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第7話

 その後二週間ほど、亜弓と中村の仲は非常にぎこちなかった。  この間も秀明は売りを続けていたし、暴力を受けて帰ってくることも間々あった。  中村は、話せばちゃんと聞いてくれる。けれどそれに甘えてはいけないことも、亜弓は分かっていた。中村にとって面白い話題などではない。分かっているから、話さないようにした。  しかし話すことなく整理のつかない考えは、日々亜弓の思考を支配していく。頭の中が秀明のことでいっぱいなっている今、中村との会話に違う話題を出したところで長くは続かない。そうこうしているうちに、だんだん中村の前での亜弓の口数は減っていった。  中村は中村で、亜弓の言いたいことは分かっている。でもそんな話を聞きたいのではない。次第に二人の間の沈黙は増え、その重苦しい沈黙がいやで、亜弓は中村に会うのを避けるようになり、しばらく顔も合わせていない。  亜弓はため息をついた。 (秀明はまだ変態野郎と会ってるみたいだし、中村さんは機嫌悪いし…ままならないな…。やっぱり秀明とは関わるべきじゃなかったのかな。そうすれば……)  ――中村さんと一緒にいられたのに。  そう考えて、亜弓はハッと首を振った。 (何!? 何考えてんの俺!? べつに俺、中村さんの恋人でもないし、中村さんのこと好きでもないしっ)  そして肩を落とし、またため息をつく。それが妙に甘い。 (べつに、俺――)  もう一度首を振って、浮かんだ妙な考えを払拭した。  そこには触れてはいけないような気がする。それに触れることは、自分がどうにかなってしまうような危険をはらんでいる気がする。  亜弓はロッカーに白衣を掛け、コートを取り出して肩に引っ掛けた。 「お先ー、お疲れさまでーす」  同僚に声を掛け、同じ挨拶を受けて病院を出る。同じ挨拶を受けて病院を出る。髪をさらう冬の冷たい風に腕を抱き、背中を丸めて帰路についた。  バスと電車を乗り継いで部屋に帰ると、珍しく秀明がいた。 「お帰り」 「ただいま。今日は出かけないのか?」 「誰もお呼びじゃないみたいで」  秀明は鳴らない携帯を掲げてみせた。  実際、秀明が家にいることは少ない。買い物に出ていたり、その手の飲み屋に出入りしていたり、そうでなければ寝室で眠っている。秀明の存在そのものは至って無害なのである。  ダイニングテーブルで雑誌を読んでいる秀明の手元からコーヒーを横取りしたところで、固定電話が鳴った。 「はい、柴崎です」  受話器を耳に当てると、やわらかな女性の声が流れ出した。 『亜弓さん?』 「あ、お義母さん」 『今までお仕事だったの? さっきも電話したんだけれど』  秀明は家の電話を決して取らない。 「はい。今帰ったとこで」 『そう。大変ねぇ、お疲れ様』 「ええと…お義父さんに何かありましたか」  亜弓は、つい先日実家で高熱を発して倒れ、地元の病院に担ぎ込まれた義父の話を持ち出した。 『ああ、そうそう。あのね、お父さん、軽い肺炎ですって。もう症状はなくなってきてるからって、今日退院したのよ』 「ああ、そうか、良かった。心配してたんだよ、お義父さんに何かあったら、お義母さん一人じゃ大変だろうし」  七十を間近に控えた義母は、品よく声を抑えて笑った。 『大丈夫よ。もしそうなっても、亜弓さんが立派に自立してくれてるから、お母さんちっとも心配じゃないもの。本当に偉いわ、ちゃんと薬剤師さんになって、そんな大きな病院に勤めてるんですもの。お父さんもお母さんも安心よ、嬉しいわ』  褒められたことを素直に喜べず、痛みとともに亜弓は苦い笑いをこぼした。  ――重い。苦しい。苦しい。 『まあ、またそのうち顔見せに帰っていらっしゃいな。じゃあね。疲れてるんでしょうから、ゆっくりおやすみなさいね』 「はい」  元気かどうかを確認するためだったらしい、短い電話を切って、呆然と思う。  あの義母が、義父がいなければ。あの夫婦に引き取られていなければ。自分はどうしていただろう。  中村から受けた最初の強姦は免れられなかったかもしれないが、それ以後の誘いを、自分はどうしていただろう。従わなければ解雇すると脅され、口外することもできず、ただ受け入れるしかできなかったけれど。  もしかして、拒めていたのではないだろうか。万一それで本当に解雇されていたとしても、以前勤めていて中村総合病院へ紹介してくれた、あの小さな街の薬局へ戻るなり、他の道を考えることもできたのではないだろうか。  あの人たちの期待に応え、それに報いることが、自分に唯一できる感謝の表明のつもりだった。そしてあの人たちが自分を引き取ってくれたことを感謝こそすれ、後悔などしたこともなかったが、今は時々、他の選択を考えてしまうことがある。  そしてそんな自分の不義理が、憎い。

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