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第6話

「…あの。プライバシー保護のために名前は伏せますけど。その…」  けれどいざとなると言いにくく、人目を憚るように亜弓は中村の耳に口を寄せた。 「売り、やってるんです」 「へぇ」  中村は声高に亜弓を見返した。 「それで受け専」 「いや、男女は問わないらしいんですけど、男相手ではそうみたいです」 「うわ、頑張るね、両刀か。歳いくつ?」 「二十六…かな」 「…なに、もう人様に心配かけて許される歳でもないじゃない」 「はあ…」  それはそうなのだが。 「そもそも、どんないきさつで同居することになったの」 「それは、そいつが近所で行き倒れてたとこを拾って、そのまま置いてるんですけど」  亜弓の答えに信じられないという顔をして、中村は頭を振った。 「…きみね。お人好しもいい加減にしておいた方が身のためだと思うよ」 「だけど放っておけないですよ。住所不定の栄養失調患者ですよ?」 「だからって犬猫じゃあるまいし、そう簡単に拾ってくるもんじゃないよ。せめて僕に一言相談してくれても良かったんじゃない? とりあえずここに入院させて、君がどうしても心配だって言うなら仮の住居くらい用意してやる余裕は……。  ――ちょっと待て。きみんとこのマンション、1DKじゃないか。そいつどこに寝泊りしてるの」 「どこって、俺の寝室にソファベッド入れて」 「同じ部屋で寝てるの!?」  中村は立ち上がらんばかりの勢いでテーブルに乗り出した。  その時おずおずとバイトの女の子が天そばときつねうどんを持ってきてテーブルに置き、頬を染めてちらちらと中村を覗き見ながら戻っていった。 (かわいそうに、あの子、中村さんの好きな相手が俺だって知ったら卒倒するかな)  タチの悪い同情をかけながら、亜弓は割り箸を割っておあげをつゆに沈めた。 「だって他に泊めるとこないから。そんな、妙なこと考えなくて大丈夫ですよ。生活時間帯違うし、あんまり家に帰ってこないし」 「あ~っ、もうっ。僕はそんな得体の知れない男よりきみの方が心配だよっ」  がしゃがしゃと整った髪をかき回し、中村は衣のおかげで肥大した海老天をつまみ上げた。箸の持ち方が少しおかしいのに、なぜ安定してつまめるのかと亜弓は感心する。 「んで? そいつが何」 「あ。なんかここんとこ顔に傷つけて帰ってくるんですよ。頬腫らして青痣作って」 「そりゃまた。商売道具に」 「はあ。で、もうそんな奴に買われるのはやめろって言うんですけど、聞かなくて」 「ふうん」 「なんでですかね。なんでわざわざそんな痛い思いして。客選ぶ権利くらいあるでしょ」 「…マゾだとか」 「マゾ」  それは思いつかなかった、と亜弓は目を丸くした。 「痛めつけられて悦ぶ人種もいるわけさ。僕はご免だけどね、痛い思いするのもさせるのも。…食べなよ、冷めるよ」 「でも、絶対望んでやってるわけじゃないはずなんだけどな」 「なんでわかるの」 「勘です」 「きみの勘ほどあてになんないものもないよ」 「わ、ひどいなそれ」  抗議しながら、亜弓は昨夜の秀明の表情を思い出していた。  似合ってるだろ――そう言って自嘲の笑みを口元に刻んでいた秀明。その時の今にも泣き出しそうな表情が、亜弓の瞼に焼きついて離れないのだ。  もし自分からそうされることを望んでいるのだとしたら、あんな顔はしないはず。何かやむをえない事情があるのではないか。もしそうなら、自分にできることはないか。  口にはしない無言の主張を、中村は物言いたげな亜弓の様子から察し、呆れたようにため息をついて視線を逸らした。 「…きみがそいつに売りをやめろって言うのと同じように、僕はきみに、そいつと関わるのをやめろって言いたいね」 「中村さん」 「きみはそいつと寝てない。そいつの客でも恋人でもない。通りすがりの他人だ。そうだろ。踏み込んでいい場所じゃないんだよ」 「……」 「なんでそいつに固執するの。そいつが好きなの」 「……そんなんじゃないです」  そんなんじゃない。ただ――重なるのだ、自分の姿と。自分にとってどうしても譲れない、やむをえない事情で、男に抱かれることを甘んじて受け入れている自分と。  双方黙って丼の中身を片付ける。不快な沈黙に押し包まれた、ちょうどそこへ院内放送のチャイムが鳴った。 『外科一棟、中村先生。大至急担当病棟へお戻りください。繰り返します…』 「しまった、電話切ってた」  中村はすぐに立ち上がった。厳しい面差しはさっきとは別人のようだ。 「悪い、話の途中で。ここ、後で返すから払っといてくれ」 「おごりますよ」  背中に投げかけた言葉が、歩みを早める中村に聞こえていたかどうか。角を曲がって見えなくなった白衣の姿を、亜弓は黙って見送り、テーブルに両肘をついて顔を覆った。 「お義父(とう)さん、お義母(かあ)さん……」  呟きは、喉の奥で掠れて消えた。

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