん…」
唸ったきり、亜弓は黙り込んだ。
秀明のことを、自分が他人に相談する必要があるのだろうか。亜弓や中村よりもいくつか年下だとはいえ、秀明も成人して久しい、立派な大人である。自分の問題は自分で処理すべき歳だし、事実彼は他人に頼ろうとはしていない。
考え込む時の癖で、視線をぼんやりと彷徨わせている亜弓を、中村も黙ったまま見つめた。そして食堂につき、二人掛けのテーブルに向かい合わせに座りながら、ようやく口を開いた。
「亜弓ってさ。自分のことあんまり話してくれないよね」
「え?」
焦点を合わせた先の中村は寂しげに微笑していた。
「こっちから訊かなきゃ何も話してくれない。訊いても答えてくれないこともある。…僕、もう少し亜弓のこと知りたいんだけどな」
「……」
中村が甘えるような上目を使うと、亜弓は戸惑う。
時々、中村が自分を虐げるだけの暴君だったらいいのに、と思うことがある。そうなら、憎むだけ憎んで突き放すこともできるのに。
「…あの」
「なになに?」
亜弓が口を開くと、嬉しそうにテーブルに乗り出してくる。その全身から自分への思慕を感じ、そしてそれに対して悪い感情ばかりを持っているわけではない自分に気づき、亜弓は苦く息をついた。
考えてみれば、憎いと思っていたのは最初の頃だけだった。悪質な強姦は苦痛でしかなかったし、それに続いた脅迫は亜弓の精神的な部分を犯した。しかしその時期を過ぎてからの中村は、亜弓に対して誠実で優しく、仕事に向かう姿勢は尊敬に値する。
最初の部分の蟠りさえ除けば、友人になれる可能性くらいはないわけではないのかもしれない。
「俺が今同居してる奴のことなんですけど」
しかし亜弓がそう口にした瞬間、中村の眉がムッとしたように中央に寄った。
「なんで僕が、きみの浮気相手の話を聞かされなきゃなんないのさ」
「な、中村さんが訊いてきたんじゃないですか」
「もう少し考えなよ。僕がきみの口から他の男の話を聞かされて喜ぶとでも思ってんの? 自重しろっての」
「訊くから答えたのにー。だいたい、昨日ちゃんとそんなんじゃないって言ったでしょ。俺ってそんなに信用ないですか」
「ないよ。当たり前じゃない」
「そーゆーこと言いますか!?」
「だって亜弓、何も話してくんないんだもん」
「だから今話してるんじゃないですか」
「僕は亜弓の話が聞きたいの。他の男はいらないの」
「もー…」
子どもみたいな駄々をこねる中村にため息をついて、ちょうどそこへ注文を取りにきた食堂のおばちゃんに、二人は天そばときつねうどんを頼んだ。職業柄、早く出てくるものに限るのだが。
「あんたら、また麺類かい」
おばちゃんにお小言を食らって、二人は肩を竦めた。
「ここのは量だって多かないんだから、もうちょっとまともなもの食いなよ、この高給取りどもが。だから二人してそんなひょろっこいんだよ。それか早く嫁さんもらって、愛妻弁当でも作ってもらうんだねぇ」
母親のようなノリで乱暴に中村の肩をどやして、おばちゃんは厨房の中へ戻っていった。中村は頬杖をついて、その背中を見送っている。
「嫁さんねぇ。僕ら、そんな歳か」
「そりゃま、三十にもなれば」
「亜弓、僕と結婚する? そしたら毎朝僕に弁当作ってくれる?」
「は!? 冗談よしてくださいよ」
「あんまり冗談じゃないんだけどねぇ」
あはは、と中村は声を立てて笑う。
「でも、僕らもいつか結婚するのかね。僕なんか、ここの後継ぎ作んなきゃいけないんだよね。なんか考えらんないな。亜弓は?」
「…考えたことないですよ」
「僕はずっと亜弓と一緒にいたいんだけどね」
「……」
答えない亜弓に中村は小さく息をついて、椅子の背もたれに怠惰に寄りかかった。
「――で、何の話だって?」
「え?」
何が何の話かとわからない顔をした亜弓の顔を見ずに、中村は脚を組む。
「同居人の話。そいつが何だって?」
「聞いてくれるんですか」
「亜弓の言うことなら何でも聞くよ、僕は」
半ば自棄のように吐きながら、それでも聞いてくれるという中村に、亜弓は知らず笑みを上らせた。
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