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第10話

 非常に言いにくいことを、亜弓は言いにくそうに小さく口にした。その後、怯えたように肩を縮めた。自分が許されざる罪を犯したと思っているかのようだった。  けれど、秀明は亜弓が一人で抱えてきた苦悩を、理解することができるのだった。亜弓がどれだけの罪悪感に苛まれ、その身を恥じて生きてきたか。亜弓の気持ちを自分のものと置き換えて感じることができるのだった。  少し迷って、秀明は笑みを作った。 「…じゃあ、亜弓は俺と同じだ」  そう言ってやれば、少しは安心させられるだろうか。 「俺も、小さい頃に親父にやられた。俺の場合、そっちまで表沙汰になっちまって、結局母親が俺を引き取るって形で両親離婚しちゃってさ。ところが俺のはそこじゃ終わらねえの。なんかもうすっかり淫乱な体に仕込まれちゃって、俺、セックスなしじゃいらんなくなっちゃったのね。男でも女でも相手はどっちでもいいんだけど、どうせ男相手にするなら受けやりたいって感じなんだけど。ま、客によっては逆もあるけどね。で、今の客の中の俺を殴る奴ってのが、実の親父なんだわ」  さすがに亜弓もそれには目を丸くする。こともなげに秀明はそんなことを告白する。 「向こうは知ってるのか、息子だって」 「いんや、たぶん気づいてない。離婚したのなんて、ずいぶん昔の話だもん」  だが、口調から察せられるほど秀明の心中が軽くもないことは、亜弓にも分かる。眉も微妙に歪んでいる。 「…俺、たぶん親父にもう一回やられるためにずっと売りやってたんだろうと思う」 「……」 「小さい頃は、親父がそうやって俺のことを抱くことで、俺は安心してたんだな。愛されてるって。でも、両親離婚して離れて、どうしていいかわかんなくなったんだ。抱いてやろうかって言われるから金で売って、抱いてって言われるから金で抱いて、なんかもうそれが手段なのか目的なのかもさ、わかんなくて。抱くのも抱かれるのかも、たぶん……愛されたかったからなんだろうけど」  苦笑して、秀明は俯く。 「でも大人になると、やっぱ分かってくるじゃん。親父が、ほんとに俺を愛してたから抱いてたのかどうか。でも疑いだすと俺の存在が崩れてっちゃいそうで…だから確かめたかったんだ」 「それで――」  亜弓の手が、そっと秀明に触れる。 「親父さんと何回か会って、それで秀明はどうするんだ?」  瞼を伏せて、秀明は微笑んだ。 「売りは、もうやめようと思った」 「……」 「金で抱く抱かれるの関係作ったって、意味がないって分かった。やっと。親父に抱かれて、でも結局、親父も俺を愛しちゃいなかった。売りを続ける中に、俺の目的はないって分かったんだ。だから売りはやめる」 「…そう」  亜弓は心底安心したように、優しい笑みを秀明に向ける。自分に触れる亜弓の手を、同じ優しさで秀明はそっと取った。 「それに、もっと大事なものが見えた」 「なに?」  しばし黙って、秀明は亜弓の、穢れを知っていてなお無垢な瞳を見つめた。  同じような境遇であったことを知って、なぜ自分が亜弓に惹かれたのかを悟る。  引き合ったのは互いの不幸だ。 「俺、あんたが好きなんだ」 「――…」  息を吸ったまま吐くのを忘れてしまうくらい、亜弓は驚いた。まさか秀明から自分に、そんな感情が向けられるとは思っていなかったのだ。  そんな亜弓に、ふ、と秀明は苦笑する。 「でも、自覚したと同時に失恋だな、こりゃ」 「え?」 「亜弓のココには、先客がいるみたい」  そう言って秀明は、亜弓の胸に人差し指を突きつける。 「…秀明?」 「亜弓は、さっき中村サンに殴られて、どう思ったの」  問いに、亜弓の頬がすっと血の気を失う。 「…なんか…ショックで」  くちびるが戦慄いた。  涙が出そうになり、けれど中村の暴力を一方的に責めることのできない自分から目を逸らせないことには既に気づいていた。 「俺があの人を…こんなに追い詰めてたなんて」  亜弓が中村を見ていなかったと、言った中村の言葉を胸に返して痛む。その通りだ。見ないようにしていたのだから。 「俺は、何を見てたのかな」  あるいは誰の目を通して見ていたのか。義母か、義父か、……実父か。 「あの人との関係を、考えようともしないで」  俯けた瞼から、ついに溢れ出た大粒の涙がぽつりと落ちる。それを見て、秀明がそっと背中を撫でてくれた。  中村との関係など、考えるまでもないと言ってしまえば話は終わる。中村が亜弓に勝手に惚れて、感情を持て余して強姦し、その後も手篭めにするために脅迫し、亜弓は背に腹をかえられず従った。  しかしそんな相関図では説明がつかないことを、亜弓は知っている。中村は亜弓を力づくで犯すだけの暴君ではなかったし、亜弓も中村をそうは思っていなかった。  被害者意識を持ち続けるのは楽なことだったと、今頃になって自らの怠惰が悔やまれる。  では、自分は中村のことをどう思ってたのか。自分にとっての何だと思っていたのか。 「俺が思うに、亜弓は」  秀明の目の色に何かを見て、亜弓は次に続く言葉を意識的に拒絶しようとした。 「中村サンのことが好きだったんだね」  しかし耳を通った声は不思議なほど胸の奥に馴染む。  そうして冷たいものがそこからじわじわと沁みわたり、内臓が氷の手につかみ出されるような感覚に出会う。どこかが痛い。 「亜弓、自分の両親の話、中村さんにしたことないだろ」 「な…んで」 「亜弓は中村さんに知られたくなかったんだよ。自分にそういう後ろ暗い過去があるってことを」  痛むのは中村に殴られた頬だと気づく。 「だって…そんなこと話す必要ないと思ったし…」 「初めのうちは、だろ。中村さんが亜弓のことを知りたがったことってなかった? そういう時亜弓は、わざわざ隠したんじゃないの?」 「あ……」  その通りである。曖昧に笑って、ごまかして、はぐらかして、それとなく話題を逸らしていたのは亜弓の方だ。  秀明は優しく微笑む。 「好きだから知ってほしいと思う相手と、好きだから知られたくない相手と、どっちもあると思うよ。優しくて自分を大事にしてくれる中村さんを、亜弓は好きになった。でも強姦から始まったってとこに蟠りが残っちゃって、大事なとこ、考えそびれちゃってたんだね」  それはまるで、天啓のようだった。

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